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おたんちん
しおりを挟む「――いや、待てよ?」
ふいに虎也は冷静になった。
「こうやって俺が熱くなるのも親父の思う壺なんぢゃねえか?」
思う壺に嵌まるのは、やはり癪だ。
「だいたい俺はとらじろうさえ猫質にされなかったら、新猫魔なんざと関わりたくもねぇのによ」
反タヌキ派の武士、いや、木常どん兵衛に捕えられている愛猫とらじろうを思うと不覚にもジワッと目に涙が滲む。
「そういうおめえだから、とらじろうを攫われたんだろうが?おめえの性分なんざ読まれてんだよ。腹を据えろよ。敵に後ろを見せるのか?」
止めていたはずのドス吉が今度は虎也を焚き付ける。
「む、たしかに。逃げたとは思われたくねえ」
ようやく意を決し、
「そうと決まれば、ドス吉、久々に手合わせしてくれ」
虎也は竹竿を諸手に掴み、クルッと反転させて小脇に構えた。
竹竿は虎也の武器でもある。
「おうっ」
ドス吉は懐に手を入れるや、腹に巻いた晒しに差したドス(短刀)を引き抜いた。
やはりドス吉の武器はドスである。
「たぁっ」
虎也が竹竿をドス吉の胸元へ突き出す。
「てぃっ」
素早く身を躱したドス吉がドスを振り下ろす。
「はっ」
虎也は竹竿を地面に突いてビヨンと路地の奥へ飛び下がる。
「ぬう」
ドス吉は虎也を追ってドスドスと路地の奥へ走る。
一方、
待合い茶屋の恵比寿の二階では、
ぺペン♪
ペン♪
「抓りゃ紫~、喰いつきゃ紅よ~♪」
陰間の久弥が三味線を爪弾きながら、唄いながら、ジリジリと我蛇丸へ身を寄せていた。
「――」
我蛇丸は自分の肩と相手の肩がくっ付くたびに身を離していく。
ぺペン♪
ペン♪
「色で仕上げた、アリャこの身体~♪」
とうとう我蛇丸はジリジリと次の間の襖の前まで追い詰められた。
ついに、襖に肩が付き、行き止まりになるや、否や、
「ふふふ、そう堅物ぶるのも大概になすって、煩悩の命ずるまま、素の自分になったがようござりまするえ?」
久弥は艶な笑みを見せつつ、サッと次の間の襖を開く。
「――げっ?」
我蛇丸は目を剥いた。
そこは寝間になっていて見るからに淫猥な緋縮緬の布団が一組だけ敷かれてある。
「わしゃ、帰るっ」
我蛇丸はすっくと立ち上がった。
「まっ」
久弥の顔がみるみるうちに険しくなり、
「――おったんちん」
ボソッと低い小声で吐き捨てた。
しかし、我蛇丸の忍びの地獄耳は聞き逃さない。
「――?」
悪口とは思われるが最新の江戸の俗語なので我蛇丸には『おったんちん』の意味が分からない。
「おったんちんと申されたか?おったんちんとはどのような意味でござる?」
我蛇丸は追究した。
「それは、わざわざ説き明かすのも憚ることでござりますわえ」
久弥はツンと澄まして答えない。
「まあ、いい。とにかく、わしゃ、帰るんぢゃっ」
我蛇丸は廊下側の襖へ向かわんとしたが、
「あれっ、お待ちなさいましっ」
久弥が大手を広げて通せんぼしている。
それを押し退けるために久弥に手を触れるのさえ我蛇丸はイヤだった。
「むう――」
やむを得ず、
「帰ると言うたら帰るんぢゃっ」
我蛇丸は身を翻し、二階の窓からヒラリと飛び下りた。
「うわっ?」
「なっ?」
虎也とドス吉は構えた竹竿とドスの間にいきなり降ってきた我蛇丸にビックリとのけ反った。
我蛇丸がうっかり窓の下も見ずに飛び下りた路地では虎也とドス吉が手合わせの真っ最中だったのだ。
