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因縁の月
しおりを挟む同じ頃。
富羅鳥山の空も黄昏て、薄っすらと橙色に染まっていた。
カタンカタン。
機織り小屋からはお鶴の方が機を織る音が響いている。
カタンカタン。
その軽やかな音に耳を傾けながら、富羅鳥の忍びの統領、大膳は離れの小屋の囲炉裏で薬草を煎じていた。
「鴈右衛門殿、痛み止めぢゃ」
鼻を突くようなニオイの湯気の立つ薬湯を湯呑みに注いで枕元に置く。
「ああ、かたじけない。世話を掛けるのう」
鴈右衛門は「あいたたた」と痛そうに布団から上体を起こし、
「鬼の角のほうが痛み止めには効くんぢゃが、生憎、鬼の娘のシメはおらんしのう」
ぶつくさと言いながら鼻を摘まんでガバッと薬湯を一息に飲み干した。
「ぐへぇっ、何べん飲んでも慣れんのう。ぢゃが、良薬は口に苦し。お鴇の調合した薬草は効果覿面ぢゃ」
鴈右衛門は富羅鳥山の山中で我謝丸と邂逅した時に何者かに背中を矢で射られたが、背骨を傷めただけであった。
「何分にも首を狙われとる身ぢゃからのう。富羅鳥山へ入る前に用心して背中に厚板を入れておったわ」
鴈右衛門がチラと目をやる壁際に矢じりの穴のある厚板が立て掛けてある。
これは児雷也が投剣の稽古に使う厚板の的で二重丸が描かれている。
「見事、真ん真ん中に命中しておる。これほどの腕前はわしが仕込んだ富羅鳥藩の御手廻弓之者ぢゃ。猪口才な。ますます腕を上げたと見えるわ」
鴈右衛門はヤケクソのように「カカカ」と笑った。
富羅鳥藩の御手廻弓之者は鴈右衛門を城主、鷹也を暗殺した仇として、その行方を追っていたが、秘宝『金鳥』の若返りの秘密は誰も知らなかった。
それ故に当時七十歳の爺が三十代半ばに若返っているとは知る由もなく、鴈右衛門を易々と取り逃がしたのだ。
だが、さすがに年貢の納め時か、あれから十四年の年月が流れ、五十歳にもなるとそれなりに老けて七十歳の面立ちに近付いてくる。
富羅鳥藩の御手廻弓之者も鴈右衛門だと見抜いたらしい。
「しかし、お鶴の方様はわしに逢うても何も思い出さなんだとはのう」
鴈右衛門はガッカリと嘆息する。
「この『鴈じい』をお忘れとは、ああ、情けなや」
富羅鳥藩の江戸屋敷でお世話係として側に仕えていた爺やの鴈右衛門と再会しても、お鶴の方は生まれてはじめて鴈右衛門を見たような怪訝な顔をして何の記憶も蘇らなかったのだ。
「ぢゃが、若君に逢えば、若君のご無事を知れば、必ずや――」
大膳には予感めいたものがあった。
お鶴の方は若君が亡くなったと思い込み、心痛のあまりに記憶を失ったに違いないのだ。
それならば、若君である児雷也に逢わせれば記憶を取り戻すのではなかろうか。
「わしは、サギが江戸におるうちにお鶴の方様を江戸へお連れする心積もりぢゃ――」
大膳は意を決していた。
カタンカタン。
機織り小屋からはお鶴の方が機を織る音が続いている。
「どうもサギの調子っぱずれな唄声が聞こえんと捗らんようぢゃ」
糸を紡いでいた婆様のお鴇は糸車を止めて吐息した。
「ええ、江戸へ遊びに行ったきりサギときたら便りの一つも寄こさんで」
カタン。
お鶴の方も機織りの手を止めると、開け放った戸口へ立って姉さん被りにした手拭いを外し、夕風に吹かれながら富羅鳥山の木々を見渡した。
サギが身軽に枝から枝へと飛んでいた様が目に浮かぶようだ。
だが、今は木々の葉はただ風に揺れて、烏がカアカアと鳴くばかり。
犬の摩訶不思議丸は松の木の根元に寝そべっている。
猫のにゃん影がサギにくっ付いて江戸へ行ってしまったのでつまらなそうだ。
「便りのないのが無事の便りとはいえ、あのサギのことぢゃ江戸の美味い菓子にでも夢中になって郷里のことなどコロッと忘れておるのぢゃろうの」
お鴇はやれやれと首を振った。
ちぎれ雲が流れて木々の枝越しに月が見えてきた。
「――っ」
お鶴の方はふいに自分の失った記憶に触れたようにハッとした。
時折、ふと何かが心に引っ掛かって気になってしまうのだが、それが何か分からなく、もどかしい。
わけても月であった。
夜空に月を見るとお鶴の方はいつも胸騒ぎを覚えた。
(わたしは何を忘れてしまったのだろう?)
(わたしは何に怯えているのだろう?)
思い出したくない何かを思い出してしまうのが不安で月を見上げることさえ恐ろしかった。
おそらく自分の本当の身の上を思い出したら、もう、ここでこうして暮らせなくなるのだ。
「もう手元が暗い。続きは明日にして晩の支度ぢゃ」
お鴇がわざと明るく声を張って立ち上がった。
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