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第四章「ワンダとミリア」

「……やだ。行かないで」

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 扉を締め、もらった小瓶を眺める。黒いガラスの瓶の中に半分ほど液体が入っていた。

「オリバー、まだ辛いか?」

 扉越しに話しかけるが返答はない。耳をそばだてると、荒い吐息が聞こえてきた。

「……そうだよな」

 きっと今頃自慰の最中だろう。声をかけてしまって悪かった。

「ワンダさんとの話、聞こえていたか?」

 返事がないとわかっていながらも尋ねる。

「お前をこんな状態にした薬品をもらったんだ。それで、薬液を分析したいんだが、俺の部屋には十分な実験器具がなくて……。イリスさんのところにお願いしに行こうと思ってる。そして、治療薬をもらいたい。こんな時に一人にしてしまって悪いが、すぐに戻って来るから……」

 ゴン、と何かが扉に当たる音がした。

「……やだ。行かないで」

 子どものような声に俺は驚いて耳を澄ませた。彼の声はきっと人間には聞こえない程度の小さなものだったが、人狼の俺にはきっちりと聞こえた。

「いや……、でも、苦しそうだし」

「今この家からウィルがいなくなるのはヤダ……。お願い。ここにいて」

 オリバーの言葉に胸がざわつく。俺だってこんな状態の彼を一人にするのは嫌だった。

「……わかった。じゃあ、明日まで待つ。明日治ってなかったら、やっぱりイリスさんに分析してもらいにいくから」

 告げると、コツン、と扉に何かがあたったような音がした。

「……あと、オリバー。お茶とサンドイッチ置いてあるから、お腹が空いたら食べなよ。今夜一晩俺は狼になってるから、台所も風呂もトイレも自由に使え」

 さすがに狼の形状には発情しないだろう。微かに、うん、と返ってきたので俺は自室に小瓶を置くと狼の姿になる。この姿になると余計に音がよく聞こえ、オリバーの部屋から衣擦れや喘ぎが耳に届く。
 流石にいたたまれなくて、俺はくぅくぅと狼の声帯で下手くそな歌を口ずさみ、眠気が訪れるのを待ったのだった。






 翌日、オリバーの部屋が開かれる。扉を隔てていてもわかるほどのイカくささが漂ってきた。
 早朝だったが、昨日は早く寝たことと、眠りが浅かったのでオリバーが扉を開ける音で目が覚めてしまった。
 人狼は眠ると人間の形に戻る。俺はすぐに狼の姿に戻ってオリバーが風呂を使い、換気をするのを待っていた。いくら同性とはいえ、彼からしたら気まずいだろう。
 諸々を終えた彼は、コンコンと俺の部屋への扉をノックする。

「……ウィル?」

 俺はベッドから出ると、前足で扉を開ける。オリバーが気まずそうに俺を見下ろしていた。目の下にはクマがあり、顔は気だるそうにしている。よほど余裕がなかったのか、いつもは擬態の術で隠している尻尾も羽もしまい忘れていた。彼は膝を折り、俺の頭を撫でてきた。換気のおかげでだいぶ匂いも和らいでいる。
 つい尻尾をぶんぶんと振ってしまった。

「……ありがと。昨日……」

 外に出なかったことを言っているのだろう。流石にもう人間の姿に戻ってもいいような気がしていたが、今戻ると裸になってしまうので動物の姿でいることにした。

「あのさ、俺がウィルを抱くのをダメだって言ったのはさ、ウィルに魅力がないとか、そういうんじゃないんだ」

 ぎゅう、と彼は狼の俺を抱きしめてくる。昨日のつぶやきを聞かれていたのだろう。

「まず、俺達は恋人同士じゃないだろう? 他に好きな人がいる相手とはしちゃだめだっていうのとさ……」

 くぅ……、と俺は俯く。俺はオリバーしか好きではないがそう告げられないのが苦しかった。金の竜人は続ける。

「俺は男だから、気持ちよく出せばそれで終わるけど、ウィルは元は男でも、今は女の子の体で、妊娠するかもしれないだろう? あの状態でそんなことをして、ウィルに何かあったらって思うと、抱いちゃダメって思ったんだ」

 ぎゅう、と心臓が締め付けられたような心地がした。今の彼を記憶がある状態のオリバーと同一人物だとは思えなかったのに、やはり元のオリバーの片鱗を見せつけられ、心がときめく。
 以前のオリバーもそうだった。
 体格的にも俺よりも頭半分くらいは大きく力も強い。やろうと思えばいくらでも無理矢理犯せるのに、俺が嫌がることや痛い事は絶対にしようとしない。ウィルが気持ちよくないと嫌だから、とこの年になるまで中にも入れず我慢して、触り合うだけにとどめてくれていた。
 獣の姿でいてよかった。そうでないと、泣いてしまうかもしれなかった。
 俺はぺろ、とオリバーの頬を舐める。くすぐったそうに彼は笑うと、再び俺をぎゅうと抱きしめてから立ち上がった。




