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悪事千里を走る
しおりを挟むその頃、桔梗屋には、
やはり三日にあげずやってくる貸本屋の文次が来ていた。
「それでな、サギは薪を売りに来た杉作を追っ掛けて出ていったきりだと言うんだわな」
お花はサギがいなくて退屈なので裏庭の縁側で文次を相手にしゃべくっていた。
「ほう、森田屋の番頭さんところの杉作坊っちゃんですかい?あの子は大の本好きで、わしのお得意だったんで、ようく覚えておりますよ」
文次は三年前までは杉作の家にも三日にあげず貸本に通ったものであった。
杉作は豪傑の武勇伝などの勇ましい読み物を好んで借りては読んでいた。
「うん、忘れられんわな。森田屋さんが焼けた三年前の火事はほんに近くて怖かったもの。小さい頃の明和の大火を思い出して震えとったんだえ」
お花は身震いした。
「そうでしょうなあ。明和の大火から江戸がようやく復興したばかりでまたあの火事でしたからねえ」
文次も眉をひそめる。
材木問屋は火事の度に儲かるので森田屋も明和の大火で大儲けして立派な店を再建した矢先の火事であった。
どんなに江戸は火事が多いかというと、ほぼ毎日のように江戸の町のどこかで火事が起きているのだ。
「貸本屋さん、これも返す本でしたわなあ」
お葉が以前、樹三郎のために借りた平賀源内の『長枕褥合戦』と『痿陰隠逸伝』の二冊を持ってきた。
「何の本だえ?」
お花が『痿陰隠逸伝』を手に取って題名を見る。
「あ、う、それは」
文次は慌てて気まずい顔をしたが、
「う~ん?難しい題名、分からんわな」
お花は首を傾げて文次に本を返した。
「殿方に人気の本だそうだからの。さぞかし難しい本に違いないわなあ」
お葉もお花もこのお下劣な題名を見ても幸いなことに二人には意味不明であった。
「へえ、まったく」
文次はホッとして二冊の本を木箱に仕舞う。
そのうち、最初に昼飯を終えた手代と若衆が貸本を借りに裏庭の縁側へやってきた。
「貸本屋さん、金々先生の恋川春町の新しい本はまだ出とらんかい?」
「春町はまだですが似たような作風の朋誠堂喜三二はいかがでしょう」
「わしゃ、井原西鶴の古い本を読みたいんだが、題名は何といったかなあ。大晦日の話で――」
「それでしたら『世間胸算用』でしょう」
文次はテキパキと本を木箱から取り出す。
忍びの習いで読んだ本はすべて頭に入っている文次であるが、貸本屋の仕事でしかその能力を発揮していない。
そこへ、
「ただいま戻りぁした――」
小僧の千吉がすごすごと錦庵から帰ってきた。
「どうしたえ?千吉?さては、錦庵にまだ兄さんがおったんだえ?」
お花は千吉の浮かぬ顔を見て草之介に蕎麦の出前を邪魔立てされたのだろうと直感した。
「へえ、若旦那様が『わしが質素倹約と言うたのに蕎麦の出前なんぞ誰が頼めと?』とお尋ねになられて、わたしがお花様と申し上げたら、『お花の奴か、娘っ子のくせに何でもわしと同じようにしたがって生意気な』と大層ご立腹なされて、『蕎麦の出前はならん。帰ってそう伝えておけ』と――」
千吉は素直に聞いたままペラペラとしゃべった。
いつでも千吉は素直に聞いたままペラペラとしゃべるのだが、その伝言はほぼ完璧であった。
「まっ、兄さんがあたしを生意気だと言うたのかえ?」
お花はたちまち目を剥く。
「えいっ、癪に障るっ。これまで兄さんが毎晩毎晩、茶屋遊びしていたことに比べたら三日に一ぺんだけの蕎麦五十枚の出前くらいで偉そうに文句を言われる覚えなんぞないわなっ。なあ?おっ母さん?」
お花はクルッと座敷のお葉に振り返る。
ふくれっ面に花簪の房がブルンと揺れる。
「まあ、そうは言うても草之介はれっきとした桔梗屋の主なのだから――」
お葉はお花の言うことももっともだとは思いつつも体面上は草之介を立てた。
「兄さんなんぞちっとも主らしいこともせんのにっ」
お花はプンプンと憤懣やるかたない。
元々、桔梗屋は先代の一人娘のお葉の権力が入り婿の樹三郎よりも強いのだから、その桔梗屋で育ったお花に世間並みの男尊女卑は通じやしない。
「もう出前はええわな。あたし、錦庵へ食べに行くっ」
お花は縁側の沓抜石に置かれた庭下駄を引っ掛けた。
「ほえ?」
縁側に腰を下ろしていた貸本屋の文次はスックと沓抜石に立ったお花をビックリと見上げる。
「えええ?」
手代と若衆、小僧の千吉もビックリとお花を見た。
大店の箱入り娘が一人だけで蕎麦屋など向こう見ずにもほどがある。
「いってまいりますっ」
お花はお引きずりの着物の裾をバサバサはしょって裏庭を足早に通り抜けた。
それほど蕎麦が食べたい訳ではないがお花にも意地があるのだ。
「これ、お花、お待ち」
お葉が座敷から縁側へ走り出て止めるのも聞かず、お花はプイと竹垣の折り戸を出ていく。
「奥様、わたしがお花様にお供して参りまするゆえ」
二番目に昼休憩で交代する手代の銀次郎がすぐさまお花の後を追っていく。
「ああ、頼んだえ。まあ、錦庵にはおクキもおるからお花の気の済むように蕎麦を食べてきたらええわなあ」
お葉は縁側にへたり込んで吐息した。
草之介もお花も父の樹三郎がさんざん贅沢させて甘やかし放題だったもので、とうに母のお葉の手には負えぬのであった。
お花は通りへ出ると商家の並んだ軒の手前を歩いた。
その一歩後ろに手代の銀次郎が付き添っている。
前方に見える仏具問屋の万屋と煙草問屋の大黒屋の向かい側を曲がれば錦庵のある浮世小路だ。
「……?」
つと、お花は訝しげに前方を見渡した。
どうも行き交う人々の視線が気になる。
評判の小町娘として人に見られるのは慣れっこだが何故だかいつもの視線とは違うようだ。
(何だえ?あたしが可笑しな格好してるとでも?)
