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顔と心は裏表
しおりを挟む果たして、
九歳ほどの樹三郎は兄、白見根太郎の下谷の屋敷へ来ていた。
やはり、九歳ほどの童になってしまった樹三郎には実際の自分の九歳頃を知る兄しか頼るところはなかったのだ。
「いやはや、昨夜はたまげた。まさか、そんな懐かしい顔を見られようとはな。わしが長崎遊学から江戸へ帰った頃にお前はちょうどそのくらいの年齢だったわ」
兄の根太郎はフホフホと愉快げに笑った。
(ふん、日頃、桔梗屋に金の無心ばかりしておるので珍しく自分のほうが優位に立てたことが嬉しいのだな)
九歳ほどの樹三郎は穏やかな顔を作りつつも心の内で謗る。
二人は二廻りも年齢の離れた異母兄弟で、それぞれ自分の母に似たので兄弟でもまるで容姿が違っていた。
根太郎はずんぐりむっくりした出目のカエル面で、スラリとした美男の樹三郎とは似ても似つかない。
「父上、道場へ稽古に行って参りました」
根太郎の末っ子の十六歳になる根之介が座敷へ挨拶していった。
父によく似た出目の童顔で愛嬌はあるが利発そうには見えない。
「あの根之介もようやく元服した。白見家のただ一人の跡取り息子だ。是が非でも仕官させてやりたいのだ」
根太郎の子は四人目まで娘ばかりで、五人目にしてやっと授かった一人息子なのだ。
娘四人はいずれも器量には恵まれなかったが幼い頃から一流の師匠に師事し、武家娘として申し分のない教養と遊芸を身に付けていた。
桔梗屋に頻繁に無心していた金は五人の子等の教育費に消えていたのだ。
すでに娘四人は江戸城で奥女中としてご奉公している。
奥女中の志願者には遊芸のお目見え試験があった。
ある殿様などは奥女中のお目見え試験がことのほか好きで、自ら試験に立ち会い、三十人以上もいる遊芸を披露する志願者の娘等を『容姿 下』『容姿 美』などと評価して楽しんでいたそうだ。
踊り、琴、三味線、唄などの芸事がどれほど優れていても不器量な娘は落とされるものだが、娘四人は根太郎が老中の田貫兼次に渡した賄賂のおかげかまんまと受かっていた。
(その賄賂の金もすべて桔梗屋が用立ててやったものなのだ。いったい娘四人に何百両を出してやったことか)
九歳ほどの樹三郎は心の内で惜しがる。
「実は、お城の御膳所にご奉公しておる長女の美根が二十七歳でようやく宿下がりするのだ。どこか良い嫁ぎ先を見つけてやらねばならん」
根太郎は嘆息した。
ちなみに二十七歳というと大奥の御中臈ならば定年の年齢である。
将軍様のお手付きとなった者は生涯、大奥で暮らす定めだが、お手付きとならなかった者は二十七歳で城から下がるのだ。
美根のような将軍様にお目見えが許されぬ下っ端の奥女中には定年はないが、さすがに三十歳近くなるとご奉公も引き際であった。
何年も前から宿下がりするようにと再三、言っていたものの、美根はお城勤めを続けることを強く望み、とうとう二十七歳にもなってしまった。
「お城勤めは縁談の箔付けにはなろうが二十七歳にもなっておるし、あの器量ではなあ。よほどの持参金でも付けんことには」
根太郎はまた嘆息した。
(持参金だと?また桔梗屋に無心するつもりか?)
九歳ほどの樹三郎は心の内で呆れ返る。
「うむ、美根の縁談の件も田貫に頼んでおくか」
根太郎はなんでもかんでも旧友である田貫兼次頼みだ。
一流の教養と遊芸を身に付けさせてお城の奥女中を勤めた娘なのだから、それ相応の武家に嫁がせなくてはならない。
それも少なくとも五百石以上でなくては。
根太郎はすこぶる高望みであった。
根太郎は親馬鹿で可愛い我が子のために田貫兼次に下げたくもない頭を下げまくって賄賂を渡し、媚びへつらい続けてきたのだ。
それというのも、
「身分の低い武家だろうが運にさえ恵まれたら必ずや出世が叶うのだ」という信念からであった。
老中の田貫兼次が低い身分ながら出世したので今や身分より実力の時代だと身分の低い者はみな立身出世の夢を抱き始めたのだ。
根太郎は一人息子の根之介に分不相応な望みを託していた。
(無駄、無駄、無駄)
九歳ほどの樹三郎は心の内で扱き下ろす。
田貫兼次は幼い頃から類い稀れな美貌の持ち主で、神童と呼ばれるほどに賢かった。
だからこそ低い身分ながら先々代の八代将軍の目に留まり小姓に抜擢されたのだ。
(ふん、御家人の身分でさほど賢くもなくカエル面の根之介などにどれほどの金を積んでも無駄に決まっておるのだ)
九歳ほどの樹三郎は心の内で兄、根太郎が出来の悪い子のために使う金などドブに捨てるようなものだと思った。
「ほれ、旗本の宇治木や五木などは田貫への賄賂が少なくて倅を仕官に推薦してもらえんかったそうだ。それを恨んで田貫の悪評を江戸市中に言いふらしておるらしい。まったく陰湿な奴等だ」
根太郎はいい気味そうに笑った。
実際、老中の田貫兼次の神田橋の屋敷には毎日毎日、引きも切らずに賄賂の付け届けが山のように贈られてくる。
しかし、田貫兼次はどんなに賄賂を積まれても実力のない者は仕官に推薦しなかった。
勿論、根太郎の娘四人も不器量ではあったが芸事は優れていたので実力主義の田貫兼次の推薦を得たのだ。
田貫兼次の悪評は大抵が賄賂を贈っても出世の望みが叶わなかった者の逆恨みによるものであった。
賄賂が少なかったというのは実力がなかったことを認めたくなくて誤魔化して言っているに過ぎない。
「また明日、田貫の屋敷へ出向くとするか」
根太郎はまたまた嘆息した。
わざと厚顔無恥に振る舞っているが田貫兼次に頭を下げながら内心は屈辱ではち切れんばかりなのだ。
一人息子の根之介の将来のためにも田貫兼次には政の実権をなるたけ長く握っていてもらいたいが、若い頃は共に長崎遊学をした仲間だけに根太郎には複雑な思いがある。
かつては根太郎も幕府の長崎遊学の試験に受かったほどの秀才であったのだ。
試験の成績は互角だったはずが、片や幕府の最高職の老中、片やお目見え以下の御家人と甚だしく差がついてしまった。
根太郎は長崎遊学の仲間として出世頭の田貫兼次は自慢であり、憧れであり、誇りでありながら、妬ましさ、悔しさ、恨めしさと様々な思いが綯い交ぜになっていた。
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