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浮き沈み七度
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「のうのう?盆はいつ始めるんぢゃあ?」
サギは中庭の石灯籠の上に座って足をブラブラさせながら、今は中庭を行きつ戻りつしている竜胆に訊ねた。
広間に盆の支度はすっかり整ったようなのに、お竜姐さんはお葉とおしゃべりしていて一向に腰を上げる様子がない。
「わしゃ、早うお竜姐さんの神業のツボ振りをこの目で拝みたいんぢゃあ」
いっそう足をブラブラさせる。
自分が待ちぼうけを食らうのは真っ平ご免なのだ。
「そりゃあ、博打ってのは、とっぷり日が暮れてから始めるもんさ。まあ、鼻を摘ままれても分からんほど暗くなるまで待つこったな」
竜胆はサギには目もくれず適当なことを言いながら、すばしっこく屋敷を見渡し、五つの棟がHの字に組まれた構造を頭に入れている。
表が真っ暗になる前に屋敷の下見を済ませねばならぬのでサギに構っている暇などない。
元より、この日の来訪の目的は桔梗屋の屋敷の下見と奉公人の腕っぷしを知るためなのだからお竜姐さんがサギにツボ振りを教えてやるなど、どうでもいい方便なのだ。
「ちえっ、暗くなるまで待っておったら腹ペコぢゃろうが」
サギはオヤツがまだだったことを思い出し、台所へ向かった。
台所では下女中五人と武家娘二人が晩ご飯の支度に菜を刻んだり、鰹節を削ったり、味噌を擂ったりテキパキと働いている。
「ただいまぁ」
ちょうど実之介が手習い所の居残り稽古から帰ってきた。
お桐の倅の杉作も一緒だ。
実之介と杉作が台所の土間で洗足水をしていると、
「ああ、杉作、ちょいと話があるんだがね」
下女中が前掛けで手を拭き拭き、杉作に話し掛けた。
「何だい?」
杉作は自分を取り囲むように集まってきた下女中五人の顔をキョトンと見上げる。
なにやら下女中はみな得意満面で鼻の穴を膨らませている。
「この裏長屋の端っこの一軒が空くからさ、そこに親子三人で引っ越してきちゃどうだい?」
下女中はさも朗報という笑い顔をした。
「え?この裏長屋?小母さん等の住んどる裏長屋に?」
杉作は驚いた顔をする。
引っ越してきちゃどうだいと気軽に言われても、日本橋本石町の裏長屋はそんな気軽に住めるような所ではない。
それでなくとも天下の日本橋、たとえ裏長屋といえど家賃は他所の土地の四倍といわれているのだ。
下女中の亭主はみな江戸の三職と呼ばれる稼ぎの良い大工や左官だから住まうことが出来るのだ。
いくら腕が良くても母、お桐の仕立て物の稼ぎだけで家賃を払えるとは思えない。
「なに、うちは八軒長屋の三軒分を借りてんだけど、上の子二人が奉公に出ちまって一軒分が空いてんだよ。壁も障子もボロボロだし、又貸しなんだから家賃は半分でいいさ」
前述のとおり稼ぎの良い大工などは八軒長屋を一世帯で数軒分も借りて壁をぶち抜いて使っている。
「ほれ、お桐さんはあのとおり水臭い性分だから、杉作、お前から言っとくれよ」
「小松川から日本橋までお栗ちゃんを連れて通うのは難儀ぢゃないか」
「お桐さんもまだ若いったって草臥れっちまうよ」
「行き帰りをただ歩いてる間にここで針仕事したらお桐さんは仕立て物が一枚は余分に縫えるよ」
「そうさね。そうすりゃ家賃分も楽に稼げるんだからさ」
下女中五人が畳みかけるように口々に勧める。
「そしたら、そしたら、ホントに助かりますっ」
杉作は素直に感謝して頭を下げた。
昨日から叔父、樺平の世話に療養先の千住まで行っている母、お桐が無理をして身体を壊したらと杉作はずっと案じに案じていたのだ。
この裏長屋に住めるなら小松川から通うよりもずっと楽になる。
「そりゃあ、いいや。うちの裏庭からすぐ裏長屋だもの」
実之介も杉作が裏長屋に住むことを喜んだ。
「なあ、杉さん?そしたら、わしと一緒に桔梗屋の小僧の手習いに混ざったらいい。毎晩毎晩、稽古するんだ。うちの手代の銀次郎は手習い所の若師匠よりもずっと厳しいし、うちの小僧は手習い所の手習い子よりもずっと稽古熱心なんだから」
実之介は桔梗屋の小僧の手習いの水準の高さを誇る。
「へええ」
そう聞くと杉作は尚更に乗り気になった。
三年も手習い所に通えなかったので遅れを取り戻すには居残り稽古くらいでは足りないと焦っていたのだ。
それに自分がもっと手習いの稽古をしたいからと言って頼めば母は遠慮も何も打ち捨てて我が子のために裏長屋を借りることを承諾するだろう。
「ああ、そいぢゃ、うちの亭主に言って、ぶち抜いた壁はすぐに直しとくからね。明日にも引っ越してくるといいよ」
下女中はご満悦でお互いの顔を見返した。
とにもかくにも下女中は不運なお桐が幸せになるまではお節介だろうが世話を焼き続けようと意気込んでいるのだ。
ギコギコ、
トントン、
早くも裏長屋からノコギリを引く音やカナヅチを叩く音が聞こえてきた。
杉作は張り切って大工の手伝いをしている。
お栗はもう赤本よりも大工仕事を面白そうに眺めている。
「またご贔屓に」
貸本屋の文次はその隙にそそくさと木箱の風呂敷包みを担いで裏木戸から出ていった。
「――ん?文次はもう帰ったんぢゃの」
サギはオヤツを手に裏庭の縁側へ戻ってきた。
(とっとと日が落ちんかのう)
夕映えの空を目陰を差して見渡すと、近所の屋根の上を黒い影がシュッと飛んでいった。
(にゃん影ぢゃっ)
忍びの猫にゃん影は江戸城から錦庵へと戻っていくのだろう。
(さては伝書猫のお使いぢゃな)
どうせ自分達ばかりで将軍様やお庭番の八木と文をやり取りしているのだろう。
(ふんっ、また、わしを除け者にしおってっ)
サギはにゃん影の飛んでいった錦庵の方向へあかんべをした。
この後、サギが知ったら三日三晩は腹を抱えて笑い転げるほどの一大事が錦庵で起きようとは、まったく想像だにしていなかった。
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