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泥棒猫
しおりを挟む「ねえ?それはそうと、サギは仕事に戻らなくていいのかえ?」
小梅がチラッと作業場のほうへ目をやって訊ねた。
「――へ?」
サギは不意だったので小梅の言う『仕事』とは何のことやら分からない。
「だって、桔梗屋の菓子職人見習いになったんだろ?もうとっくに昼の休みは終わりぢゃないかえ?」
「あっ、そうぢゃっ」
サギはハタと気付いて慌てて立ち上がる。
「あれ、サギ。桔梗屋の菓子職人見習いになったこと忘れとったんだわな?あたしも忘れとった」
お花はケタケタと笑う。
ついうっかり普段と同じくサギは桔梗屋へ遊びに来たような気分になっていたのだ。
「わしゃ、カスティラを斬るんぢゃっ」
サギは座敷を出て作業場へ突っ走る。
「あっ、サギのカスティラ斬り、凄いんだえ。一緒に見よう」
お花はさも面白い見世物が始まるとばかりに小梅を急き立て、自分も作業場へ走っていく。
「へええ?」
小梅はカスティラ斬りとは何ぞや?とワクワクして二人を追って走った。
ところが、
「サギ、お前は作業場へ入ってはならんっ」
菓子職人見習いの甘太が作業場の戸口に両手を広げて立ちはだかり、サギを通せんぼするではないか。
「ええっ?何でぢゃあっ?」
サギは小梅にカスティラ斬りの雄姿を見せてやろうと張り切っていたので憤慨した。
「わしの指図だがな。そんな土埃だらけの汚い格好で作業場へ入られたらかなわん」
熟練の菓子職人の糖吉がキッパリと告げる。
「汚い?ぢゃって、今朝は入れてくれたぢゃろうが。わしは今朝からずっと汚かったのにっ」
サギは納得しない。
「ぬぁにい?今朝から汚いだとお?」
糖吉と他の熟練の菓子職人の三人も作業の手を止めて戸口のサギに振り返る。
「そうぢゃ。昨日の晩は行水もしとらんし、裏木戸の外の路地で寝とったし、わしは今朝からとっくに汚かったのにっ」
サギは自分の汚なさを主張した。
「むうぅ、おい、甘太?今朝、コヤツが作業場にいた時に何も触らせんかったろうな?」
糖吉が顔をしかめて甘太に確かめる。
「へえっ、サギには何も触らせておりませんっ」
甘太はハッキリ答えたが、実のところはよく覚えていない。
「はあ、何も触っとらんのなら良かった。そんなら、作業場に入っても付いたのはコヤツの足の裏と土間だけだがな」
糖吉はホッと胸を撫で下ろす。
「いや、お前の手がわしに触ったぞっ」
サギは鬼の首を取ったように糖吉の右手を指差して言った。
「わしが卵を取ろうとしたら手をひっぱたいたぢゃろうが。わしの汚い手をっ」
サギは朝ご飯前にちゃんと手は洗ったのだが、こうなるとどこまでも汚なさを主張したい。
「し、しまったぁ」
糖吉はとんだ不覚を取ったような顔になる。
「とにかく、サギは入ってはならんっ」
甘太はこれ以上、糖吉にヘソを曲げられると見習いの自分がとばっちりを食うのでシッシとサギを追い払う。
「ちえっ」
サギはふてくされて踵を返した。
「まあ、今日はサギのカスティラ斬りは見られんようだわな」
お花はすまなそうに小梅を見やる。
「サギ、今晩は風呂へ入って、明日、カスティラ斬りしとくれな。小梅、明日も遊びにおいでな」
「うん、そうする。あたしゃ、そろそろ帰んないと」
小梅はこれから湯屋へ行ってお座敷の身支度だ。
「あああ、江戸は小煩い爺ばっかしぢゃっ」
サギはたっつけ袴をパンパンと叩いた。
茶色い土煙が舞い上がる。
たしかに菓子の作業場に入るのはどうかと思うほど汚い。
三人はワクワクと走ってきた廊下をガッカリと引き返していった。
その頃、台所では、
「――わいのう、――わいなあ」
女中のおクキが我蛇丸に何やら熱心に話していた。
「ほほう」
我蛇丸はことごとく適当に相槌を打っていた。
「左様にござりますか」
実のところおクキの言葉は「わいのう、わいなあ」以外は何を言っているのかまったく頭に入っていなかった。
「それは、それは」
女子の相手など苦痛で耐え難い我蛇丸なのだ。
ところが、
おクキの話に適当に「ほほう」「左様にござりますか」「それは、それは」を繰り返しただけで我蛇丸はおクキが明日から錦庵へ手伝いに来るという申し出に承諾した結果になってしまった。
我蛇丸が己れの適当な相槌の失態に気付くのは明日のことである。
しばらくすると、
「そいぢゃ、また明日ね」
裏庭に面した座敷から三味線の袋を抱えた小梅が廊下へ出てきた。
水口から出るつもりらしく台所へ向かってくる。
「おやまあ、もうお帰りで?」
おクキは小梅の見送りに板間から土間へ下りる。
(小梅が桔梗屋に?)
我蛇丸は怪しむように小梅を見やった。
「あれ、おクキさん、いつの間に着替えたの?良い柄だねえ」
小梅はおクキの一張羅の着物にわざとらしく目を見張ってみせて、袖をサラリと撫でるように触った。
日頃から姐さん芸妓に取り入るのに長けた小梅はもうおクキに親しげな素振りを見せる。
「おクキさんは色白だから茄子色が似合うこと」
猫のような目が笑うと転じた三日月になる。
「まあ、ほほっ」
おクキも満更でもないように吊り上がった目を細める。
(猫と狐か――)
我蛇丸は小梅は錦庵の常連客なので仕方なく仏頂面で会釈した。
「……」
小梅はにわかに笑みを引っ込めて我蛇丸には無表情で会釈し返す。
「どうぞ」
下女中が小梅の下駄を沓抜石の上に揃えた。
「憚り様」
小梅は下女中にはニッコリして下駄を履くと裏庭を抜けて裏木戸から出ていった。
(――あの腹に一物ありそうな娘がただ遊びに来ただけとは思えん)
我蛇丸は渋面しながら小梅の下駄の音が遠のいていくのを聞いていた。
カラコロ、
カラコロ、
「ふふふん♪」
小梅は通りへ出るとウキウキと足を早めた。
胸高に締めた昼夜帯の下には桔梗屋の仏間の戸棚から失敬した戦利品が入っている。
小梅はまさしく泥棒猫であった。
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