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第3章

ページ22 『冴えない僕とアイドルな彼女』

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 きっかけはただの思いつきだった。

 俺は女性の顔を覚えるのは苦手だ。

 幼馴染の琴葉と同じ部活の白雪さんを除いて、俺は女の子の顔をあんまり覚えていない。

 特別に特徴のある顔じゃないと、覚えるのには長くて半年はかかる。

 だから、ふと思った。

 写真とテレビでしか見たことのないえりことすれ違ったとしても、ひょんな拍子に話しかけられたとしても、俺は彼女に気づかないだろう。

 『冴えない僕とアイドルな彼女』はこの思いつきから始まった。



 主人公は高校を卒業したばかりの男の子。名前は後藤満ごとうみちる。そしてヒロインはえりこをモデルにしたトップアイドルで名前は古川紗友里ふるかわさゆり

 満は音楽好きで、よくライブとかに行ったりする。

 あるバンドのライブのクライマックスで、満は思い切り手を振り上げたら、隣にいる女の子の手とぶつかった。ちょうど、その子も手を振り上げたから。

 気まずそうに謝ろうとする満に、女の子はしーっと指を口に当てた。

「謝罪はライブの後ね~」

 そう言って女の子はにこっと笑った。

 満はこの瞬間、今まで知らなかった感情を覚えた。

 満は恋というものを知らない。

 鈍感で回りの女の子の好意に気づかないし、好きになった女の子はアイドルのゆかりだけ。

 アイドルへの好きという気持ちはやはり恋とは少し違った。

 だから、満は自分の中に芽生えた、大好きなこのライブが早く終わってほしいという気持ちに戸惑いを覚えた。



「どうぞ~」

 ライブが終わったあとに、女の子は満に話しかけてきた。

 でも、その言葉の意味が分からず、満は聞き返す。

「なんですか?」

「謝罪だよ? ライブの後にしてって言ったじゃん?」

「あっ」

「思い出した?」

「はい」

「では、どうぞ~」

「僕の不用意で手をぶつけてしまってすみません」

「よくできました」

 そう言って、女の子は満の頭を撫でた。

 まるで悪さをして罰悪そうにしている子供をあやすように。

「ちょ、ちょっとなんですか?」

 満は急いで女の子の手を振り払う。

「ちゃんと謝れてえらいなって」

「大人ですから、このくらいは当然のことです」

「見た目はそう見えないけどね」

「もう高校卒業したし、春から大学生なんですよ」

「あはは、わたしと一緒だね」

「えっ?」

「わたしは古川紗友里、えっと、いにしえのかわに、下の名前の漢字は……」

 女の子は満の手を引いて、そのてのひらで自分の名前の漢字を書きだした。

「わ、分かったから、手を離してください」

「はは、君は?」

「満……後藤満。普通の後藤に満足の満です」

 満は照れ臭そうにそう答えた。

「普通の後藤ってなによ~」

 そう言って、女の子はクスクスと笑い出した。

 よく見てみたら、紗友里という目の前の女の子は満の大好きなアイドル―ゆかりにそっくりだった。

 女の子の顔をあんまり覚えられない満には、テレビでしか見たことのないゆかりと紗友里が同一人物であるという発想はまったくなかった。

「じゃ、わたしもう帰るね」

「えっ」

 満は心のどこかで、もっと紗友里と話したいと思った。



 大学の入学式が終わり、講義が正式に始まった。

 教室に入ってきた満は、前列の席に座っている女の子を見て、ボーっとしていた。

 満の視線に気づいた女の子は、えへへと笑いながら満に話しかけた。

「まさか同じ大学の同じ学部だったとはね、満くん」

 この女の子はまさに前のライブで満が出会った女の子だった。

 満は紗友里との再会を神様に感謝した。



「古川さんはなんで文学部のオリエンテーションに出なかったんですか?」

 紗友里に誘われて彼女の隣の席に座った満は口を開いた。

「うーん、ちょっと忙しかったからかなー」

 そう言う紗友里はどこか遠くを見ているようだった。

 満はそんな紗友里の横顔に見とれていた。

「古川さんが文学部なんて思いませんでした」

「それどういう意味よ」

「なんか古川さんは本とか読むより色んなことを実際に体験してみたいと思ってるイメージだから」

「それは間違いないかな。でも、わたしはいつか自分の本を書いてみたいなー」

 紗友里の目は輝いていた。それほど、彼女の言葉は本心だった。

「じゃ、僕と勝負ですね」

「満くんも本書きたいの?」

「はい。だから僕と古川さん、どっちの本が最初に出版されるか勝負です」

「あはは、負けないわよ?」

「僕も負けません」



 それから、満と紗友里はいつも行動を共にした。

 そして、互いに書いた小説を読み合って、感想を述べ合っていた。

 紗友里は時々大学を休んでいるけど、満はその時、次紗友里と会えるときに見せようと必死に小説を書いていた。

「あはは、なにそのキャラ、ダサい~」

「いやいや、紗友里は分かってないんだよ。男はみんな好きな女の子の前でかっこつける生き物だから」

「満くんもそうなの?」

 紗友里は満の隣に座って、彼の顔を覗き込んだ。

「ぼ、僕はべつに……」

