富羅鳥城の陰謀

薔薇美

文字の大きさ
上 下
110 / 312

悪銭身に付かず

しおりを挟む
 

 一方、錦庵では、

 まだ草之介と熊五郎がスルスルと蕎麦をたぐっていた。

 それでなくとも盛り蕎麦を三十枚も食べる熊五郎はすこぶる長っ尻だ。

「ともかく今晩はいつもの茶屋で蜂蜜を呼んでパアッとやろうぢゃねえかい。なに、横恋慕の稲光なんざぁ待ちぼうけを食わしてやりゃあいいのさ」

 熊五郎は楽天的に言った。

 売れっ子芸妓はお座敷の掛け持ちが当たり前で数件の茶屋を行ったり来たりするので芸妓が気に入らぬ客は当然のごとく待たされることになるのだ。

「――いや、しかし、熊さん、わしはもう、茶屋遊びは――せぬと――」

 草之介はとぎれとぎれに未練がましく言って熊五郎の誘いを断腸の思いで断る。

「なにい?そりゃあ、こないだの舟遊びの行方知れず騒動でおっ母さんからきつくきゅうえられたに違げえねえが、そんなっことくれえで茶屋遊びをよすような意気地のねえ草さんぢゃあるめえ」

 熊五郎は納得しない。

 稀代の遊び好きの草之介が茶屋遊びしないなど天地がひっくり返っても考えられぬことなのだ。

「ああ、勿論さ。おっ母さんのきゅうなんぞ蚊に喰われたほども痛くも痒くもこたえんが――」

 草之介は母が怖い意気地なしと思われるのは心外なので苦渋の面持ちで意を決し、

「――実は、もう桔梗屋にはわしが茶屋遊びに遣える金なんぞ残ってやしないんだ――」

 ヒソヒソと小声で理由を告げた。

「えええっ?まさか、打出の小槌があるかってくれえ贅沢三昧の桔梗屋が何だって急によ?」

 熊五郎は青天の霹靂という顔で草之介を見返す。

「――それは、まあ、色々とよんどころない事情が――」

 草之介は言葉を濁した。

 幼馴染みの熊五郎にも本当のことなど話せやしない。

「よんどころない事情?――あ、そいやぁ、ここんとこ、草さんのお父っつぁんの姿を見掛けねえが、とうとうおっ母さんに愛想を尽かされて桔梗屋から追い出されちまったってえのかい?」

 熊五郎はヒソヒソと声をひそめる。

「――え?お父っさん?」

 草之介はハッと目を見開いた。

 今頃になって自分が鬼ヶ島から帰ってきてから父の樹三郎と一度も顔を合わせていないことに気が付いたのだ。

 それほど父の樹三郎は影の薄い存在であった。

「はは~ん、さては読めたぜ。お父っつぁんが余所よそに女をこさえて、それがおっ母さんにバレてすったもんだの挙げ句、お父っつぁんが千両箱を持ってトンズラしたんだろ?あの美男のお父っつぁんならいつかそんな羽目になるんぢゃねえかとあっしゃ前々から睨んでたんでい」

 熊五郎は想像を逞しくして樹三郎が千両箱を持ち逃げしたと決め込んだ。

『金鳥』の事情など知る由もない者には前触れもなく桔梗屋に金がなくなったのは忽然と姿を消した樹三郎に原因があると憶測するのも無理からぬことだ。

「う、うん、まあ、当たらずとも遠からずかな――」

 草之介は父にとんだ濡れ衣を着せるのもお構いなしに適当に話を合わせた。

 ふと、気付けば昼時で満席だというのに錦庵の店内は異様な静寂に包まれていた。

「……」

 調理場では我蛇丸もハトも黙々と蕎麦を茹で、うつわを洗っている。

「……」

 松千代と小梅はおしゃべりもせずに黙々と卵焼きを突っついている。

「……」

 それどころか、店内の客がみな黙々と音も立てずに静かに蕎麦を啜っているではないか。

 みながみな、熊五郎と草之介の話に興味津々と聞き耳を立てているのだ。


 そこへ、

「――わ、若旦那様っ」

 そんな店内の聞き耳に注意を払うこともなく女中のおクキが黙ってられぬように調理場の暖簾口から走り出てきた。

「わしは旦那様が突然いなくなった訳を知っておりまする。実は、旦那様には隠し子がおったのでござりますっ」

 店中に聞こえるような甲高い声だ。

「ええっ、お父っさんに隠し子っ?」

 驚きのあまり草之介も思わず大声を上げた。

「へえっ、若旦那様がお留守の間にミノ坊様と同じ年頃の旦那様に生き写しのわらしが出し抜けに現れまして、それから旦那様もその童もいつの間にやら姿をくらましてしまったのでござりますっ」

