120 / 312
ひるならぬ
しおりを挟むゴォン。
暮れ六つ。(午後六時頃)
晩ご飯が済むとサギと実之介は板間で小僧等と一緒に手習いの文机に着いた。
「では、今日も各々、カスティラの目出度い当て字を書くとしよう」
今日も手代の銀次郎が手習い師匠だ。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ」
お枝も手伝って半紙を数えてみなに配る。
「――のう?いつも銀次郎どんぢゃけど、金太郎どんと銅三郎どんは何しとるんぢゃ?」
サギは墨を摺りながら小僧の一吉にコソッと訊ねた。
「――ああ、金太郎さんと銅三郎さんは大人の遊興場へ行ったんだよ。二人とも岡場所に馴染みの女がいるんだそうな」
一吉も墨を摺りながらコソッと答える。
「オカバショってどこぞぢゃ?」
サギは吉原の遊郭なら読み終えた黄表紙の『金々先生栄花夢』に書かれていたので知っているが岡場所は初耳だ。
「それは、ええと、吉原よりか手軽に安く遊べるところさ」
一吉も大人の遊興場について詳しくはない。
吉原は幕府が許可している江戸唯一の公許遊郭でそれ以外は岡場所である。
この無許可の岡場所も幕府は黙認していた。
(む~ん、金太郎め、岡場所とやらで女遊びと見せ掛けて、ホントはどこぞで密偵の依頼人と密会しとるのかも知れん)
次の晩は金太郎を尾行し、行き先を突き止めてやろう。
(密偵の尻尾を掴んでやるんぢゃっ)
サギは気合いを込めてグッと筆を掴む。
しかし、今日は取り敢えず八木に頼まれた戯作五枚の清書をする。
そこへ、
「なあ、みんなが手習いしている間、あたしはここで唄うわな」
お花が三味線を抱えて板間へ入ってきた。
サギが剣術の腕前を見せびらかしたのでお花も負けじと得意の唄で美声を自慢したくなったのであろう。
「――え?そ、それは――」
銀次郎は口ごもった。
「唄など気が散るので迷惑にござります」とは奉公人の身ではとても言えやしない。
ペペン♪
お花は三味線の糸調子を合わせると鈴を転がすような美声で唄い出す。
「サァサ、浮いた、浮いた~♪」
ペペン♪
ペペン♪
やはり、気が散る。
「貞、丁、帝、定――」
みなカスティラに当てる漢字を書きながらも知らず知らずに三味線の音に合わせて頭が上下に揺れて調子を取っている。
ペペン♪
ペペン♪
筆先もペンペンと跳ねてしまう。
「やぁと、やぁと、やぁとぉ~♪」
実之介とお枝は手拍子を打ち、お花の唄に合いの手を入れる。
「――ふぅ――」
もはや銀次郎はお手上げで今日の手習いを真面目にやることは諦めた。
ペペン♪
ペペン♪
「テイ、テイ、ああ、気が散って漢字が思い浮かばん」
小僧の十吉は頭を抱え込んで文机にうっ伏す。
「あれ?サギさんは何を書いとるんだい?」
小僧の千吉がサギの手元を覗き込んだ。
「これは内職ぢゃ。人から頼まれた清書なんぢゃ」
ペペン♪
ペペン♪
サギはお花の三味線と唄の妨害をものともせず八木の戯作をせっせと達筆で書き移した。
「へっ、へへっ」
小僧の八十吉は手習いを怠けて文机に本を広げて笑い崩れている。
今日は貸本屋の文次に借りた本があるので早く読みたくて辛抱が出来なかったのだ。
「何を読んどるんぢゃ?」
サギは振り返って八十吉の本を引ったくった。
「――古今屁歌集?」
題名のままで屁を詠んだ歌を集めた本である。
「それは手代の銅三郎さんが借りて、おいらに貸してくだすったんだっ」
八十吉はムキになってサギから本を取り返す。
「屁歌?面白そうだ。読んどくれっ」
実之介に命じられ、八十吉は声高らかに読み上げた。
「芋をくひ 屁をひるならぬ 夜の旅 雲間の月を すかしてぞみる」
これも元木網の作。
「すかし屁の 消えやすきこそ あはれなれ みはなきものと 思ひながらも」
紀定丸の作。
どちらも江戸時代の屁歌の名作中の名作である。
「う~ん、見事な歌ぢゃあ。八十吉は相変わらず屁に夢中なんぢゃのう」
サギは屁歌に感心して唸った。
「だって屁放男の人気はますます高まって今や江戸中に屁放り旋風が吹きまくってるんだっ」
八十吉は興奮して思わず立ち上がる。
今にも放りそうな勢いだ。
「屁放り旋風っ?そんなもんが吹きまくったら臭そうぢゃあ」
サギは思わずパタパタと手で扇いだ。
ペペン♪
ペペン♪
「浮いた、浮いた~♪」
お花は唄いながら顔をしかめた。
みなして屁歌なんぞに感心して自分の唄を褒めやしない。
