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相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ
しおりを挟む一方、
出前の我蛇丸は岡持ちを一分も傾けることなく水平に保ったまま日本橋呉服町へ来ていた。
シメが腰を痛めたおかげで自分が出前に来ることが出来たのは我蛇丸にとってもっけの幸いであった。
出前先は近江屋の別宅。
近江屋が後援している鬼武一座が逗留している家だ。
出前を頼みに来たのは近江屋の女中であった。
同じ日本橋のすぐ目と鼻の先にいるのに児雷也とは駕籠がゴロツキに襲われた雨の日以来、逢っていない。
我蛇丸は仏頂面ながら気持ちはソワソワと落ち着かず近江屋の別宅の裏へ廻った。
「ゴホン」
台所の水口の前で軽く咳払いして喉を整える。
「錦庵にござりまっす」
柄にもなく声が上擦ってしまった。
奥からドカドカと重たい足音が響いて坊主頭の大男が水口の引き戸を開けた。
「ご苦労さん」
坊主頭がつっけんどんに言って角盆を台所の板間へ置く。
「きつね、たぬき、しっぽくが二人前ずつに卵焼きが六人前にござります」
我蛇丸は岡持ちから蕎麦の器を取り出して角盆に移す。
勿論、つゆは一滴たりともこぼれていない。
「器が空きましたらこの中へお戻し下さりまし」
我蛇丸は岡持ちを台所の隅に置きながら廊下の奥を窺った。
児雷也が蕎麦を受け取りになど出てきやしないのは織り込み済みだが、このまま出前だけで帰りたくはない。
「あの、児雷也殿は?」
我蛇丸は坊主頭の大男に訊ねた。
「……」
坊主頭の大男は威圧的に我蛇丸を見下ろしている。
ともすれば好戦的に眼光鋭くなりがちな我蛇丸ではあるが、ここは精一杯ただの蕎麦屋のように穏便な顔をする。
しかし、坊主頭の大男にしてみれば自分の鬼の形相に平然としてビビらぬ蕎麦屋はただの蕎麦屋ではない。
だいたい、すでに我蛇丸がただの蕎麦屋ではないということはあの雨の日に承知している。
坊主頭の大男の目付きには我蛇丸に対して挑むような敵意が込められている。
「児雷也なら出掛けております」
坊主頭の大男は素っ気なく答えた。
「え?」
我蛇丸は思わず六人前の蕎麦に目を向ける。
「居留守ぢゃないぞ。蕎麦は俺一人で食うのだっ」
坊主頭の大男はあからさまに不快な口調になった。
仁王像のように筋骨隆々の坊主頭の大男なら六人前を一人で食べるというのも嘘ではなかろう。
「左様にござりますか」
我蛇丸はガックリと気落ちして近江屋の別宅を後にした。
児雷也のためと思えばこそ卵焼きを完璧な焼き色に仕上げたのに食べるのはあの感じの悪い坊主頭だとは無駄に丹精を込めてしまったものだ。
「はああ――」
青菜に塩というくらい我蛇丸はしょんぼりした。
そこへ、
エッサホイ、
エッサホイ、
エッサホイ、
エッサホイ、
通りから駕籠かきの掛け声が聞こえてきた。
二丁の駕籠が続いて走っているようだ。
(もしや、児雷也が帰ってきたか?)
駕籠に乗っているのは児雷也に違いないと直感し、我蛇丸は踵を返し、近江屋の別宅の黒塀の陰へ身を隠した。
エッサホイ、
エッサホイ、
エッサホイ、
エッサホイ、
やはり、駕籠は通りを曲がって、この路地へ入ってきた。
エッサホイ、
エッサホイ、
二丁の駕籠が近江屋の別宅の手前で止まった。
駕籠の中からきちんと紋付き羽織に袴の礼装をした児雷也と五十男が下りてきた。
どこかへお呼ばれだったのであろうか。
駕籠も辻駕籠ではなく立派なものだ。
「ああ、念願叶ってようやく逢えたが、世間の評判どおりであったな」
五十男がウキウキした口調で同意を求めるように児雷也に見返る。
「いや、評判以上だ。まったく素晴らしい。惚れ惚れした」
児雷也さえもウキウキした様子で感嘆の吐息を漏らす。
(素晴らしい?)
(惚れ惚れした?)
我蛇丸は耳を疑った。
目の前の児雷也が信じられない。
どう見ても出先での楽しい出来事に興奮冷めやらぬといったごく世俗的な若衆だ。
類い希に美しい容姿を除けばだが。
(いったい、どこの誰が児雷也をそこまで熱中させるのか?)
ふいに我蛇丸は胸にチリチリと焼け付くような痛みを覚えた。
「だから、たぬき会に出ることに決めて良かったろうが?」
五十男が得意げに威張ってみせて、
「わしだって初めからお花殿が来ると知っていたならイヤだとは言わなかった」
児雷也は決まり悪そうに答えた。
(――お花殿っ?)
我蛇丸はハッと目を剥いた。
お花といって我蛇丸が思い浮かぶのは桔梗屋の娘のお花より他にいない。
お花なら世間では評判の小町娘だ。
(そういえば、お花が児雷也から銀のピラピラ簪を貰ったという話を小耳に挟んだような気がする)
(それも蝶の銀細工だとか)
我蛇丸の胸はいっそうチリチリと焼け付いた。
年頃の十七歳の若衆が十五歳の小町娘に簪を贈ったとなれば誰がどう考えても恋心を示していると思うのが自然だ。
(児雷也はお花のことを――)
それでは二人は相思相愛ということになる。
我蛇丸は絶望的な気持ちになった。
お花のことは顔が美しいという以外は何も知らない。
舟遊びで顔を合わせているが、あの時にもお花とは口も利いていない。
ただ、あのサギと仲良しというところを見る限りでは朗らかで気立ての良い娘には違いない。
児雷也とサギは同じ血を引いているのだからサギが気に入る娘を児雷也が気に入ったとしても何ら不思議はないのだ。
(――だが、どうも釈然とせん)
(すんなりと認められぬ)
(何故かは分からぬが――)
我蛇丸は一人、黒塀の陰で悶々としていた。
その間に児雷也と五十男はとっくに玄関へ入っていた。
ヒュルルル――。
にわかに強まった秋風が冷たく身に沁みる。
(――もう――帰らねば――)
我蛇丸はしおしおにしおれてヨロヨロとその場を立ち去った。
実はこの日、児雷也はたぬき会の打ち合わせのために老中の田貫兼次に神田橋の屋敷へ呼ばれていたのだ。
そこで出逢ったのが『お花殿』である。
勿論、桔梗屋のお花のことではない。
かの平賀源内も大絶賛する天才曲屁芸人、その名もかぐわしき『花咲男』のことだ。
だが、しかし、
我蛇丸は屁放男にまるで関心がなかったばかりに屁放男が『花咲男』という名だとは夢にも思わなかった。
我蛇丸はとんだ勘違いをして児雷也とお花は相思相愛なのだと思い込んでしまった。
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