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ジャンジャンジャン
しおりを挟むほどなくして、
「あ~あ、風が強いで今日はもう湯屋が仕舞いになっちまったよ」
若衆三人と菓子職人見習いの甘太がガッカリした顔で戻ってきた。
そういえば、昼七つ(午後四時頃)あたりから風が強まってきていた。
火事の多い江戸では風が強くなれば湯屋は火の用心で店仕舞いになる。
湯屋は表に店仕舞いを知らせる旗を出すが、その旗がバタバタと激しくはためき、いかにも店仕舞いせねばならぬ風の強さを物語っている。
「そうか。今夜の火の用心は特に念入りにせねばな」
手代の銀次郎が厳しい顔になって言うと、みな一様に口元を引き締めて頷いた。
「ほお~」
ポカンと緊張感に欠けているのは火事に遭ったことのないサギだけだ。
果たして、その夜、
ジャン、ジャン、 ジャン、 ジャン――、
やにわに半鐘の音が響いた。
「な、なんぢゃ?なんぢゃ?あの音は?」
サギはハッと目を覚まし、キョロキョロして左右の実之介とお花の布団をパンパンと叩く。
「うん~、半鐘だ~」
「火事だわな~」
実之介とお花は眠たそうに答えて布団に潜り込んだままだ。
「くぁ~」
お枝にいたっては目も覚まさない。
「へっ?火事っ?大変ぢゃあっ」
サギは掻巻布団をひっくり返し、ガバッと身を起こした。
「ああ、案ずるには及びませぬ」
乳母のおタネも布団から出る様子もなく落ち着いている。
半鐘は火事が遠い時にはジャン、ジャン、ジャン、ジャンと間を開けて打たれ、火事が近い時にはジャンジャンジャンジャンと連打になる。
サギ以外は半鐘の音には慣れっこなので遠い火事なら屁でもないらしい。
「ふうん、火事は遠いのか?そいぢゃ、また寝るかの」
サギはやれやれと掻巻布団を戻してボスンと後ろに身を倒す。
しかし、それも束の間、
ジャンジャンジャンジャン――、
半鐘が連打に鳴った。
「近いぞっ」
「火事はどこだ?」
「さっきとは別の火事らしいぞっ」
中庭を挟んだ向かい側の奉公人の大部屋が騒がしくなり、ガラガラと雨戸が開き、庭下駄を履く音がカタカタと鳴り響く。
手代の銀次郎、若衆三人、見習いの甘太、小僧四人が中庭へ出てきた。
一晩に二ヶ所で火事とは、
「今度こそ大変ぢゃあっ」
サギはまたガバッと起きるとババッと身支度し、
縁側へ駆け出て軒に両手で飛び付きクルッと逆上がりして屋根に上がった。
「サギさん?火が見えるかい?」
奉公人等が屋根を見上げて訊ねる。
サギは屋根の上からグルリと四方を見渡し、
「あっちぢゃっ」
煙の上がっている方向を指差した。
「橋のあたりか?」
「桔梗屋よりも風下だな」
「橋の北詰だっ」
「い組だあっ」
奉公人等は「それっ」とばかりに一斉に駆け出ていく。
「えっ?みんな火事場へ行くのかっ?」
サギはあたふたとして屋根から屋根へと飛び移って奉公人等の後を追った。
眼下の通りのあちこちの商家からも人がワラワラと出て、みながみな火事場を目指して駆けていく。
通りはみるみるうちに人でごった返し、夜更けとは思えぬ喧騒だ。
火元は算盤屋、山算屋の裏長屋で八軒長屋が三棟も並んだ真ん中の一軒であった。
山算屋の手前の通りは野次馬ですでに黒山の人だかりだ。
間もなく、
ドンガラ、
ドンガラ、
ガラガラ、
ガラガラ、
い組の提灯を掲げた集団が通りの向こうから騒々しく突進してきた。
「いよっ」
「待ってましたっ」
「日本一っ」
野次馬から歓声が上がる。
火消のい組が揃いの半纏で勢揃いだ。
火消の被る黒い頭巾は猫耳頭巾といって黒猫のようで可愛い。
梯子を脇に抱えた者、蓆を積んだ車輪付きの四角い水桶を牽く者、ワイワイガヤガヤと総勢百人はいる。
