テンシを狩る者(10/2更新)

小枝 唯

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夢の天使

少女の夢

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 ──蝶子は産まれてから体が弱く、20までは生きるのは難しいと言われていた。太陽の光にも弱く、アレルギーも多い。そして喘息も持ち合わせ、8歳の頃にはほとんど入院生活だった。
 そんな中、父と母は彼女の体に合った環境や医者を探し、多くの国を渡り歩いた。幸い、両親共に仕事は場所に囚われず、一般家庭よりも資金があった。そしてここ四年はドイツで過ごしていた。
 ドイツの気候や医者の相性が良かったのだろう、蝶子の体調は悪化しなくなった。もちろんほとんど自室で過ごし、太陽アレルギーも発症したため病院に行く時も車移動で、外になんて出られないし、学校にも行けない生活だ。しかし彼女はそこまで絶望していなかった。それは両親の存在が大きい。
 両親は彼女の体調に、干渉しすぎないように努めていた。

「蝶ちゃん、おはよう。あら、いい匂い」
「おはようママ。昨日SNSで見たシフォンケーキ、作ってみたんだ」

 歩いても呼吸が乱れないこんな日は、蝶子が母の家事を手伝ったり、趣味の料理をする。親としては何もせず休んでいて欲しい気持ちだが、それを抑えて好きな事をさせていた。そして体調が悪くなれば、過敏に反応はせずすぐにサポートをする。

「ん~美味しい! 蝶ちゃんは本当器用ねぇ」
「あ、またつまみ食い」

 可笑しそうに笑った蝶子は、少しむせた。すると母は「はい、お水どうぞ」と、優しい笑顔で渡す。蝶子にとって、それがとても楽だった。ストレスも病室に居る時より明らかに良くなっている。そんな生活が続いた半年前、蝶子は予告されていた20歳の誕生日を無事迎える事ができた。

「蝶ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「蝶子が欲しがっていたのを買ってきたんだ」

 蝶子は二人からの祝いの言葉を嬉しそうに受け取りながらも、少し視線を泳がせた。母はそれにいち早く気付き、痩せたほっぺを包む。

「もしかして、ママたちに悪いなって思ってる?」
「う……うん。だって、僕は二人に何もできないから」
「何もできないだって? おかしな事を言うなぁ。今日この日をどれだけ楽しみにしていたか、分かっていないな?」
「そうよ、本当に……」

 母は込み上げる言葉を詰まらせ、ぐっと涙を我慢するように表情を固めると、蝶子を力いっぱい抱きしめる。

「生きていてくれて、ママたちの子に生まれて来てくれて……本当にありがとう」
「ああ。パパたちは本当に幸せだよ、ありがとう蝶子」

 その言葉は自身の苦労が報われたからでも、単なる励ましの建前でもない。彼らの愛を一身に受けた蝶子は、それが一番よく分かっていた。だから彼女はそれ以上言わず、ただ二人からの祝福を受け取る。
 口にせずとも、両親は気付いているかもしれないが、蝶子は何度も安楽死を考えた事がある。それは彼女が苦しいからだけではなく、これ以上大好きな母と父の呪いになりたくなかったから。だが今はそうではなく、良くなって報いようと考えている。
 日光が浴びれないと、栄養も偏る。そのため、検診の際は点滴を長い間する。その間は漫画やタブレットなどでアニメを見る事もあるが、基本的には勉強に費やしていた。だがそれをしていると、ふと考えが降りる。

「先生、私はいつ日本に戻れますか?」
「そうですね……」
「もっと良くなれば、帰れますか?」
「少しずつ良くはなっていますよ。焦らずにいきましょう」

 この質問が、担当医を困らせると知っている。だがせずにはいられなかった。まだ若いし20歳は跨いだが、いつ大病を患うか分からない。だから焦ってしまう。
 蝶子は日本が好きだ。幼い頃に離れたが、しっかり覚えている。アニメや漫画の宝庫である日本は、彼女にとって最高の故郷だ。

(推しが日本にばかり居るのが罪……。イベントだって、元気だったら行けたんだろうなぁ)

 もう一つは、母と父のため。母は時々、日本に居る友人に電話している姿がある。そしてそれは父も一緒だ。

(パパもママも日本好きだし。そりゃそうだよ、僕より長い間住んでたんだから)

 早く今より良くなって、二人に恩返しがしたい。その一心で、蝶子は投薬も体の痛みにも耐えられた。しかしそこから間もなくして、体調を著しく崩して急遽検診をすると、癌が見つかった。彼女は常に多くの不調を訴えているのがあり、健康体でも気付きにくい初期症状に全く気付けなかった。そして知った頃には、既に末期だった。
 何よりも絶望したのは母。全てをかなぐり捨ててでも、娘の命を繋ごうと本人以上に足掻いた。その姿は父も止めようとするほどで、蝶子は何より痛ましい姿に心を病んだ。
 とある日の事、母は以前の明るさを取り戻していた。そして目に隈を残しながらも輝くような笑顔で、蝶子に不恰好な赤い石を差し出す。