「おったんちんっ、おったんちんっ、おったんちんっ」
夜気に響き渡る罵声。
「我蛇丸っ、おったんちんたぁお前のことだえっ、おったんちんっ」
久弥が窓から身を乗り出して罵っている。
「へええ、こりゃあ意外なところで意外な奴に出くわしたもんだ」
「まったく」
虎也とドス吉は我蛇丸と久弥を交互に見比べてニヤニヤした。
「い、いや、わしが呼んだんぢゃないんぢゃっ。あの茶屋に無理くり連れていかれて、陰間が来るなんぞ知らんかったんぢゃっ」
我蛇丸は首をブンブンと振って言い訳する。
「ははあ、それで、芳町で一番の売れっ子の久弥を袖にしたのか?そりゃあ久弥も赤っ恥を掻かされ悔しくて堪らねえだろうぜ」
虎也が二階の窓を見上げると、久弥は「ふんっ」と窓障子をピシャッと閉めてしまった。
「ところで、おったんちんとはどういう意味なんぢゃ?」
我蛇丸は自分に浴びせられた謎の悪口に追究が収まらない。
色町の芳町で生まれ育った虎也とドス吉は当然ながら知っている。
「ええと、正しくはおたんちんだが」
虎也は気まずそうに意味を明かした。
『おたんちん』とは寛永の頃に遊里で流行った俗語で、枕席でいざという時に役立たずで愚図愚図している客のことを遊女が陰で「今日の客はおたんちんでさ」などと嘲った悪口である。
つまびらかに言えば「おっ立たないチン〇」の略である。
「な、なんぢゃとぉ?」
我蛇丸は今頃になってカアッとなった。
「わしゃ、あんな蒟蒻もどきのクニャクニャした陰間は好かんだけぢゃっ。それを言うに事欠いてっ」
ムカムカと腹が立ってくる。
「まあな、我蛇丸、おめえは身の程知らずに理想が高けぇからな」
虎也は訳知り顔で頷いてみせる。
「――え?」
我蛇丸はドキリとした。
「だがよ、相手は大名の嫡子だろ。高嶺の花にもほどがあらぁな」
虎也はやれやれと呆れた口調である。
相手とは児雷也のことを言っているのか。
先の錦庵での吟味で我蛇丸の児雷也に対する態度だけで虎也にはお見通しだったというのか。
「――」
ドス吉は我蛇丸に同情し、無神経な虎也をギロッと目で威嚇した。
「無礼なっ。なんと畏れ多い戯言を口にするか。わしは戦国の世から富羅鳥藩にお仕えする富羅鳥の忍びの者ぢゃっ。我が命よりも何よりも大切なお方とは思うとるが、そんな不埒な思いは微塵も持たんのぢゃっ」
我蛇丸はワナワナと震えた。
震えているのは、憤怒なのか、羞恥なのか。
ただ、我蛇丸は惨めで泣きたいような気持ちになった。
「――ぐすっ」
いや、すでに泣いていた。
思えば、秘宝の『金鳥』を何者かに奪われ、いけ好かぬ陰間に侮辱され、散々な目に遭った一日である。
「厄日ぢゃ。ツイてない」
我蛇丸はガックリと項垂れる。
「そうとも言えねえ。ここで出くわしたのが俺等だけでツイてたと言うべきだろうぜ。もう半時も早かったらサギがここにいたからな」
虎也が脅かすように言う。
「げっ?サギが?」
我蛇丸はゾッと肝を冷やす。
「ああ、さっきまでサギは蜜乃家で児雷也と一緒に遊んでたんだぜ」
ドス吉がさらに付け加える。
「――」
我蛇丸はたちまち顔色を失って茫然となった。
待合い茶屋に陰間と一緒にいたことを危うく知られるところだったのだ。
この世でもっとも知られたくない二人に。
「はああ」
我蛇丸はドッと肩を落とし、安堵の息を吐く。
たしかにツイていたと言うべきであった。
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