さんざめく左手 ― よろず屋・月翔 散冴 ―

流々(るる)

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第四章 長野県T町

第三十四話 犯人

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 サイドボードの時計に目をやり、散冴は腰を下ろしていたベッドから立ち上がった。クローゼットからモスグリーンのジャケットを取り出す。最後に黒い山高帽をかぶるとホテルの部屋を後にした。
 フロントにキーを預け、ロビーの片隅でスマホを取り出す。

「ええ、そうです。よろしくお願いします」
 通話を終えると口を一文字に結び、エントランスへ向かう。舗道は街灯に照らされ青白く光っていた。



 駅の灯りも見えなくなると、海からの風が散冴の頬へ強く吹きつけた。人影はとうに途絶え、闇の中にびたガードレールが点々と浮かび上がっている。
 コンテナが並ぶ脇を通り抜けて埠頭に出た。
 整然と連なる鉄の箱は壁となり、いま来たばかりの道路さえも見通せない。
 散冴はジャケットの内側へ右手を差し入れた。左の内ポケットから懐中時計を取り出し、わずかな明かりをたよりに時刻を確かめる。
 ふっと顔を上げた視線の先には人影があった。
 コンテナの影に入っていて顔は見えない。
 散冴は懐中時計を戻すと、ゆっくりと歩を進めた。
「止まれ!」
 男の声がした。
 散冴が立ち止まる。
「警視庁の赤池刑事、ですよね」
 岸壁に打ちつける波の音だけが闇に響く。
「やはりな」
 そう言うと、男は歩み寄り薄明かりの下に出てきた。御園の部下、赤池だった。

 赤池は散冴と五メートルほどまで近づくと足を止めた。
「なぜ俺だと」
「ずっと引っ掛かっていたのは、タイミングでした」
 何も言わずに赤池は散冴の言葉を待っている。
「林が殺されたのは、私が彼のもとを訪れるタイミングを狙ったとしか思えません。それに彼は背中から銃で撃たれていた。つまり安心して背中を見せられる関係だったということです。この二点から、敵対する神栄会はあり得ない。まず組織内の犯行を疑いました」
警察我々の見立てと同じだな。俺が龍麒団の人間だとでも言うのか」
 赤池は表情を変えず淡々と言葉を繋ぐ。
「ええ。違いますか?」
 また波音だけが二人の間に流れる。
 数歩近づいた散冴が口を開いた。
「あのとき、現場に絶妙なタイミングで駆けつけたのはあなたたちでした。でも御園さんとは別行動だったそうですね」
「別におかしなことじゃない」
「防犯ビデオに写っていた黒いダウンを着ていた男はあなただった。あなたなら銃の扱いにも慣れている。林を殺した後、私が来るまで建物内に隠れていて入れ替わりにビデオの細工をした。男が去っていくのを見たという証言はあなただけです」
「あのときの俺は黒いダウンなど着ていない」
「どこかに隠しておいて処理した。あなたは私と御園さんを部屋に残して、いなくなった時間帯がありました」
「通報してきたのは俺ではない」
「それくらいどうにでもなるのでは。あなたが使っている情報屋にでも頼めばいい。管轄が違うから面倒になるとでも言って電話させたのでしょう」
 黙っている赤池へまた一歩近づいた散冴が言葉を続ける。
「もういいじゃありませんか。いまあなたがここにいることが全てです」

「俺は龍麒団の人間なんかじゃない! 警察官だ」
 赤池は振り絞るような声を散冴へ投げつけた。
「先日、大城と話をしたときに彼はこんなことを言っていました。警察の情報を私から探るつもりかとたずねたら、と。このとき、龍麒団の内通者が警察にいると確信しました」
「俺は……警察官だ」
「私も疑問でした。あなたと初めて会ったとき、正義感の強い方だという印象を持ちましたから。それがどうして……」
 赤池は視線を落とし、何も答えない。

AAAトリプルエー

 散冴の一言に赤池が反応した。上げた顔には驚きの表情が浮かんでいる。
「話していただけませんか」
 静かにうながした散冴を赤池はじっと見つめ、おもむろに口を開く。
「俺は頭でっかちのキャリアにはなりたくなかったんだ。現場でも実績を上げておきたかった。だから組対そたいに配属されてから、ウチの課が追っていた龍麒団の一人に近づいた」
 散冴から目を背け、暗くうねる波に顔を向けたまま続ける。
「情報を聞き出そうと、こっちはうまく手なずけていたつもりだったが奴らの方が上手うわてだった。俺を油断させようとしていたんだ。あの日、あいつと酒を飲んだ時に泥酔してしまった。おそらく薬を盛られたんだろう」
「そのときにAAAを?」
「すぐには気づかなかった。二、三日してイラつきがひどく、やたらと喉が渇くようになった。おかしいと思っていたところへ、あいつから勝ち誇ったような電話があったよ。あのときのショックは今でも忘れない」
 赤池は眉間にしわを寄せて視線を散冴に戻した。
「俺は開き直った。AAAの禁断症状は辛い。ならばこのまま薬と引き換えに奴らへ情報を流しながら、こっちも情報を手に入れてやる、と。龍麒団を壊滅に追い込みさえすれば、俺のやったことなど些細ささいなものだ」
「でもあなたは殺人を犯してしまった」

