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世紀末のジャーナリスト
33.遺す物、受け継ぐ者
しおりを挟む瑠衣のバックパックを取りに行く間に、透が考えていたことは一つだけ。間に合ってほしい。帰還と同時に死が瑠衣を迎えに来るなんてことは、あってはならない。それだけは避けかった。
見捨てればよかったのに、なんて悪魔のささやきが頭の奥から聞こえてくる。いつもなら、関係のない他人を救うことなくその声に従っていた。だが、今はその声に反抗したくなった。
この世界を地獄に変えた神様は、透の願いを叶えてくれたようで、透が戻ってきたときも瑠衣はまだ生きていた。ソファに寝かされた彼女のそばでは、真穂が手を握って話し込んでいる。真穂の目にはまだ涙が流れていた。
「取ってきましたよ」
透が言うと、瑠衣が起き上がる。出て行った時よりも顔色が悪くなっていた。
「じゃあ……セットしてくれるかな。動画にするから……それで、わたしを映して」
言われて、透は準備する。三脚を取り付けて、ソファに座る瑠衣に高さを合わせた。
真穂は悲痛な表情のまま、邪魔にならないように、透の側に来る。真穂の髪の毛は瑠衣の血でベタベタになっていた。透がタオルを渡すと、真穂は髪を綺麗にする前に涙を拭った。
「準備できました」
透が言うと、瑠衣は頷く。
「やあ……わたしは、姫川瑠衣……この死人だらけの世界で、生きてる人を取材してた、世紀末ジャーナリストよ」
将来この映像を見るであろう者たちに向けて、瑠衣は手を振る。
「わたしは……ついさっき噛まれた。だから、この動画を見てるときに、わたしはもうこの世にはいないわ。すごいベタなセリフね、でも死人になってさまようことはないから。優秀なアシスタント二人が、ちゃんと始末をつけてくれるもの……ね?」
瑠衣は透たちにちらりと視線を向ける。喋り終えて、瑠衣は咳き込んだ。口を抑えていた手には血がついていた。
「瑠衣さん……」
駆け寄ろうとする真穂を透は止めた。透は首を横に振る。一分一秒でも、今の瑠衣には必要なのだ。
真穂は再び涙を流す。悲劇に対する涙ではなく、無力な自分を呪うように、声を殺して、悔しそうに。
真穂の目は一年前と同じ色をしていた。学校から逃げ、ビルの屋上から喰らい尽くされる世界を見ていたあのときと同じ。なにもできることはないのに、手を差し伸べようとするその気持ちは理解はできた。
でも自分たちにできることはない、感染した瑠衣を救う方法などない。それを透はわかっていた。だから、瑠衣の好きなようにさせてやりたかった。そのために、透はわざわざビデオカメラを持って帰ったのだから。
「この世界には……いろんな人が居た。毎日死人たちに怯えて生きる人に、優雅に暮らして前の世界を忘れれない人。家族や見知った仲間とコミュニティを築く人たち。まったく接点のない者同士で、手を取り合って生きてく人たち……」
一つ一つを思い出すように、瑠衣は言葉を噛みしめる。映し出されている映像には、すでに弱気な彼女は消えていた。苦痛に抗いながら、最期に残す言葉を伝えようとしている。
「わたしが撮った動画や……写真の中には、この世界で生きる人がたくさん映し出されてる。良い人も悪い人も……みーんな……」
瑠衣は咳き込んだ。血の塊を吐き捨てると、口を拭う。「ごめん」と一言告げてから瑠衣は続けた。
「あのパンデミックから一年……わたしはいろんな人に話を訊いたり、動画や写真を撮ったりして……全部残そうとした。いつか、世界がまた元どおりになったときのために。必死に生きてる彼らを忘れないように……多くの人に知ってほしくて」
瑠衣は天井を見上げる。息を整えると、カメラにできる限りの笑顔を向けた。
「この一年は、わたしにとって……最高の一年だったわ。不謹慎だけど……もうこの世にいなくなるから、許してね」
瑠衣は、これから迎えに来る死にも物怖じしない、昂然とした表情を見せた。
「わたしにとって……この世界は、すごく危険で、とても自由だった」
屈託のない笑顔を見せた瑠衣は、透にカメラを切るように言う。
「どう? いい絵撮れてた?」
「ええ……」
瑠衣は笑う。真穂が瑠衣の元へと寄り添い、その体を抱きしめた。
「もう……泣き虫だなあ、真穂ちゃん」
「ごめんなさい……何もできなくて……」
「いいんだよ。真穂ちゃんは、笑顔でいなよ……その方が透くんも、可愛いと思うでしょ?」
「……まあ、そうっすね」
答えにくい質問を投げかけられ、透は口ごもりながらも答える。瑠衣がわざとらしくイタズラな笑みを見せた。カメラを回していた先程とは違って、痛みや苦しみに耐えながら見せた笑みを、透は複雑な思いで見返す。
感染のペースは思ったより早いのだろう。瑠衣の顔はみるみるうちに青ざめていった。そんな瑠衣に真穂はいつまでもしがみつくように抱きついていた。
「……もう一個、お願いがあるんだけど、いい?」
真穂とのハグを終えた瑠衣は二人を交互に見た。
「わたしのインタビューを……誰かに渡してもらえる? できたら、広めてくれそうな人に」
瑠衣はバックパックを指差す。
「個展は諦めるよ……でも、伝えることは諦めてない。いろいろな人に知ってほしいの。まだ生きる望みはあるんだってこと、それを求める人や与えてくれる人は、この世界にまだ残ってるんだってこと」
「やります……絶対に瑠衣さんが撮ってくれたものを伝えますから!」
真穂の言葉に、瑠衣は安心したように微笑む。力なく今にも眠りに落ちてしまいそうなその様子は、一度まぶたを閉じれば二度と目覚めることのないように思えた。
無理に体を揺するべきだろうか。だが、苦しみに佇ませることを強要すべきではないのかもしれない、と透は思った。死はすぐそこに訪れている。いくら体を揺すろうとも、目覚めなくなるときはいずれくるのだ。
そして、目覚めるそのときも──。
重たいまぶたを無理矢理開けるように、瑠衣は再び目を開く
「もし、このカメラで次になにかを撮るときは……本当に幸せそうな絵がいいな。ゾンビだらけの世界なんか……悪い夢だったって思えるくらい……幸せな映像……が……」
言葉の最後は、聞き取れなくなるくらい力がなくなっていた。
「約束します。必ず……」
真穂が瑠衣の手を握った。瑠衣の方は握り返す力すら出せずにいた。
「……最期に二人に会えて、よかったよ……」
それから一時間後に、姫川瑠衣は息を引き取った。
死を迎えた彼女の頭に透はナイフを突き立て、完全に沈黙させた。
真穂の涙はもう止まっていた。ただ、空虚なもの瞳で瑠衣を見つめていた。もう動くことのない彼女の骸を、じっと見つめていた。
透は、側に寄り添って真穂を落ち着かせた。まるで小さな妹でもあやすように。そのうち日が暮れて、夜の帳が下された。
泣き疲れた真穂がいつの間にか眠っても、なにも文句は言わなかった。
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