箱庭の宝石

膕館啻

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《17》

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この花は何だろう。青に紫がかった色だ。小さいが美しく咲いている。伸びきった草に紛れているので、これも雑草の一部なのだろうが、そう括り付けてしまうには惜しいと思った。
私が何もない空間に座り込んでいたのが気になったのだろう、後ろから足音が近づいた。この音は……やっぱり瑠璃か。ほとんど音のしない小さな足が、ぴったりとくっついた。
「どうしたの?」
特に話したいこともないらしい。最近はこうして、ちょくちょく私の元へ来ることが増えていた。ただ一緒にぼうっとそこら辺を眺めることしかできないが、それでもいいらしい。
私が話しかけても曖昧に首を揺らすだけで、瑠璃からの会話はなかった。最初こそ気まずかったが、今ではこの時間も心地良いものになっている。大体数分後に灰蓮が迎えに来て、三人で帰るのがいつもの流れだ。
兄といなくていいのかと聞いても何も答えないので、瑠璃の本当の気持ちは分からない。ただ灰蓮の方は微妙な心境なのではないか。たまには兄離れということをしたくなるのだろうか。確かに灰蓮は過保護気味かもしれないが。
それでもまさか私の部屋に一人で訪れるとは思わなかった。ドアの低い位置から聞こえたノック音。それの向こう側ではいつものように薄い笑みを浮かべた瑠璃が、ドアノブを掴んでゆらゆら体を揺らしていた。それはおもちゃではないのだが、それよりも注意するべきことがある。
「どうした? 眠れなくなっちゃった?」
ドアを前と後ろに揺らしていた瑠璃は、止まって部屋の中へ入ってきた。ドアのギィギィ音も一緒に止まる。慣れたように、彼には少し高い椅子にジャンプして座った。
「瑠璃。ちゃんとお兄ちゃんに言ってきた?」
小さく笑ってふるふると首を振った。飄々とした態度で、悪気は全くないらしい。
「瑠璃だって灰蓮が急にいなくなったらびっくりするでしょ。ちゃんと言ってこなくちゃ、心配しちゃうよ」
「んー……」
何を言っても戻りそうになかったので、ため息を吐いて青いマグカップを取り出す。もしかしたら瑠璃はこのホットミルクが飲みたいだけかもしれない。これを飲んだら戻ろうねと言ってみたが、どうだろうか。
「灰蓮も寝ていると思うけど、一応伝えに行ってくるからね」
もうマグカップの中身に夢中だった。
静かに扉を開けたのに、灰蓮はこちらを見ていた。寝るときも服のサイズは合っていないらしい。だぼだぼの裾を鬱陶しそうに揺らしていた。
「灰蓮……起こしてしまったかな」
「いーや、センセのせいじゃないよ。今日は瑠璃がうずうずしてたからね。多分あんまり眠れないんだろうって覚悟はしてた。あーセンセのとこかぁ」
ふわぁと欠伸を漏らして、目を擦った。
「瑠璃を連れてくるよ」
「……んー頼みますー。ごめんね、センセ」
「私は構わないよ。ありがとう灰蓮」
なるべく音を立てないようにして廊下を歩く。他の生徒もあまり夜更かしをするタイプではないらしい。声や物音は聞こえてこなかった。
瑠璃はまたここにいたがったが、ぽかぽかと温まった体を持ち上げると、ウトウトし始めた。いつもの部屋ではなく、たまには別の場所に来てみたかっただけかもしれない。今度皆が嫌じゃなければ、いつもとは別の人間と寝てみるのも楽しいかもしれない。灰蓮の隣のベッドに降ろそうとしたら、指先が服を掴んでいるのに気がついた。ぎゅっと掴んでいたのを離すのはなんだか惜しいような、少し可哀想だったが、頭を撫でてゆっくりと離れさせた。
灰蓮に一言をかけて部屋に戻る。私に子供がいたらあれぐらいの年だったのかもしれないと考えて、それを消した。私の未来にその選択は無いし、今は生徒一人一人が家族のように大事だ。しかし……いつまで一緒にいられるのだろう。ふと浮かんだ疑問は、しばらくベッドの中で渦巻いていた。