お花は年頃の娘の思い込みで、みっともない格好をしているのではと居たたまれなくなる。
(あれっ、イヤだ。あたし、庭下駄なんぞ履いて来てしもうたわな)
お花はハタと自分の足元を見下ろし、カアッと赤面した。
(こんな粗末な庭下駄で歩いてきたなんて、いっつも螺鈿細工のぽっくりを履いとるあたしが――)
慌てて近くの商家の日除け暖簾の陰に身を隠すと、お花は着物の裾をズルズルとなるったけ長く下ろして足元を覆う。
好都合に江戸では着物の裾は地べたに引きずるほど長く着るのが流行りである。
着物の裾が短いとツンツルテンの田舎っぺと馬鹿にされるのがオチで裾はズルズルが粋でお洒落なのだ。
「――銀次郎、今すぐ、あたしのぽっくりを持ってきておくれ――」
お花は日除け暖簾から顔を半分、覗かせてヒソヒソ声で銀次郎に命じる。
「へ、へえっ」
銀次郎は急いで桔梗屋へ引き返していく。
「ふぅ――」
お花はやれやれと吐息して日除け暖簾の陰で銀次郎を待つ。
日本橋の通りは相変わらずの人混みだ。
すると、
「よう、聞いたかい?桔梗屋の旦那の話?」
「ああ、まったく驚き、桃の木、さんしょの木さあ」
通りすがりの見知らぬ男二人の素っ頓狂な声がお花の耳に飛び込んできた。
(――桔梗屋の旦那?)
お花はハッと息を詰めて耳をそばだてる。
「おいおい、何の話でい?」
そこへ男二人の知り合いらしき別の男が歩いてきて、男等三人は後ろにお花が潜んでいるとも知らずに日除け暖簾の前で立ち話を始めた。
「それが、桔梗屋のあの美男の旦那がよ、浮気して、隠し子がいて、それがお葉様にバレた挙げ句、千両箱を持って逃げたってえんだよっ」
「へえっ、そりゃあ、あれほどの美男で、あれほどに羽振りが良けりゃの妾の一人や二人いねえわきゃねえやな」
「しっかし、千両箱を持ち逃げたあ、桔梗屋もとんだ不埒者を婿にしちまったもんだ。一人娘のお葉様は日本橋で評判の別嬪だったのによ」
男三人は四十代で古い話まで蒸し返す。
御家人の三男坊で桔梗屋の婿になった美男の樹三郎はいくら気前良く方々へ金をバラまいても近所の男衆には好ましく思われていなかったようだ。
(お父っさんが千両箱を持ち逃げ――っ?)
お花の胸はドロドロと雷雲のように驫いた。
隠し子のことは自分も実際にその子を見たので疑う余地などないが、父の樹三郎が桔梗屋の千両箱を持ち逃げしたとは。
世間では妾も男の甲斐性と言われ、咎め立てするほどのことではないが、金の持ち逃げは明らかに盗人の所業ではないか。
(まさか、お父っさんが――)
お花はにわかには信じられない。
その時、
「失敬なっ。いったい、どこの馬鹿者がそんな根も葉もない出鱈目をっ」
ぽっくりを持って戻ってきた銀次郎が男三人の話を聞き付けて怒り声を上げた。
「あっ、こりゃあ、桔梗屋の手代さんっ」
男三人は振り返って気まずい顔になったが、
「しかし、出鱈目も何も、あっしゃ、今さっき、そこの錦庵で桔梗屋の若旦那と丸正屋の若旦那がしゃべっているのをこの耳で聞いたんでござりますからね。それに桔梗屋の女中のおクキどんも。ええ、これ以上、確かな噂の出所はござりませんやね」
男は開き直って錦庵で草之介と熊五郎とおクキがペラペラとしゃべっていたと主張する。
「う、う――」
今度は銀次郎が気まずい顔になった。
「どこの馬鹿者が」などと言ってしまって、その馬鹿者が当の桔梗屋の若旦那では手代の銀次郎は立つ瀬がない。
(まあ、兄さんときたら、お父っさんの悪事を外でペラペラと?)
お花は粗末な庭下駄どころではない恥ずかしさに袂で顔を覆い隠し、日除け暖簾の陰からササーッと軒を走り抜けて桔梗屋へ引き返す。
日本橋の通りの商家は軒が連なって長暖簾の裏側が端から端まで通路になっているのである。
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