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大小暦
しおりを挟む(あああ、年の瀬の支払いが――)
草之介は頭を抱えながら長い縁側を重い足取りで渡った。
台所の板間からは手代、若衆、小僧の賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「わははは」
番頭の三人と熟練の菓子職人の四人は仕事を終えたら妻子の待つ住まいへ帰っていくので住み込みの若い衆だけで伸び伸びと愉しい晩ご飯なのだ。
「――ん?」
ふと、草之介は板間の前の廊下に落ちている大小暦に目を留めた。
毎年、桔梗屋でお得意様に配っている色刷りの絵入り大小暦だ。
(そういえば、今年の師走は大小どっちの月だったかな?)
草之介は大小暦を拾い上げた。
大小暦とは大の月と小の月が記された暦のこと。
江戸時代は陰暦を使っていたので月の満ち欠けの周期で暦を合わせていた。
大の月は三十日、小の月は二十九日である。
そして、二、三年に一度、閏月があったので江戸時代は二、三年に一度は一年が十三ヶ月であった。
陰暦はとてつもなくややこしいので閏月と大小の月が一目で分かる大小暦は商家には必需品なのだ。
どこの商家でも店の壁に分かりやすく大の月は「大」、小の月は「小」と大書きした紙を掲げていた。
短冊のように細長い大小暦をパラパラとめくる。
表紙を除くと十三枚が綴じてある。
(あれ?今年はひょっとして閏月の十三ヶ月か?)
(しかも、十二月に閏十二月があるのか?)
(ということは、今年の十二月は二ヶ月分?)
とたんに草之介は目の前がパアッと明るくなった。
十二月と閏十二月の二ヶ月。
年の瀬の支払いが一ヶ月も先へ伸びたのだ。
(天は我に味方した)と草之介は思った。
ホクホクとして大小暦を板間の本棚の上に置くと、湯屋へ行く支度をするために二階へ向かう。
当然、今晩も茶屋遊びだ。
丸正屋の熊五郎の奢りなのだから桔梗屋の懐は痛まぬので母のお葉も文句は言うまい。
「ふふん、ふん♪」
たかが年の瀬の支払いが一ヶ月伸びただけで草之介の気分はたちまち浮上し、鼻歌混じりで階段を上がっていった。
だが、しかし、
そうは問屋が卸さぬのが世の常である。
晩ご飯を終えると小僧等は板間に文机を並べて手習いを始めた。
「――おや?」
手代の銀次郎が本棚の上の大小暦を手に取る。
「これは、四年も前の暦ぢゃないか」
大小暦の表紙にはちゃんと四年前の干支である未年の羊の絵が美麗な色刷りで描かれてある。
今年は亥年だ。
とことん馬鹿な草之介は今年の干支も覚えていなかったばかりでなく、四年前の十二月が閏月だったことも忘れていたに違いない。
二、三年に一度なので昨年の戌年が閏月で七月と閏七月であった。
勿論、草之介は昨年に閏月があったことすらも覚えてはいまい。
「あ、銀次郎さん、その古い暦、おいらが戴いて覚え書きに使うとるんでござります」
小僧の八十吉が慌てて立ち上がった。
古い暦も無駄にせず裏面を雑記帳として使っていたのだ。
「ええと、さっき出た分も付けとかなきゃ。三連発、音高し――と」
八十吉は大小暦に正の字で勘定を付け足した。
ちなみに八十吉の覚え書きとは毎日の屁を放った数の記録であった。
八十吉はかなり本気で屁放男に弟子入りを目指しているのだ。
その頃、
「それにしても、お花は遅いわなあ?そろそろ暮れ六つになろう?」
裏庭の縁側ではお葉が茜色に染まりゆく雲を見つめていた。
お花は小間物屋へ買い物に行くとだけ言って家を出たのであった。
草之介と芸妓の蜂蜜の仲を心良く思っておらぬ母にまさか蜜乃家へ行くなどとは言えるはずもなかった。
「小間物屋の後にあちこちお寄りなのでござりましょう。人形問屋やら飾物問屋やら、お花様はお買い物というと日本橋中の店を廻ってご覧になられるほどにござりまするゆえ」
おタネはどうせお花がいつものように我が儘を言って寄り道しているのだろうと思った。
「まあ、おクキもサギも一緒だから心配はいらんわなあ」
お葉はお花が出掛けて遅くなってもおクキとサギが付いていればと安心していた。
なにしろ、おクキは薙刀の免許皆伝で、サギは剣術に長けた忍びの者なのだ。
日本橋の他のお店《たな》もとっくに店仕舞いしている時分だというのにお葉もおタネも気にも留めなかった。
ゴォン。
暮れ六つ。
ほどなくして、
「やれ飛べ蜻蛉、それ飛べ蜻蛉、飛ばんと羽をきりぎりす~♪飛ばんと羽をきりぎりす~♪」
頭上から調子外れな唄が聞こえてきた。
「あっ、サギだ」
「サギだわな」
実之介とお枝が屋根の上を指差す。
「ただいまっと」
サギが帰ってきて屋根から裏庭へピョンと飛び下りた。
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