ここのところ毎日誰かが就寝前に来ている。そして今日も、現れたのは小さい影だった。怒るのは逆効果だろうと思って、一度は素直に入れさせる。
「昨日は眠れなかった?」
別にそんなことはないけど、でもこっちに来た。多分こんなことを考えている。
「飲んだら帰る?」
これにも素直に頷いてはくれなかった。
「お兄ちゃんと喧嘩した?」
「……してない」
「たまには違う場所で寝てみたかったのかな」
「……うん」
「お兄ちゃんに言ってきた? ……だから、お部屋を出るときはお兄ちゃんに言わなきゃダメだって。灰蓮が瑠璃のことを凄く大事に思ってるのは分かってるよね」
そのとき初めて、瑠璃の表情が僅かに歪んだように見えた。今はもういつもの顔だが。
「お兄ちゃんに言ってくるよ」
歩き出そうとすると、シャツを後ろから引っ張られた。もうその顔に笑みは浮かんでいない。
「今日はここで寝ていいから、そのことを報告しに行ってくるよ」
それで納得したのか、手は離れた。瑠璃もこういう時期が来たかと、重い足取りで二階に向かう。灰蓮の悲しそうな顔も、彼が瑠璃を責めることができない気持ちも、容易に想像できた。確かに瑠璃に構い過ぎてはいるが、灰蓮なりの理由もきちんとあるのだろう。
やはり、なのか。灰蓮は良いお兄ちゃんだった。言いたいこともあるだろうにそれを飲み込んで、センセに迷惑かけちゃうなーと笑う。どうにかしたいが、瑠璃の気持ちも理解できる。とりあえず一日やってみれば満足するだろう。寂しくなって途中で帰りたいというかもしれない。
部屋に戻ると、勢いよく飛び出してきた。
「今日も飲む?」
うんと頷いて、猫か何かのように足元に縋り付いてきた。そのまま台所に一緒に向かって、簡単な作業を瑠璃に頼む。
「じゃあこれを持って、混ぜてね」
小さい手がぎこちなく鍋の中の牛乳をかき混ぜる。椅子を置いても届かなそうだったので、体を抱き上げた。凄く弱火でやっているから失敗することはないだろう。こんな作業でも瑠璃は楽しそうだった。灰蓮が心配性なあまり、行動が制限されていることもあるのだろう。瑠璃を満足するまで遊ばせたら……そんな小さなことで、この問題は簡単に解決するのかもしれない。
「うん、いいよ。今日は特別ね」
後で歯を磨くと約束して、チョコレートを投入した。ホットチョコレートに近くなったそれを二人で飲み始める。私には甘すぎるが、瑠璃はお気に入りのようだ。
「そうだ、絵本があるよ。瑠璃と読もうと思って、持ってきていたんだ」
明かりを一つにして、ベッドに座らせる。瑠璃は大人しく私の声を聞いていた。二人で眠るには狭いだろうが、瑠璃ほどなら問題はない。高めの体温を胸に抱いて、私もいつの間にか深い眠りについていた。
朝起きて、いつもと違うと気づくまで数秒かかった。体を起こそうとして何かに当たったので、そういえば瑠璃がいたのだと気をつけて動く。当たってしまったことに謝りつつ、おはようと頭を撫でた。瑠璃が起きるにはまだ早い時間だろう。
音に気をつけて準備を進めていると、いつの間にか瑠璃が起きていた。全く気配がしなかったので、驚いて着替えていた手を大袈裟に上げてしまう。クスクスと笑うのに恥ずかしくなって、彷徨っていた手をボタンに向けた。
椅子に座っていると同じところに座りたがったので、足の上に乗せる。こちらがコーヒーを飲んでいる間、私のループタイを引っ張って遊んでいた。
そろそろ皆起きた頃だろうと外に出ると、ばったりと蘭晶に出くわした。
「あら、瑠璃ちゃん先生のところにいたのね。良いなぁ羨ましい。あたしも行っていいかしら」
「おはよう蘭晶……ええと」
瑠璃が私の後ろに隠れてしまった。ぎゅっとジャケットの裾を握っている。
「ふふ、おはよう先生。随分瑠璃ちゃんに懐かれたみたいね」
この光景を灰蓮に見られたらと思ったが、続々と皆が集まり、そんな空気は流れてしまった。見る限りではいつも通りだし、私が灰蓮にかける言葉も思いつかなかった。今日は彼の元に帰ってくれると助かるのだが。そんなことを朝食の間、瑠璃の口元を拭きながら考える。ハッとしてそっと手を下ろした。いけない。私の方こそ瑠璃に対して構い過ぎているかもしれない。どのくらいが適正距離なのか。でもここは普通の学校とは違う。様々な言い訳や、そんなものを用意していたのに、気がついたらまた隣には瑠璃がいた。
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