「あはは、嘘ついてる! だって目が泳いでるもん~」

「そんなことないし」

「そんなことあるって」

 紗友里に言われて、満は俯いて黙り込んだ。

「……好き」

「……今の言葉は聞かなかったことにするよ」

「……」

「今は、恋ができないんだ……」

 そう言って、紗友里も俯いた。



「ほんとですか!?」

「ええ、今回の映画、ぜひゆかりさんに主演として出演してほしいです」

 プロデューサーは紗友里にそう告げた。

 そして、それは紗友里のもう一つの夢、女優になることの実現でもあった。

「ありがとうございます!」

 紗友里は恭しく深くお辞儀した。

「ゆかりさんの演技を楽しみしています」

 監督は期待のまなざしを紗友里に向ける。

「はい、絶対期待に応えて見せます!」

 紗友里は頭を上げて満面の笑みを浮かべた。

 だが、次の瞬間、彼女は硬直した。

「あっ、泉谷いずみや先生、ちょうどいいところに来ましたよ。ゆかりさん、紹介します。この映画の原作者の泉谷まなぶ先生です。今回の伏見賞の受賞作家です。ゆかりさんにどうしても主演をやって欲しいって言ったのも彼で」

「……満くん?」

「……紗友里?」

「あれ? 二人は面識でもありましたか?」

「いえ、初対面です」

 プロデューサーの質問に、紗友里は即答した。

「……はい、僕は人違いをしました。俺の片思いの女性はゆかりさんにそっくりなので」

「そうなんですか。こんな偶然もあるんですね」

 満の返事を聞いて、プロデューサーはこんな偶然の一致もあるんだなと少し驚いたのだった。



「紗友里、ちょっと待ってくれ!」

 急いでビルを出た紗友里を満が追いかけた。

 

「黙って賞に応募したのは謝るから、でも、それは君にサプライズするつもりで、映画が上映したら、紗友里と一緒に見に行きたくて……」

「そうなんですね。でも満くんはに主演をやって欲しいみたいだね。ずっと好きだったもんね、のこと」

「紗友里こそ、君が実はゆかりだってことをなんで僕に教えてくれなかったの?」

「……」

 紗友里は少し溜め込んでから、口を開く。

「アイドルであるわたしじゃなくて、普通のわたしを見てほしかったの……でも、満くんは結局アイドルのわたしを選んだのね」

「僕はアイドルでも普通の人でも紗友里が好きだよ! 僕はもともと君の大ファンで、ゆかりの大ファンで、だから……」

 満は続く言葉を思いつかなかった。

「さようなら」

 そう言って、紗友里は歩きだし、止まることはなかった。



 撮影期間中、紗友里は休学した。

 満も紗友里を避けて、撮影現場に行かなかった。

 満が原作で、紗友里が主演の映画は空前絶後の反響を得て、幕を閉じた。

 二人のストーリーはここで終わった……

 なんで、もっと早く紗友里がゆかりだって気づかなかったんだろうと満は自分の冴えなさをずっと許せずにいた。



「ちょっと、そこの君!」

 桜咲く坂を上っていく満は声のする方に振り返る。

 坂の下には白いワンピースを着ている女の子が立っていた。

 ピンク色の桜の花びらが散りゆき、時折彼女の服の上に留まった。

「私の名前は古川紗友里、えっと、いにしえにかわで……君は?」

「……泉谷学です」

「そっちじゃなくて……わたし、アイドルも女優もやめたから」

「えっ?」

「これからは君のそばにいて、一緒に本を書いていきたい……だからもう一度聞くよ? 君の名前は?」

「満! 後藤満! 普通の後藤に……」

 満が言い終わらないうちに、紗友里は駆け上がってきて、満を抱きしめた。

 満もゆっくりと紗友里を抱きしめ返した。

「……ほんとに、僕なんかでいいの?」

 涙と鼻水でむせそうになりながら、満は紗友里に聞いた。

「うん……アイドルとしてのわたしだけじゃなくて、普通のわたしをも見つけてくれたから……一緒に過ごしてた時間は嘘じゃないって分かったから……これからもずっと満くんのそばにいてもいいのかなぁ……」

 紗友里も気づいたら泣いていた。

「うん、いいよ……」

 そして、満と紗友里は桜の下でキスをして、二人の新しい物語は始まった……



 これは俺が佐渡川文庫の「文芸大賞」に応募した『冴えない僕とアイドルな彼女』の最初の原稿の形だ。
 
 今の『冴えない僕とアイドルな彼女』はラブコメとして、たくさんの登場人物とエピソードを追加され、長編連載になったから、エンディングは未定になっている。

 『冴えない僕とアイドルな彼女』は俺にとって、えりこへのラブレターで、えりこへの長年の想いを全て込めて書いた作品……

『もしもし? もしもし!』

『あっ、はい!』

『どうしたの? 一ノ瀬くん。なんか魂が抜けてたような感じだったよ?』

『ごめん、ちょっと考え事してて』

『なにそれ~』

 そういえば、俺は渚さんと電話してる途中だったな。

『ねえ、渚さん』

『なーに?』

『渚さんってえりこじゃないよね?』

『そ、そんなわけないじゃない! 違うよ!』

『そうだよね、あはは』

『なにがおかしいのよ! もう』

『ごめん、ごめん』

 そうだよね。

 現実は小説のように、簡単に奇跡が起きたりはしない。

 渚さんがえりこなわけないんだ。
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