先頭に纒を持った猫耳頭巾の虎也の姿も見える。
「ほお、あれが纒か。田楽みたいぢゃな」
サギは四角に丸が付いた纒を見て思った。
い組の纒はてっぺんが丸い芥子の実、下が四角い枡をかたどった意匠で芥子と枡で『消します』という駄洒落である。
「ああ、い組の頭ぁ、後生だあ。後生だから、店だけは、山算屋だけは守って下せえっ」
山算屋の主らしき年配の男がい組の頭にすがり付き、その袖の中へ二十五両の包通を押し込んだ。
頭は目をギラリとさせて包通を懐へ仕舞って山算屋の主に頷くと、
「よしっ、虎也っ、この屋根へ上がれっ」
采配を振り上げて山算屋の屋根を示した。
「へいっ」
虎也と纒にザバザバと水が浴びせられる。
びしょ濡れの虎也は纒を手に梯子を登って屋根の上に立った。
「よっ、水も滴る良い男っ」
野次馬は拍手喝采だ。
虎也がバッサバッサと威勢良く纒を振る。
虎也の両脇で片膝立ちの火消二人が大団扇で火の粉を扇ぐ。
「虎也ぁああっ」
野次馬から声援が掛かる。
火事場の野次馬は男だけで野太い声援だ。
纒持ちが上がった家はここで火を止めるという火消の表明である。
火消等は次々と山算屋の屋根に上がって水に濡らした蓆を屋根に敷き詰めていく。
さらに山算屋の外壁にもザッパザッパと水を掛けまくる。
とにかく纒持ちが屋根に上がった家は燃やさぬように死守する。
火消は自分等の組の花形である纒持ちを守るために火を止めるのだ。
虎也は火の粉が舞う中、纒をバッサバッサと振り続ける。
(ひええ、熱そうぢゃあ)
サギは風上にある通りを挟んだ向かいの味噌問屋の屋根の上からハラハラと見守った。
周りを見やると近所の商家も花火見物でもあるまいに二階の露台や屋根に上がって火事を見ている人々がたくさんいる。
「げへっげへっ」
「うあっちいっ、げへっぐへっ」
虎也の両脇の火消二人は煙に咳き込みながら必死に大団扇で火の粉を扇いでいる。
い組の頭が二十五両の袖の下で結界を決めてしまったばかりに火事場の裏長屋から山算屋が近過ぎるのだ。
「――っ」
虎也はグッと息を詰めて堪えている。
咳き込んだりすれば肺の中に煙を吸い込んでしまう。
顔は煤で真っ黒になり、鋭い目だけが炎を映して、ギラギラと輝いている。
闇夜に燃え上がる紅蓮の炎を背に火の粉を浴びて立つ姿はますます男前が際立って見える。
火消の纒持ちがモテるのも納得の豪勢な舞台効果だ。
「虎也あぁああっ」
「踏ん張れえぇ」
「堪えてくれえっ」
野次馬は熱狂し、絶叫のような声援を送っている。
「虎也ぁああっ」
桔梗屋の奉公人等も声を枯らして叫んでいる。
ガンガン、
ガンガン、
地上の火消等は火元の裏長屋の手前の裏長屋を鳶口で破壊し、引き倒していく。
「そうれっ」
ガラガラ、
ガラガラ、
ガッシャーーン!
「わあぁああっ」
また歓声が上がる。
『火事と喧嘩は江戸の華』というだけあって火事場は興奮のるつぼと化し、凄まじい盛り上がりだ。
「ええぞぉっ」
気付けばサギも味噌問屋の屋根の上から夢中で声援を送っていた。
そこへ、
ふいに突風が吹き付けた。
「わあっ」
「ひやあっ」
虎也の両脇の火消二人が突風に大団扇を煽られて、尻餅を突き、火の粉を扇ぐ手が止まってしまった。
大量の火の粉がまともに虎也に振り掛かる。
「――つうっ」
虎也が首を振り、顔を歪める。
火の粉が目に入ったらしい。
突風で猫耳頭巾が脱げて頭の髷もチリチリと焦げている。
「いかんっ」
サギは咄嗟に身を翻し、味噌問屋の屋根からバッと軒へ飛び下り、庭の物干し竿を掴んだ。
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