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第十五謎:読者の仲間と私たち IQ100(一話完結)

緑青と赤錆

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 朝から降り続く細かい雨が百済菜くだらなの街を覆っていた。通りを歩く人も少なく、ときおり通る車が水をはねていく音も事務所の中にまで聞こえてくる。
 そんな中、久しぶりにこの武者小路 探偵事務所へお客様が来ていた。といっても本来の仕事とはかけ離れた依頼だったので、僕の出番は一切なし。

「先生にはご無理を言って申し訳ありませんでした。本当に助かりました」

 少ししわの目立つグレーのスーツを着た岸和田さんがソファへ座ったまま深々と頭を下げた。図書館の司書をしているという、五十歳を越えたくらいのおとなしそうな方だ。

「いえ、お役に立ててよかったです」

 テーブルを挟んで座る、所長の武者小路 耕助――僕の先輩が笑顔で答える。
 その隣に座る豪徳寺 美咲さんもうれしそうに岸和田さんへ話し掛けた。

「わたくしも耕助さまとご一緒にお仕事ができるなんて思ってもいなかったので、とても楽しく翻訳させていただきました。また機会があればぜひ」

 美咲さんは自称・先輩のフィアンセ、先輩に言わせると家族ぐるみの付き合いがある幼なじみ。彼女の思いはそばで見ている僕にも伝わってくる。
 それなのに天然な先輩はまったくと言っていいほど意識していないし、それが理由で美咲さんは僕と先輩の仲を疑っている。ことあるごとに否定しているのだけれど一向に信じてくれない。

 今回の依頼は英文で書かれた論文の梗概こうがいを翻訳するというもの。そこで『シャーロックホームズにおける仮説演繹法かせつえんえきほうの現代社会への応用』を研究するためにイギリスへ留学していた美咲さんに白羽の矢が立ったのだ。
 先輩と一緒に、しかも僕が関わってくる可能性がないのだから彼女も喜んで引き受けたに違いない。

「どうもありがとうございました」

 扉の前で岸和田さんはもういちど深々と頭を下げて事務所を後にした。
 お客様に出したカップを片付けながら二人へ声を掛ける。

「よかったですね、依頼された期限に間に合って」
「うん。これも美咲さんのおかげだよ」
「いえ、耕助さまの助言あってのことですわ」
「いやいや美咲さんがいてくれたからこそ、ですよ」
「そんなぁ。耕助さまったら……」

 はいはい。続きは二人のときにやってくださいねー。
 それにしても、どうして翻訳の依頼が探偵事務所へ来たのだろう。先輩の知人だということだったけれど。

「先輩、岸和田さんとは長いお付き合いなんですか?」
「お付き合いというほどではないよ。私がいつも図書館で借りる科学系雑誌を岸和田さんも愛読しているそうでね。読者仲間といったところかな。専門的な本だから借りる人も少なくて私のことを覚えていてくれたらしい」
「そうだったんですか」
「専門図書を宣伝するために毎月、梗概を和訳して図書館に掲示しているのだけれど、翻訳を頼んでいた人が急病で入院したんだって」
「それでうちへ相談に?」
「私ならば科学に興味もあるし、何とかしてくれると思ったんじゃないかな」
「でも探偵事務所に相談することではない気もしますけど」
「ほら、私って探偵だから」

 まったく理由になっていない。
 でも先輩のことだから、もし美咲さんがいなくても辞書を片手にやってのけた気がする。

「梗概って論文の概要みたいなものですよね。どんな内容だったんですか」

 先輩の隣でずっとニコニコしている美咲さんへ聞いてみた。

「十年以上前のものですけれど、緑青ろくしょうの安全性と抗菌作用について書かれていました。専門用語や独特な言い回しが多くて、わたくし一人では手に負えませんでした」

 そう言うと隣に座る先輩を見つめた。それに気づかず、先輩が後を続ける。

「緑青は猛毒だと言われていた時期があって、昭和六十年ごろまでは教科書にも記載されていたんだ。実は安全で抗菌作用があるという内容は興味をひくと岸和田さんは考えたみたいだね」
「緑青って銅のさびですよね。自由の女神とか鎌倉の大仏とかも、あのさびのおかげで銅の腐食が抑えられるって聞いたことがあります」
「鉄の赤錆あかさびは内部まで腐食が進行していくけれど、緑青は表面に安定した被膜を作るからかえって対候性が高くなる。建築材料ではあらかじめ人工的に緑青を発生させているものもあるよ」