「何これ?」
「これね、おまじない。べギーっていう占い師さんがね、病気が良くなる宝石だって、譲ってくれたの」
「え、それって──」

 騙されている。そう言いかけた蝶子の肩に、そっと大きな手が置かれた。父は彼女に目配りをし、蝶子はその意味を理解して笑顔を作った。

「ありがとうママ。大事にするね」
「それを持って毎晩お願いすると、天使がお願いを叶えてくれるそうなの!」
「天使……」

 上手く笑顔を保てない。母は壊れてしまったのだ。彼女は毎晩遅くまで治療法を調べていて、心労も相まって寝不足だ。父は母を自室へ促したあと、ベッドに浅く腰掛けて蝶子の頭を撫でる。

「ごめんな蝶子、お前にまで無理を言わせた」
「ううん、仕方ないよ。でも……ちょっと、寂しいな」

 蝶子は少し眉を下げて微笑んだ。
 母は前までは、よく一緒に寝たりと側に居た。今は治療法を探すべく駆け回っていて、その時間も減っている。家族で過ごせる時間はもう限られているというのに。

「……蝶子、来月、日本に帰ろうか」
「え、本当?」
「ああ。ずっと行きたがっていただろう? 日本で、行きたい所をたくさん回ろう。だから、今はゆっくり休むんだよ。ママの事は、パパに任せて」
「うん、ありがとうパパ」

 蝶子は父に優しく抱きしめられ、部屋から出て行くのをベッドから見送った。ふと視界に、お守りの石が主張するように転がり込んだ。握ると、勘違いなのか熱を持っているように感じる。

(天使……天使様が本当に存在したら、漫画みたいに体の痛みも消えて、外に出れて、パパやママと買い物したり、今までの恩返しがたくさんできるんだろうなぁ)

 いくらファンタジーな世界が好きでも、叶わないと知っている。母は泣くだろう。父は平静を装っているがきっと苦しんでいるだろう。
 投薬の影響か、最近体力の減少と共に、元より無かった体重も日に日に減って行く。ずっと料理も作ってない。家事のお手伝いもしていない。

(ママはクッキーが好きだった。パパはパンが好きだった。また作りたいな。ダメかな)

 これから体がもっと痛くなるだろう。ろくに物が入っていない胃が吐こうとするだろう。どれくらい痛いのか、どれくらい苦しいのか。まだ……苦しまないといけないのか。

「死にたく、ないなぁっ」

 家族と生きたい。もっと、もっと。
 蝶子は点滴に繋がった、針跡だらけの痩せた手で、力の限り石をぎゅうっと握りしめた。天使が本当に居るなら、今すぐ現れて、病気を消してくれ。できないなら苦しませないでくれ。そんな、暴力的な感情をぶつけて涙を零す茶色の目を強く瞑った。

「あなたの夢は、なぁに?」
「……え?」

 どこからか吹いてきた風に、少女の声が乗って聞こえた。目蓋越しの視界が眩しくて目を開く。ベッドの側でにこやかな笑顔を浮かべるのは、見ず知らずの少女だった。
 蝶子は状況が掴めず、ただ驚愕で飛び起きる。その時点滴の針が抜けて激痛に悶えた。

「あらら、大丈夫?」
「へ、え? だ、誰っ?」
「天使」

 時が止まったかのように、蝶子の思考が停止した。目の前の少女は、確かに息を呑むような美しさで、天使に例えられるだろう。それでも信じられない。だが彼女が突然現れた理由も分からない。
 そうか、夢だ。とも思ったが、その仮説はついさっきの激痛を引きずった手が、じんじんとした痛みで否定する。

「それを持って、お願いをしたでしょう?」

 可愛らしい笑顔で、天使を名乗る少女は蝶子の手元を指さす。骨張った手が握っているのは、母から貰った「お守り」だ。確かに彼女はこれを持ってお願いすれば、天使が叶えてくれると言っていた。だが、そんな事が起こるのか? 起こっていいのか?

「ほ、本当に、天使様……? な、なんで」
「なんでって、あなたが心から願ったからだよ。ね、私あなた気に入ったの。夢を教えて? 夢の天使が、それを現実にしてあげる」
「ゆ、夢」

 突拍子の無い事ばかりで、頭がぐるぐる。心臓がどくどくと脈打ち、緊張と興奮でおかしくなりそうだ。
 蝶子は自分の針痕だらけの手を見た。願いは一つに決まっている。彼女は石を祈るように握った。

「生きたい、死にたくない……!」
「死んじゃうの?」
「僕、病気で……。だから、健康的な体になりたいんです。外を歩いても疲れない、起きていても体が痛くない、そんなふうになりたいんです」

 天使は幼なげに「ふーん」と相槌を打つと、蝶子の前に両手の平を見せた。にこりと笑うと「握って」と言い、蝶子は輝くほど真っ白な手に恐る恐る指を絡める。
 不思議な感覚に、びくっと体を震わせた。なんだか今、この手が体の中を直接なぞっているかのような感覚がする。今までの事が強制的に頭に描かれて、少し息苦しい。手が離れると、これまでにない疲労感が襲い、蝶子は荒い呼吸を繰り返す。