 散冴を見据えたまま、赤池が抑揚のない声を返す。
月翔つきかけ、お前のせいだよ」
「私の?」
「お前が公安ウチの人間かもしれないと伝えたら、林が面白がった。俺のように飼いならせると思ったらしい」
 散冴の足元へ視線を落とし自嘲じちょうする。
「もしお前が龍麒団に近づけば、俺が得てきた情報の価値などなくなってしまう」
「それは私が公安だった場合のことでしょう。御園さんにも言いましたがそれは買いかぶり過ぎというものです」
「もうどうでもいい」
「私が邪魔なら、私を殺せばよかった」
「林は情報だけじゃなく金まで要求するようになっていた」
「殺したのは、あの男が龍麒団のトップだからですよね」
「俺は自分を守りたかった」
「それじゃ、なぜ私をここへ呼び出したんですかっ!」
 矢継ぎ早に言葉を交わした散冴が声を荒らげた。
 赤池は口を閉じた。その右手はこぶしを握り締めている。
「罠にはまったとはいえ、やり方は間違っていた。でもあなたの中にある正義を私は信じます」
 波音に負けない、散冴の力強い声が埠頭に響く。
「警察官という立場を失っても、あなたには出来ることがあるはずです。もう終わりにしませんか」
 赤池は右手のこぶしを緩めた。大きく息を吸い、星も見えない空に目をやる。
「月翔」
 散冴へ向けた顔は穏やかだった。
「いつかお前と組んで仕事をしたいな」
「喜んで。それにはまず自首をして、あなたが知っていることを全て話さないと。龍麒団を追い詰めるきっかけになるはずです」

「それは困る」
 コンテナ群がつくる影から突然、男の声がした。闇のなかから薄明りのもとへゆっくりと歩いてくる。
 大城だった。
 その右後ろには李がついている。龍のタトゥーを覗かせた右手には鈍く黒光りする拳銃が握られていた。銃口は赤池に向いている。
 大城の声を合図に、赤池の後ろにも二人の男が現れた。
「山高、約束通り犯人を教えてくれて礼を言う。おまえからの連絡がないので、こっちから来てやった」
 片頬を上げる大城に、散冴は返す言葉もない。
 赤池は大城へ鋭い視線を送る。
はなからお前のことなど信用していない。警察の情報さえ手に入ればいいし、お前の代わりならすぐに作れる」
 大城はスーツの内側へ手を入れた。無造作に戻した手は拳銃のグリップを持っている。
「だがな赤池、お前にチャンスをやろう」
 取り出した拳銃を赤池の足元へ投げた。硬い金属音を立てながらコンクリートの上を転がり滑る。

「それで山高をれ」
 大城へ向いていた二人の視線がぶつかった。赤池も散冴も、すぐに顔を戻す。
「拾え」
 李から銃口を向けられたまま、視線を大城から外さずに赤池がゆっくりと膝を曲げる。拳銃に右手が触れると、後ろを振り返った。その先にいた二人も銃口を赤池へ向けている。
 赤池は拳銃を手にして立ち上がった。うつむいて右手に持った銃を見つめる。
「この後は予定があるんだ。早くしてくれ。殺すか、殺されるか。選ぶのはお前だ」
 大城がうすら笑いを浮かべた。
 顔を下ろしたまま、赤池は左手で拳銃のスライドを引いた。散冴へ向けて右腕を伸ばし顔を向ける。
 散冴は赤池をじっと見つめて動かない。
「月翔、最後に一つ聞きたいことがある。お前は公安の人間なのか?」
 赤池は半身で構え、銃口を散冴に向けている。
 散冴がふっと笑った。
「いいえ」
「そうか」
 赤池が口を一文字に結ぶ。と、いきなり体を捻り、銃口を大城へ向けた。

 乾いた破裂音が二つ続く。

 李がまっすぐ伸ばした右手の先には仰向けに倒れている赤池の姿があった。薄明かりのなかでも、黒い染みがコンクリートへ広がっていくのが分かる。
「赤池さんっ!」
「動くな」
 駆け寄ろうとした散冴を表情のない李が制する。
 大城は散冴へと向き直った。
「次はお前の番だ」
 李の銃口が散冴を狙う。
「こいつの腕は一流だ。そこの刑事と同じように苦しまずに死ねるさ」
 散冴は右手で帽子をとるとそのまま右胸に当てた。
「最後に一つ、お聞きしてもいいですか」
「なんだ」
「いま何時でしょうか?」
「は、この期に及んで何かと思えば」
 大城が呆れた声を出す。
「零時二十分だ」
 それを聞いた散冴は大城を見据えてひとりごちる。
「もう二十分も過ぎてますね。保険をかけておいたのに効かなかったとは……。甘かったようです」
 散冴は大城たちの背中に広がる暗い影へ目をやった。
 大城が李にあごで指図する。
 乾いた破裂音とともに散冴が膝をついて前のめりに倒れた。
 李は赤池へ近づくと落ちていた拳銃を拾い、代わりに自分が持っていた拳銃を彼の右手に握らせた。
「こいつには硝煙反応もある。山高を殺して自殺、これで終わりだ」
 赤池の横を通り過ぎざまに大城が言葉を落としていく。その後ろを三人の男たちが続いた。
 埠頭には暗くうねる波音だけが響いていた。
 
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