 おクキは夢中で一息に捲し立てる。

「ほーれ、案の定でいっ」

 熊五郎は自分の睨んだとおりと得意げにペチンッと膝を打つ。


「聞いた?松千代姐さん?」

 小梅は澄まし顔を崩して松千代を見やる。

「こ、こら、小梅」

 松千代は笑い出しそうな小梅の口に卵焼きを押し込むと自分も袂で口を押さえた。

 二人は肩を震わせて笑いを噛み殺している。

 どうやら二人には樹三郎の受難は大笑いしたいほどに愉快な出来事らしい。

「ごっそさん」

 店内の客はみな大急ぎで蕎麦を食べ終え、ソワソワと気が逸るように錦庵を出ていった。

 噂好きの江戸っ子のことだから樹三郎の浮気、隠し子、金の持ち逃げと面白可笑しく吹聴してあっという間に日本橋一帯に知れ渡るに違いない。

 なにしろ、今まで話題に事欠かなかった桔梗屋だけに世間では注目の的なのだ。


 その時、

「お頼う申しぁす。桔梗屋にござりぁす。盛り蕎麦を五十枚願いますぅ」

 何も知らぬ小僧の千吉が暢気に出前を頼みにやってきた。

 桔梗屋は三日にあげず蕎麦の出前を頼んでいるので毎度のことだ。

 だが、草之介はたちまち目を三角にした。

「わしが質素倹約と言うたばかりなのに、蕎麦の出前なんぞ誰が頼めと?」

 白い額にピリピリと青筋が立つ。

「へえ、先ほどお花様が踊りのお稽古から戻られて、番頭さんに若旦那様が錦庵さんにお出でになられたとお聞きになったもので、『あにさんばかりズルイわな。あたしだって昼は蕎麦がええわな』とお花様が奥様に言わしゃって――」

 千吉は素直にペラペラと聞いたままを話した。

「お花の奴か。娘っ子のくせに何でもわしと同じようにしたがって生意気なっ」

 草之介は八つ当たり気味に腹を立てた。

 毎夜の茶屋遊びで蜂蜜とちんちんかもかもとご機嫌だった頃はこんな些細なことで腹を立てる性分ではなかったのだが、すっかり草之介は余裕を失っていた。

「まあまあ、短気はよしねえ。『色男、金と力はなかりけり』ってな。草さんもこれでようやく人並みの色男になったってことだあな」

 熊五郎なりに親身に草之介をなだめると、

「よしっ、あっしに任せとけいっ。今晩の茶屋遊びはあっしのおごりでいっ」

 熊五郎はポンッと太っ腹を叩いた。

「く、熊さん、ホントかい?」

 草之介はたちまち目を輝かせる。 

 茶屋遊びに行けさえすれば普段の穏やかな草之介にコロッと戻るのだ。

「男に二言はねえやな」

 熊五郎は「がはは」と笑う。

「……」

(なにもそう威張るほどのことぢゃあるまいにさ)と松千代も小梅も心の内で思っていた。

 今までさんざっぱら草之介の奢りで茶屋遊びしまくっていた熊五郎なのだ。

「あのう、蕎麦の出前は?」

 小僧の千吉は困ったように訊ねる。

「出前はならん。帰ってそう伝えておけっ。だいたい錦庵さんへ年の瀬の払いだって出来ぬかも知れんのだからなっ」

 草之介はつい口走った。

「えええっ?」

 ボチャンッ。

 調理場のハトはビックリして洗っていた丼を水桶に落とす。

 桔梗屋は三日にあげず出前の盛り蕎麦五十枚を届けていた上客だけにツケを踏み倒されたら錦庵はとんでもない赤字になる。

 桔梗屋の金欠状態はひいては日本橋一帯の店の売上に直結する一大事なのだ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛
歴史・時代
 八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。  服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。  忍者同心の誕生である。  だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。  それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

狐侍こんこんちき

月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。 父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。 そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、 門弟なんぞはひとりもいやしない。 寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。 かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。 のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。 おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。 もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。 けれどもある日のこと。 自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。 脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。 こんこんちきちき、こんちきちん。 家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。 巻き起こる騒動の数々。 これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。

夏色パイナップル

餅狐様
ライト文芸
幻の怪魚“大滝之岩姫”伝説。 城山市滝村地区では古くから語られる伝承で、それに因んだ祭りも行われている、そこに住まう誰しもが知っているおとぎ話だ。 しかしある時、大滝村のダム化計画が市長の判断で決まってしまう。 もちろん、地区の人達は大反対。 猛抗議の末に生まれた唯一の回避策が岩姫の存在を証明してみせることだった。 岩姫の存在を証明してダム化計画を止められる期限は八月末。 果たして、九月を迎えたそこにある結末は、集団離村か存続か。 大滝村地区の存命は、今、問題児達に託された。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

ブラッドの聖乱 lll

𝕐𝔸𝕄𝔸𝕂𝔸ℤ𝔼
歴史・時代
ーーーー好評により第三弾を作成!ありがとうございます!ーーーー I…https://www.alphapolis.co.jp/novel/621559184/960923343 II…https://www.alphapolis.co.jp/novel/621559184/959923538 いよいよ完結!ブラッドの聖乱III 今回は山風蓮の娘そして紛争の話になります。 この話をもってブラッドの聖乱シリーズを完結とします。最後までありがとうございました! それではどうぞ!

夜珠あやかし手帖 ろくろくび

井田いづ
歴史・時代
あなたのことを、首を長くしてお待ちしておりましたのに──。 +++ 今も昔も世間には妖怪譚がありふれているように、この辻にもまた不思議な噂が立っていた。曰く、そこには辻斬りの妖がいるのだと──。 団子屋の娘たまはうっかり辻斬り現場を見てしまった晩から、おかしな事件に巻き込まれていく。 町娘たまと妖斬り夜四郎の妖退治譚、ここに開幕! (二作目→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/284186508/398634218)

処理中です...