 その日の夕方だった。
 終業時間前になって俺は呼び出され、ピオさんとシシリアさんがいる応接間に通される。二人がけソファが向かい合って並べられており、真ん中にローテーブルがある。その上にはお茶の入ったポットと客人用のカップとソーサーが用意されており、シシリアさんが俺用のお茶を注いでくれた。
 あの後、俺とオリバーはオリジンへと行き、まずはイリスさんに事情を話して薬を分析してもらえるように依頼を出した。イリスさんは持ち帰り探ってみると言ってくれたのでそのまま仕事をしていたらピオさんに呼び出されたのだった。

「昨日のことはワンダさんとミリアさんから聞いたよ」

 シシリアさんが開口一番にそう切り出した。

「深夜に署に来てくれてね。ちょうど当直だった私が対応したんだ」

 やはり、彼女たちはあの後警察に行ったのか。俺は真面目な顔で頷いた。オリバーをあんな目にあわせた二人に苦手意識はあったが、それでも魂が抜かれるかもしれないとわかっているから見捨てられない。頭の片隅で気にかけていた。

「しかし、警察の上層部では、導き様の怪異について調査はしているけれど、ミリアさんに始終ついていられるような人員を割けないのが現状だ」

「……はい」

「捜査本部は立ち上げられているんだが、人間をまず守らなければっていう上層部の考えで獣人にまで手が回らねぇんだよ」

 ピオさんが吐き捨てる。シシリアさんは気まずそうな顔をした。

「……そうですか」

 彼女にフォローをいれるべきか迷ったが、結局なんと言っていいかわからずに相槌を打つだけだった。

「そこで、……大変言いにくいんだが、キミの力を貸してもらえないだろうか?」

 シシリアさんは真剣な顔で俺を見る。俺は小首をかしげた。

「俺ですか……?」

「ああ。君の行動力及び分析力が優れていることはピオから聞いている。不甲斐ないお願いだが、ぜひ頼む」

 横目でピオさんを見る。彼も真顔で頷いた。
 そこまで俺のことを評価してくれているのだとしたら嬉しい。

「幸い、と言ってはいけないが、今の君は女性になっている。ミリアさんの護衛としてずっと一緒にいても大きな間違いはおきないだろう。今回の被害者は女性が圧倒的に多い。女性警官を可能な限り配置したいんだが、どうにも人手が足りないんだ」

 がばり、とシシリアさんが頭を下げる。

「お願いだ。どうか、君の力を貸してくれないか」

 ピオさんも頭を下げた。

「俺からも頼む」

 二人の年配者に頼まれると嫌とは言いにくい。

「……引き受ける前に、お聞きしたいのですが」

 それでも、ホイホイと引き受けられない程度には俺は慎重だった。

「俺は近くに居て物理的に彼女の体を守ることは出来ます。けれど、ウェンディのように魂が抜かれるという状況には対応が出来ません。それでも大丈夫ですか?」

「それについては心配ない。その理由は受けてくれるのであれば話そう」

 シシリアさんの圧におされ、ついに俺は頷いてしまった。好奇心が勝ったとも言える。
 彼女は安心したように微笑んだ。

「君の才能は複製魔術だとピオから聞いている。抱きしめた相手の力を一日だけ複製し、使えるのだと」

「はい……」

 頷くと、彼女は小さな手を当てて胸をそらした。

「私の才能は防御魔法だ。自分なり、他人なり対象者を一人指定し、どんな物理攻撃も魔法も跳ね返す。……とはいえ、他人の場合、半径五メートル以内の相手に半日しか使えない」

「そこで俺の出番だ」

 ピオさんが引き継ぐ。

「俺の才能は増幅魔法だ。シシリアの能力を複製したお前の魔力を増幅して、一日もつようにできるはずだ」

 彼の場合、自分、他人関係なく魔力を倍に出来る。
 けれど俺は訝しんで眉間にシワを作った。

「……あなたの増幅魔法は一時間しか使えないのでは?」

「それなんだがな、試してみたらシシリアの防御魔法を発動させる時に使っておけば一日行けたんだ」

 にぃ、とピオさんが笑う。そういうものなのか、と納得をし、早速俺は立ち上がる。彼女も席を立ち、俺に向き直った。シシリアさんに抱きつくと、彼女の能力をコピーして、体を離す。
 シシリアさんは優しく微笑んだ。

「ありがとう。もし、これで失敗して万が一のことがあっても、けして君のせいじゃない。巻き込んだ我々の責任だ。それだけは覚えておいてくれ」

 身長の高い彼女は俺よりも頭一つ分は大きかった。彼女は俺の肩に手をおいて真摯に告げる。
 万が一、の言葉にウェンディの寝顔が思い浮かび、できる限りのことはしようと心に誓ったのだった。
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