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安に居て危を思う
しおりを挟む「何でわしがこんなことをせにゃならんのぢゃ」
サギは錦庵の調理場でブツクサと文句を垂れながら洗った器をせっせと布巾で拭いては棚に並べていた。
もう何ヶ月もこうして器を布巾で拭き続けていたような気がする。
しかし、実際には蕎麦の丼鉢をまだ五つばかりしか拭いていなかった。
「ああ、ああ、サギ。もうジットリと湿っとる布巾で拭きよる奴があるか。まめに乾いた布巾に取り替えんかい」
シメがやかましく咎めて竹竿に干してあった布巾を取るなり、いきなりサギに投げ付ける。
「わわっ」
サギは飛んできた布巾を慌てて掴み取った。
――が、
ガチャンッ。
なんたる不覚。
布巾を取った代わりに手に持っていた丼鉢を落とし割ってしまった。
「ふ、不意討ちとは卑怯なりぢゃぞっ」
サギはあたふたして『自分は悪くない、シメが悪い』とばかりにシメを非難する。
「かあ、情けないのう」
シメは嘆かわしげに首を振った。
店に手伝いのおクキがいなければ『富羅鳥の忍びともあろう者が――』としつこく小言を続けたことであろう。
「きゃっきゃっ」
シメが背におぶっている赤子の雉丸までもがサギを小馬鹿にして笑っているかのようだ。
「くうぅ」
サギは悔しげに足元に散らばっている割れた丼鉢の欠片を睨んだ。
「ほれ、サギ」
ハトが箒と塵取りを持ってきてくれたのでサギはしぶしぶとしゃがみ込んで丼鉢の欠片を拾った。
(ふいぃ、あんまり久々ぢゃから勘が鈍ったんぢゃ――)
サギは忍びばかりで油断ならぬ錦庵を家出してから暢気な桔梗屋でのほほんと暮らすうちにすっかり気が揺るんでしまったのだと自分に言い訳した。
(ハトは優しいが、あとは鬼と蛇の連中ぢゃからの。とことん性悪なんぢゃ)
心の内でブツクサと悪態を付く。
そもそも洗い物などしたこともなく器を布巾で拭いたのも初めてだったのだ。
丼鉢の欠片は床板の蓋の上まで散っている。
「ちっ、隙間に入っとる」
サギは面倒臭そうに蓋の手掛け部分の溝に入った細かい欠片を箒で掃き出した。
その時、
(――あっ)
サギはハッと思い出した。
以前、ハトがこの床板の蓋を開けて床下の貯蔵庫から鳥の味噌漬けを取り出した時のことを。
かなりの深さに掘り込まれた貯蔵庫は石できっちりと四方を囲まれていた。
縄の付いた竹籠が底に吊るしてあり、取り出す時は井戸の釣瓶のように縄を巻き上げる仕組みであった。
(これは、穴蔵と同じようなものぢゃっ)
『金鳥』の玉手箱はこの床下の貯蔵庫の中に違いない。
忍びの勘だ。
つい今しがた『勘が鈍ったんぢゃ』と思ったばかりであるが、サギは確信した。
そこへ、
「しっぽくを二人前だわいのう」
おクキが注文を伝えに暖簾口から顔を出し、訝るような目付きでサギを見やった。
おクキの目はサギの横顔とその視線の先の床板とを交互に見比べる。
「ぬぅ」
とたんにおクキの目は険しくなり、眉間になにやら、すこぶる迷惑そうな皺が寄った。
「……」
サギは丼鉢の欠片を拾う手も止めたまま、ひたすら床板を睨みながら考えを巡らせていた。
(むうん、店を開いている最中は『金鳥』を取り出すのは無理ぢゃ)
(あ、そうぢゃ。さっき兄様は今度、恵比寿とかいう茶屋へ行くと言うて、お縞に着物を選んでもろうてたんぢゃ)
(当然、茶屋へ行くのは錦庵が店仕舞いした後ぢゃろ)
(その留守を狙って店に忍び込んで『金鳥』から金煙をちいとばかし頂戴すればええんぢゃ)
(茶屋へ行く日がいつかは聞いとらんが、火の用心の夜廻りついでに芳町で張り込みするんぢゃ)
(兄様が茶屋へ入ったのを見届けて錦庵に忍び込めばええんぢゃ)
茶屋で誰かと逢い引きをするならば座敷を貸し切る一切り(約二時間)は居続けるに違いない。
それだけあれば『金鳥』の玉手箱を貯蔵庫から取り出して金煙を小瓶に移すくらいの仕事は余裕ではないか。
(お茶の子さいさいぢゃ)
サギはしめしめとほくそ笑んだ。
その間、
「……」
おクキが暖簾から顔を半分だけ覗かせてサギの様子をじっと窺っていたが、サギはおクキの視線にまるで気付かなかった。
おクキは稲荷神社の狐の石像と同じくらい微動だにせず、その気配を消していたのだ。
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