 錆といっても色々な性質があるんだなぁ。

「さて、翻訳の依頼という珍しい仕事も美咲さんのおかげで無事に終わったことだし、我が事務所恒例の謎解きタイムといこうじゃないか」

 いきなり芝居がかった口調で、先輩がジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。どうやら今日は問題を作ってあるようだ。

「今日は仲間分けだよ。メモの用意はいいかな」

 もう慣れたもので美咲さんも僕もすぐに手帳やノートを取り出した。

「今からいう言葉の中で緑青の仲間を見つけて欲しい。赤錆、銅板、鉄板、適材、適所、科学、語学、作者、読者。さぁどうぞ」

 また何だかよく分からない問題だ。先輩に聞き直して九つの単語を書きとった。
 それぞれに関連がありそうでなさそうな……いったい、何から手をつければいいんだろう。
 緑青の仲間ということは銅板は間違いないとして、錆の一種ということなら赤錆か。鉄板も金属だから仲間? でも他の単語との関係性が分からない。

「耕助さま、仲間分けということは二つのグループになるのですか」
「緑青の仲間とそうでないものたち、という意味では二つですが、そうでないものたちに共通点はありません」
「今回はヒントもなしですか」
「もうヒントが欲しいの、鈴木くんは。そうだなぁ。仲間は四個」

 四個……あれ? 同じ字を使った単語が四組ある。板、適、学、者、それぞれのうち一つが仲間なのか。それとも二組?
 どちらにしろ赤錆は仲間じゃない気がするけれど、理由が分からない。
 金属絡みで銅板と鉄板、緑青を扱った論文の翻訳と言うことで科学と語学。この四個と言いたいところだけれど、そうだとしたら他の単語が候補に入っているはずはない。

「緑青って難しい読み方ですけれど、他の単語はごく一般的ですし……」

 美咲さんもまだ手掛かりはつかめていないみたいだ。
 その隣でペンを持って何やら手帳に書いていた先輩が顔を上げた。

「鳴門は仲間だけれど、津軽は仲間じゃない。関空は仲間だけれど、羽田は仲間じゃない。これも大きなヒントかな」

 海峡や空港といった仲間同士に見えても一方は違う。同じ錆でも赤錆は違う。やっぱり四組のうちのどちらかが仲間なんだ。
 緑青と鳴門、関空の共通点が分かれば全て解ける。
 どれも異なるジャンルの単語だし読み方に規則性があるわけでもない。
 そして問題の四組には共通した文字が使われている。つまり、組み合わせたもう一字がカギを握っているということか。
 字の違いかぁ……待てよ。

 スマホを取り出して辞書アプリを立ち上げた。緑、青と入力してみる。
 次に鳴、門――やった、ビンゴだ!
 他の文字も確認してみた。

「先輩、分かりました」
「解けたの?」
「緑青の仲間は銅板、適所、語学、読者の四個です」
「お見事。正解だよ」
「どうしてその四個なのですか」

 先輩に促されて美咲さんへ、字の違いに着目した経緯を話した。

「つまり、銅、所、語、読に共通点があるのですね」
「そうです。正確には所だけ青と同じ、他は緑と同じということになります」
「あら、もしかして……画数、ですか」

 美咲さんが指で文字を書きながら確かめている。

「緑青の緑は十四画、青は八画。仲間の単語はすべて同じ画数の組み合わせでした」
「共通した文字ではなく組み合わせた文字に着目したのがポイントだったね。鈴木くんの成長を感じるよ」
「耕助さまは、鈴木さまのことが可愛くて仕方ないみたいですね」

 美咲さんが少しねたように言った。

「ええ、そうですね」笑顔で先輩が答える。

 あちゃー、また彼女が勘違いしちゃうよ。先輩も「助手として期待しているからです」とか、ごまかせばいいのに。素直すぎる性格の先輩には、空気を読むなんて期待できないのは分かっているけれど。
 でもその後に続けた言葉で美咲さんも納得したように微笑んだ。

「鈴木くんも、もちろん美咲さんも私にとって大切な仲間ですから。みんなで一緒に成長できるのはうれしいことです」

 たまには先輩もいいことを言うんだな。



―第十五謎:読者の仲間と私たち 終わり―
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