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謎の男
しおりを挟む「――という訳で、目黒で逢うた美男侍と仲良うなったんぢゃっ」
サギはお茶を何杯もグビグビと飲みながら目黒での出来事を詳細に説明した。
伝馬役所では日頃は縁遠い小町娘を少しでも引き止めておきたいがためにお茶まで出してくれたのだ。
「なあ?そのお侍さんはそんなに美男だったのかえ?」
お花は目を輝かせて身を乗り出す。
「お花様もわしも目が肥えておりまするゆえ、ちょっとやそっとの美男では驚きませぬわいなあ」
おクキも嬉々として食い付いてくる。
「二人共、面喰いぢゃなあ。けど、あの美男侍にはさすがの草之介も適わんな。まあ、児雷也とならええ勝負ぢゃっ」
サギは得意げに鼻の穴を膨らます。
「嘘だわなっ。児雷也ほど美しい男子がこの世に二人とおるものかえ」
お花はムキになる。
「……」
八木はつまらなそうに粟餅をモソモソと齧りながら横目でチラとお花を見やった。
お花が評判の美形の人気芸人、児雷也にお熱なのは誰の目にも明らかだ。
自分は美しい小町娘を嫁に欲しい面喰いのくせにお花の面喰いには当てが外れた気分になる。
八木は美男とは遠く懸け離れた寝惚け面のヌ~ボ~と締まりのない容貌であった。
そこへ、
「この手拭い、おめえさんのかい?」
人足がやってきて手拭いをサギに差し出した。
黒鹿毛の汗を拭いて鞍に引っ掛けておいた手拭いを取り忘れたのだ。
「あ、この手拭い。美男侍に借りたんぢゃ」
サギは手拭いをピラッと広げた。
「おや?その紋所はぁぁ?」
八木が手拭いを覗き込んだ。
手拭いは紋所が染め抜きされたものだ。
「こりゃ紋所か?ぼた餅が皿に並んどる模様ぢゃないのか?」
サギは手拭いをよくよく見直す。
丸が円形に七つ並んだ紋所である。
「その紋所はたしかご老中の田貫様の紋所にござるぅぅ」
同じ紋所を使っている他の武家もあるのだが八木はすぐさま田貫兼次が思い当たった。
「ええっ?老中の田貫兼次っ?」
サギはビックリと目を見開く。
「あっ、もしや田貫には息子がおるのかっ?」
あの美男侍はまさか田貫兼次の息子か?
「なあ?そのお方は年齢はどのくらいだえ?」
お花は美男侍の正体に興味津々だ。
「う~ん?若侍というほど若くもなく、八木殿よりも四つ五つは上くらいぢゃったかのう?」
サギは人差し指を顎に当て思案げに天井を見上げる。
仏像や観音像のように端正に整った顔立ちは年齢がよく分からぬものだ。
「ご老中の若殿様は御年二十八歳にして、近々、若年寄かといわれるお方にござるぅぅぅ」
八木がやけに重々しく言った。
「うん、そうぢゃ。若いのに年寄り臭い奴ぢゃった。小煩い爺みたいに威張りん坊でのう」
サギは若年寄と聞き、独り合点して頷く。
「その若年寄ではござらん。若年寄というのは幕府の役職でござるぅぅ」
八木は真面目な顔でサギの勘違いを訂正する。
若年寄は老中の補佐役である。
幕府の役職で三番目くらいに偉い重職だ。
「ふうん?」
サギは分かったような分からぬような顔をした。
八木からしてみると「ええ~っ」とみながビックリ仰天するべきところであるが、
サギもお花も幕府の役職に疎いために若年寄の偉さもピンと来ないので驚きもせず張り合いがない。
「とにかく、その他にもサギ殿の話を聞いた限りでは、神田橋のお屋敷、オランダ渡来の趣味、愛馬の名はいかにもご老中の好みそうな黄金丸とは、ご老中の若殿様に相違ないでござるぅぅ」
八木は震え声ながらハッキリと断言した。
「ほら、もう田貫様の若殿様に決まりだわな。だって、前におっ母さんがお若い頃の田貫様はそれはそれは美男だったって、憧れの的だったって言うとったもの。若殿様だって美男なんだわなっ」
お花まで美男侍を老中、田貫兼次の息子と決め付ける。
「む~ん」
サギは難しい顔をして唸った。
(あの美男侍が金の亡者と呼ばれる田貫兼次の息子――)
(賄賂、賄賂のタヌキのカネヅクの息子――)
(上様の御膳に幻薬を盛ってお毒見係を呆けさせたかも知れん田貫兼次の息子――)
サギの頭の中では老中、田貫兼次の悪評がグルグルと廻る。
しかし、あの美男侍はそんな悪そうな人物とは思えなかった。
身分の高い武士だというのにまったく武張ったところがなく、サギの無礼な言葉遣いにも頓着しなかった。
ざっくばらんで気さくな人柄であった。
「とにもかくにも美男侍はええ奴ぢゃ。それは間違いないっ」
サギは強く頷く。
「田貫様だってご立派なお方だっておっ母さんはお言いだったわな?おっ母さんは実際に幾度も田貫様にお逢いしたことがあるんだえ?」
お花は母のお葉に倣って田貫の味方に付く。
「うんっ。わしゃ、田貫兼次には逢うたこともないんぢゃ。噂を信じちゃいかんのぢゃっ」
百聞は一見に如かず。
サギは老中、田貫兼次への先入観をまずは消し去らなくてはならぬと思った。
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