「うん、分かった。あなたの夢を、現実にしてあげる」
「ほ、本当にっ?」
「その代わり、夢は私にちょうだい。でもそうすると、もう戻らないわ。それでもいい?」

 蝶子に迷いは無かった。食い気味に頷いた彼女に、天使は優しく笑う。そして骨張った手に今も握られている、赤い石を指さした。

「それを飲んで。そうすればあなたの体は、望んだ通りになる」
「え、石を?」
「大丈夫よ、痛くないから」

 お守りの石は歪だが長細く、小石と飛べるが飲むには大きい。蝶子は手の平で主張するように転がった石を、じっと見つめる。食道の細い彼女にとっては、人よりも窒息の恐怖もあった。だがこれを飲みさえすれば、夢が叶う。
 馬鹿馬鹿しい事だ。こんな事で叶うはずなんかないと分かっているのに、蝶子は意を決して、ルビーのような石を飲み込んだ。
 想像より痛くはなかったが、さすがに喉を異物が通る感覚は不愉快で、胃に落ちるまで顔をしかめる。少しして、ストンと落ちる音が聞こえた。胃からではなく、なんだかどことも言えない、強いて言うならば体の奥から、そんな不思議な音が聞こえた気がする。
 体が重くなるのを感じた。視界がふらつき、強い睡魔が蝶子を包む。体が耐えられずにベッドに沈み込んだ。暗くなる世界が閉じる最後まで、天使は微笑んでいた。

「──蝶子、おはよう」

 落ち着いた父の声が、蝶子の意識を浮上させた。いつもの穏やかな笑顔は彼女を安心させる。しかし「あれ?」と心の中で首をかしげながら、眠る直前の事を思い返した。

「パパ……昨日、天使様が来たんだ。僕の部屋に」
「天使? そうか、もしかしたら、夢で天使が蝶子に会いに来たのかもしれないな」
「夢……」

 蝶子は右手の甲を見る。点滴は変わらずそこにあった。記憶が正しければ、確か驚いた勢いで針は抜けたはず。そうか、夢だったのか。当たり前だ、あんなの都合が良すぎる。

「……パパ、なんだかお腹が空いちゃった」
「食欲があるのか? よし、すぐに朝ごはんを持ってくる」

 昨日までは食べても吐く事が多かった。食欲も無くて、父は蝶子の要求に嬉しそうに部屋を出ていく。あんな夢を見たあとだからだろうか、なんだか体も軽くて、痛かった場所も薄れている気がする。いや、薬の影響だろうか。
 ドアが開き、父が朝食のスープを持って来てくれた。温め直してくれたのか、湯気が立っている。野菜と豆が入った、具沢山のスープで食欲を掻き立てる。こんなに食べ物が美味しそうだと思ったのは久しぶりだ。

「召し上がれ」
「いただきます」

 父の手を借りて起き上がり、スプーンで口へ運ぶ。ひと口ゆっくり咀嚼したあと、無言で次を運ぶ。父は久々に見るそんな娘の姿に驚きながらも、嬉しそうに微笑んだ。そして全て平らげた。少ない量ではあったが、完食するなんて癌になって以来だ。

「ご馳走様、すごく美味しかった」
「そうか、良かった。他にも、何か欲しい物があったら遠慮せず言いなさい」
「あ……じゃあおかわり、したい。とかは、ダメ?」
「! もちろんだ、待ってなさい」

 栄養は取れるだけとった方がいい。父はすぐにもう一杯、今度は普通の胃袋の持ち主なら食べられる分を盛って来た。蝶子はそれも簡単に平らげ、空腹を満たした。

「……家の中、散歩したい」

 五十嵐家はいつでも引っ越せるように、借り家だ。だが一般家庭よりは屋敷と呼べるほどには広い。外に出られない彼女だから、車椅子で家の廊下を父と散歩した。部屋に戻って、内緒で恐る恐る立って歩いてみた。
 疲れない。少し走ってみた。息が切れない。

「嘘……もしかして本当に天使様、僕の病気、治してくれたの?」

 そういえば、石が無い。どこを探しても無かった。ベッド以外に持ち運んでいないから、それ以外の場所で無くすなんてありえない。あの夢が現実で、飲み込んだとしか考えられなかった。

「パパ、今すぐにお医者様呼んで!」

 結論から言えば、蝶子の癌は消えていた。それどころか他の病気も、アレルギーもだ。母は泣いて抱きつき、父は珍しく医者の前でも涙を流して喜んだ。

「蝶ちゃん、ごめんね、ママ……どうかしてた。蝶ちゃんが1番つらかったのに」
「ううん、いいの。ママのおかげだもん。でも今日からは、ずっと一緒にいてほしいな。ママ、パパ、本当に大好き」

 それから蝶子は、まだ大事をとって敷地内だが、活動時間を増やしていった。母と料理を作り、父と庭を散歩した。やりたかった事だ。これかた2人に恩返しができる。生きられる。それは希望でしかなかった。
 それから数日後、蝶子は少し違和感を覚えた。
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