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横恋慕
しおりを挟む「実はよ、あの稲光の野郎が蜂蜜を狙ってやがんだよ」
熊五郎は不快げに顔をしかめて言った。
「稲光?力士の稲光かっ?」
草之介は予想外の人物にビックリと声を上げる。
稲光雷五郎は人気絶頂の力士だ。
力士、医者、歌舞伎役者は『江戸の三男』と呼ばれ、稼ぎが良い職業番付で力士は一番である。
この時代はまだ年に一場所で十日間だけの興行だというのにそれでも稼ぎが一番良いのだ。
後の天保期に年に春秋の二場所になって、力士は『一年を二十日で暮らすいい男』と川柳に詠まれるのである。
「ほれ、夕べは草さんが茶屋遊びに出掛けねえだろうが?そいで珍しく蜂蜜のお約束が空いたんで、やっと呼ぶことが叶ったって稲光は大喜びだとさ。なんでも、ずいぶんと前から蜂蜜にご執心だったらしい」
今まで蜂蜜のお約束(お座敷の予約のこと)は暗黙のうちに草之介が独占していた。
それが、昨晩は草之介が遊びに出掛けなかったので、お約束の空いた蜂蜜を稲光が自分の贔屓にしている料理茶屋のお座敷に呼んだのだという。
(な、なんということだ。油断も隙もありゃしない。わしがちょいとばかし茶屋遊びをしなかった昨日一晩のうちに早くも蜂蜜にちょっかいを出す輩がいたとは)
蜂蜜は評判の美人芸妓なのだからお座敷へ呼びたい客がいるのは当然だが、草之介と蜂蜜の仲は舟遊びの行方知れず騒動以来、誰もが知るところだ。
それを承知で蜂蜜を狙っているというのは草之介に勝負を挑んで自分に勝ち目があると踏んでのことであろう。
(ふん、人気力士と思うて自惚れとるようだな)
草之介はすこぶる不愉快であるが、
「そりゃあ気の毒だが蜂蜜は力士なんぞ好みではないよ。そもそも肥えた男が好みなら、はなっから、わしより熊さんを選んだはずぢゃないか。はっはっはっ」
ここは余裕を見せて無理くり笑い飛ばす。
「ばっ、馬鹿を抜かせえ。蜂蜜があっしをだと?戯言にもほどがあらぁな。それに、あっしゃ、大食らいのただのデブだぜ。力士とは月とスッポンだあな」
熊五郎は妙に焦ったようにゲヘゲヘと冷や酒にむせた。
そこへ、
「ああ、そうそう、ねえ?小梅、夕べの稲光関のお座敷は楽しかったねえ?」
松千代の聞こえよがしの声がした。
「うん。あたしゃ稲光関の肩にヒョイと乗っけて貰ってさ。力持ちの男ってのも良いもんだね。やっぱし、男は頼もしくなきゃ駄目さ」
小梅も聞こえよがしに言う。
二人は蜂蜜と一緒に稲光関のお座敷に呼ばれたのだ。
「……」
草之介の顔がいまいましげに歪む。
力士では力で敵う相手ではないことだけは確かだ。
「やっぱしさ、娘ってのは父親みたいな頼り甲斐ある男が理想なんぢゃないかねえ。ほれ、玄武の親分さんは元力士だからさ」
「へえ、元力士?どうりで、親分はすんごい巨漢だと思った」
蜂蜜の実父である玄武一家の親分は元力士で玄武というのは力士時代の四股名である。
この時代の博徒の親分には元力士が多かった。
それというのも相撲賭博が盛大に行われていたので博徒と力士はまんざら無縁でもなかったからである。
そのうえ元力士なら博徒の親分として見た目の貫禄も充分でうってつけだ。
「ねえ、稲光関がこれから毎晩、蜂蜜姐さんを呼んでお座敷へ百日通うってのさ。百日通って蜂蜜姐さんを落とせなんだら、そん時ゃ男らしくすっぱりと諦めるって宣言したのさ」
小梅は興奮気味に言った。
わざわざ稲光関が蜂蜜を口説くのにそんな宣言をしたものだから今日はもう巷で噂になっているらしい。
「百日通うだと。お百度参りでもあるめえによ。さすが、力士、年に十日しか興行しねえだけあって暇だあな。おう?どうするよ?草さんっ?」
熊五郎がムキになって草之介をせっつく。
「むうぅ」
草之介は低く唸った。
どうすると言われても、どうしたら良いものか分からない。
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