この美声をそっちのけに屁に夢中だとは。
所詮、サギや小僧等なんぞに高尚な芸術は分かりゃしないのだ。
「七へ八へ へをこき井出の 山吹の みのひとつだに 出ぬぞ きよけれ」
八十吉がまた読み上げる。
四方赤良の作。
「ほお、それは『七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき』が本歌であろう。屁歌も歌の知識がなくては分からぬもの。たかが屁歌とは侮れん」
堅物の銀次郎まで屁歌に感心する。
「まったくぢゃ。本歌は兼明親王の歌ぢゃな」
「わしも手習い所で習うたぞ。かの太田道灌が鷹狩りで雨に降られ、農家で簑を借りようとした時に農家の娘が簑がないと言う代わりに山吹の花を道灌に差し出したのはこの歌に掛けてなんだ」
サギも実之介も小僧等も当然のごとく本歌も道灌の山吹伝説も知っていた。
「どーかんはおこったんだえ」
なんと、お枝まで知っていたらしい。
「そう、道灌はこの歌を知らなんだばかりに山吹で示した娘の機転を解さずに怒って家臣の前でとんだ赤っ恥を掻いてしまった。それ以来、道灌は熱心に歌を学んだという話だ」
銀次郎はここぞとばかりに手習いの教えに持ち込む。
「道灌のように恥を掻かぬためにも手習いは字の上達ばかりでなく歌を多く覚えられるのだから真面目に励まねばな」
どこまでも堅物な男だ。
「……」
お花は苦々しい顔をした。
どうやら、この場で知らなかったのは手習い嫌いのお花だけのようだ。
ペペン♪
(えい、癪に障るっ)
腹立ち紛れで爪弾きについ力が入り、
ビチッ。
三味線の糸が切れてしまった。
糸は切れた弾みでビロンと跳ね返り、
ペチッ。
「あいたっ」
お花の鼻っ面に当たった。
一の糸、二の糸、三の糸で太さが違うが、一番太い一の糸が切れた。
三味線の糸は絹なので切れやすい。
切れた糸は顔の前に跳ねて危ないので糸が擦り減りケバ立ってきたら先に替えておくものだ。
(もお、屁放男のせいだわなっ)
お花はあろうことか屁放男を逆恨みした。
よもや、屁放男の妙技が児雷也までをも魅了させているとは夢にも思わぬお花であった。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
夏色パイナップル
餅狐様
ライト文芸
幻の怪魚“大滝之岩姫”伝説。
城山市滝村地区では古くから語られる伝承で、それに因んだ祭りも行われている、そこに住まう誰しもが知っているおとぎ話だ。
しかしある時、大滝村のダム化計画が市長の判断で決まってしまう。
もちろん、地区の人達は大反対。
猛抗議の末に生まれた唯一の回避策が岩姫の存在を証明してみせることだった。
岩姫の存在を証明してダム化計画を止められる期限は八月末。
果たして、九月を迎えたそこにある結末は、集団離村か存続か。
大滝村地区の存命は、今、問題児達に託された。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ブラッドの聖乱 lll
𝕐𝔸𝕄𝔸𝕂𝔸ℤ𝔼
歴史・時代
ーーーー好評により第三弾を作成!ありがとうございます!ーーーー
I…https://www.alphapolis.co.jp/novel/621559184/960923343
II…https://www.alphapolis.co.jp/novel/621559184/959923538
いよいよ完結!ブラッドの聖乱III
今回は山風蓮の娘そして紛争の話になります。
この話をもってブラッドの聖乱シリーズを完結とします。最後までありがとうございました!
それではどうぞ!
夜珠あやかし手帖 ろくろくび
井田いづ
歴史・時代
あなたのことを、首を長くしてお待ちしておりましたのに──。
+++
今も昔も世間には妖怪譚がありふれているように、この辻にもまた不思議な噂が立っていた。曰く、そこには辻斬りの妖がいるのだと──。
団子屋の娘たまはうっかり辻斬り現場を見てしまった晩から、おかしな事件に巻き込まれていく。
町娘たまと妖斬り夜四郎の妖退治譚、ここに開幕!
(二作目→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/284186508/398634218)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる