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#37 優しい甘さのコンポート ⑶

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 同時に、今朝、鼻血を出してしまった私のことを慌てて抱き起こしてくれた時の、桜小路さんのやけに心配そうだった顔までが鮮明に蘇ってくる。

 あのとき、直前までケラケラ可笑しそうに揶揄われていたものだから、私はてっきりまた何かされるんだろうと思い込んでいた。

 否、それ以前にあまりの羞恥に身悶えていたんだから、もう一杯いっぱいだったのだ。

 それなのに……。

 いきなり背後から抱き起こされて桜小路さんとの距離がぐっと縮まってしまい、私は益々焦ってしまったのだ。

 だから起きるのを阻止されたとき同様、桜小路さんの腕の中で手足をばたつかせて脱出を試みた。その結果。

『こら、動くなッ!』

 途端に怖い顔になって、ぴしゃりと言い放った桜小路さんのその声に、私は思わずビクッと肩を震わせた。

 でもあれは、怖いと言うよりは、条件反射だったように思う。

 おそらく桜小路さんは、私が怖がっているとでも思ったのだろう。

 すぐに私の耳元で、なにやらバツ悪そうに、『怒って悪かった』と詫びてから、今度は思いの外優しい声音で、

『鼻血を止めるだけだからそんなに怯えるな』

諭すようにそう言われ、宥めるように頭を大きな掌でポンポンとされてしまい、私の胸は不覚にもトクンと高鳴ってしまうのだった。

 おそらくこの至近距離のせいで、極度の緊張状態だったところに、意表を突かれて心臓が誤作動でも起こしてしまったんだろう。……まぁ、それは今関係ないとして。

 それを皮切りに、私の心臓は忙しなく鼓動を打ち鳴らし始めて、やかましくて仕方なかったのは事実だ。

 そんな私の内情など露も知らないんだろう桜小路さんは、憎たらしいくらいに落ち着き払っていて。

 それがどうにも悔しくてならなかった。

――こっちの気も知らないで、いい気なもんだ。

 そう思ったのは今でもハッキリと覚えている。

 なのに、桜小路さんときたら、なんだか得意そうに、

『こういうときは身体を起こして、ここを暫く指で押さえているとおさまるんだ』

そう言ってくるなり、慣れた手つきで、私の鼻筋を摘まむようにグッと押さえると、そのまま鼻血が止まるまでずっとそうしてくれていた。

 なんでも小さい頃、桜小路さんはよく鼻血を出していたらしく、そのときには、お母様によくこうしてもらっていたのだという。

 どうしてそんなことを私が知っているかというと、それは私の鼻血が止まるまでの間、桜小路さんが話して聞かせてくれたからだ。

 そのことを話してくれていた桜小路さんの声は、今までで一番優しくてとても穏やかなものだった。

 その様子からも、桜小路さんにとっては、どんなに些細なことであっても、大好きなお母様である愛梨さんとの大切な想い出なんだろうことが窺えた。

 愛梨さんがカメ吉に転生してるなんて知ったら、さぞかし喜ぶに違いない。

 言ったところで、信じてくれる訳ないだろうし、下手したら事故のせいで頭が可笑しくなったと思われるのが関の山だろう。

――まぁ、知られても困るんだけど。

 何故なら桜小路さんに知られた時点で、愛梨さんは天に召されることになるらしいからだ。

……いつの間にやら愛梨さんの話題にすり替わってしまったけれど。

 兎にも角にも、桜小路さんは落ち着き払った様子で私の鼻を押さえてくれていたのだった。

 それに引き換え私は、桜小路さんの腕の中で、このままだと心臓がもたないんじゃないかという不安に駆られてしまっていたのだ。

 可笑しな事を心配していた自分のことは無視しておくとして。

 菱沼さんに聞かされた言葉を切っ掛けに、これまでのことや今朝の事を思い返した結果。

 本《もと》を正せば、私が泣いたのも、機嫌を損ねたのも、そもそもの原因は桜小路さんにあるのだが……。

 菱沼さんの言うように、桜小路さんは無愛想で口が悪いところはあるが、確かに心根は優しい人なんだろうと思う。

 そうでなければ、いくら自分のせいだとはいえ、わざわざ私にフォローなんてしないだろうし。

――てことはやっぱり、キスの件と鼻血の件を桜小路さんが気にしてくれてたということなんだろう。

 そう思い至った途端に、胸の奥底からあたたかなものがどんどん溢れてきて、胸の内が満たされていくような、妙な感覚がするのはどうしてだろう。

 漸く菱沼さんの話と自分の導き出した結論とが一致したものの、今度は自分の不可解な心情に首を捻ることしかできないでいた。

 そんな私の正面にあるガラス張りのローテーブルの上には、何故か突如『パティスリー藤倉』の刻印がされたケーキボックスが現れた。

 そうして置いた当人である菱沼さんはほとほと疲れたように、

「どうやらこれも、お前に『貰う謂れがない』と言われて言い出せなくなったようだ」

ボソボソと呟いてから、ふうとわざとらしく溜息を零して、やれやれといった様子で再び口を開いた。

「いきなり何の前置きもなく、帰りにお前の伯母夫婦の店に寄れというので何かと思えば。これも、お前の機嫌をとるために、予め佐和子さんに連絡して、お前の好物を作ってもらっていたらしい」

 状況に思考が追いつかず、ポカンと開けた大口同様、大きく見開いた眼を忙しなく瞬いていた私は、またもや驚かされることとなった。

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