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#82 愛するということ〜創視点〜 ⑴

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――当初の予定だと、今頃は菜々子と一緒にゆっくり過ごせるはずだったのになぁ……。

 窓の外に広がる、昼の盛りを過ぎようやく傾きかけた陽光をバックに、そんなことを思いつつも、さほど重要でも急ぎでもない書類に目を通しては機械仕掛けのオモチャの如く判をついていた。

 それもそのはず、菜々子の父親であり俺の伯父でもある道隆に呼び出されたとは菜々子には言えず、急遽出勤扱いにしたからだ。

 あと一月もすれば、菜々子と結婚して正式な夫婦になれるというのに、あの男のせいで、さっきからなんだかモヤモヤしてしょうがない。

 その上、貴重な休日までが無駄になった。

 挙式当日までのこの一ヶ月のために、休日だって返上して連日の残業だって厭わず、山積みだった仕事も精力的に熟してきたからこそ、この仕事量で抑えられている。

 それだって、菜々子と一緒にゆっくり過ごしたかったからだ。

 式の準備にだけ集中できると思っていたのに、あの男このせいで台無しだ。

――否、全部自業自得だ。そんなことくらい分かっている。

 分かってはいるのだけれど、誰かのせいにせずにはいられなかった。

 もしもあの男が菜々子と会って、咲姫の身代わりにしようとしたことなどが菜々子の耳に入れば、せっかく俺のことを受け入れてくれたのに、心変わりされてしまうのが怖くて堪らなかったのだ。

 菜々子のことを人質にした時点で軽蔑されてもおかしくなかったのに、それでも俺のことを受け入れてくれた菜々子。

 シングルマザーの先輩のことや自分の置かれている不利な状況下で、冷静な判断だってできなかっただろうし。

 そんな状況に置かれて、俺とふたりきりにさせられたら、そりゃ好きだと錯覚したっておかしくはないだろう。

 それが分かっているからこそ、怖くて怖くてしょうがなかった。

 だからこそ、あの男を菜々子に会わせるわけにはいかなかったのだ。

 自分で仕向けて置いてなんだが、菜々子にこれ以上辛い想いをさせたくないって気持ちだってもちろんある。

 けれどそんな俺の望みも虚しく、菜々子本人の口から、一番聞きたくない言葉を聞かされてしまうことになろうとは、この時点では夢にも思わなかった。

「菱沼、今日はここまででいい。荷物も俺が持つ」
「……いいえ、そういうわけには」
「察しろ」
「――ッ!? ……あぁ、はい。そうでございますねぇ。私《わたくし》としたことが失礼いたしました。上手くいったようで良かったですねぇ」
「……上手く……いったん、だよな」
「創様?」
「もういいからさっさと自分の部屋に入れ」
「はっ、はい。それではこれにて失礼いたします。どうぞごゆっくりお休みになってくださいねぇ」

 ようやく定時を迎え、いつものようにマンションに帰り着いた俺は、これまで同様にリビングまで手荷物を運び込もうとする菱沼をやんわりと制し、部屋の前で菱沼と別れた。

  これまで女を遠ざけていた俺のあからさまな言葉が意外だったのか、いつも冷静沈着なあの菱沼が、一瞬面食らっていたようだ。

 ……が、昨日から菜々子に対する俺の変わりようを思い出したのか、不意に漏らしてしまった俺の呟きを気にしてもいたが、すぐににんまりとした含み笑いを浮かべていたようだった。

 といっても、子供の頃からの付き合いであるため、どうにも気恥ずかしさが邪魔をして、菱沼の方をまともに窺うような余裕などなかったけれど。

 おそらく菱沼は気づいているはずだ。俺にとって菜々子がどんなに大事な存在かってことを。

 だからこれまで同様に、何も言わず見守ってくれようとしてくれているんだろう。

 いつになく嬉しそうに語尾を伸ばした菱沼に、居心地悪さを覚えつつも、それよりなにより、一刻も早く菜々子に会いたくてしょうがなかった。

 既に菱沼がインターフォンで菜々子に帰宅を知らせてくれているため、扉の向こうに菜々子がいるのだと思うと、それだけで憂鬱だった気持ちが浮上する。

 逸る気持ちを抑えつつドアを開けると、予想していたとおり、こうするのが当然のことのように、黒いコックコートに身を包んだ菜々子がそこに居て。

「お帰りなさい」
 
 いつものにこやかな笑顔で出迎えてくれた。

 今日はあの男のお陰で仕事の時以上の疲労感に苛まれていたのが嘘だったかのように、瞬時に憂いもろとも霧散してしまっていて。

「――えっ!? ちょっ、あのっ、創さんッ?!」

 えらく焦った様子でそう訴えかけてきた菜々子の、その声で初めて、自分が菜々子のことを正面から抱き竦めていることに気づくこととなった。

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