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エピローグ
エピローグ
しおりを挟む冬の到来とともに都に帰着したニャムサンは、その入り口で狩衣に身を包んだ南方元帥バー・ケサン・タクナンに出くわした。
ツェンポと仲違いしたとき、ニャムサンはタクナンの副将を命じられながら無視した。タクナンはそれを自分に対する宣戦布告と受け取ってしまったようだ。以来、ニャムサンのことを目の敵にして、会うたびに恐ろしい顔でにらみつける。
今日のタクナンはニャムサンに笑顔を向けた。しかし、その目のなかに、意地の悪い嬲るような光がある。
「やあ、ナナムのお坊ちゃま。大変なことになったな」
なんのことだかわからないが相手にすると怒鳴り合いになる。黙って立ち去ろうとすると、タクナンは声を高めた。
「いやはや、ナナム一族はさすがに生き残る術を心得ている。災いの種となるものを取り除くために、先の当主の遺言をも握りつぶそうとは」
思わず、ニャムサンは言い返してしまった。
「なんだい、それ」
タクナンはニヤニヤと笑いながら「さあな」と言って馬腹を軽く蹴る。
「クソッ、なんだよ! 言いたいことはハッキリ言えよ!」
ニャムサンの声は、タクナンと家来たちの馬蹄の響きにかき消された。
下町にはプティの父が経営している宿屋がある。都の外から帰ったときは、ここに顔を出すのがニャムサンの習慣になっていた。
以前は国外の商人で賑わっていた宿も、ブ・チュン法のせいで閑古鳥が鳴いている。が、ブ・チュン法は完全に撤廃されたから、来年の夏にはもとの賑わいを取り戻すはずだ。
「これはこれは、ニャムサンさま。お帰りなさいませ」
舅だというのに、親父は祭壇にでも祀りあげかねぬ勢いでニャムサンにペコペコと頭を下げる。何度ニャムサンがやめるように言ってもきいてくれないのだ。ニャムサンもすっかり諦めて、好きにさせていた。
ここで酒を飲んで帰ることもあるが、今回は早く屋敷に帰りたかった。しかし挨拶だけして出ようとしたニャムサンを、親父は必死なようすで引き留める。
「オレは早くプティに会いたいんだけど」
「なんと嬉しいお言葉。大事にしていただいてありがたいことです。ですが、ちょっとお待ちください。でないと叱られてしまいますから」
せわしなく言うとニャムサンの腕を引き、部屋にあげる。いつになく強引な親父に、ニャムサンは面食らった。
「叱られるって誰に?」
ニャムサンの疑問に答える間もなく慌ただしく出て行った親父と入れ替わるように使用人たちが酒と料理を持ってくる。どう見てもひとりで食べきれる分量ではなかった。
「誰が来るんだ?」
使用人は「さあ……わたしどもは言いつけられただけですので」と困惑の表情で言う。仕方なく、出された酒をチビチビとなめていると、ドカドカと足音が近づいてバタリと扉が開いた。
「遅かったじゃねえか。待ってたんだぞ」
トンツェンとツェンワの顔を認めて、ニャムサンはげんなりした。
「なんであんたたちがいるの」
「ゲルシクどのと一緒に都に戻ってきたんだよ。摂政がいなくなったからな」
ふたりはドサリと腰を下ろして、ニャムサンに向かい合った。
「ずいぶん暢気な顔をしてるな。まさか、なにも知らないのか?」
タクナンが言ったことが脳裏をよぎる。
「一族が、なにかやらかしたのか?」
トンツェンとツェンワは顔を見合わせた。
「シャン・ティ・スムジェが、摂政の遺言に異議を申し立てたんだ。ティサンどのが摂政の遺言は本当だと証言したんだけど、ティサンどのはいわば政敵だろ? 信用出来ないって言われちゃえば、なあ」
「家来たちも聞いてたはずだけど」
「スムジェどのににらまれたらなにも言えないよ。それにあいつらはナナム家が安泰なら、主がだれであってもかまわないんだ。ゴーの野郎はどうした? あいつなら摂政の言葉に背くような証言はしないだろ」
「ルコンの小父さんと、あっちに残った」
トンツェンは頭をかきむしった。
「バカだな。なんでそんなこと許したんだ」
「しょうがないじゃないか。あいつがそうしたいって言うんだから」
「いまからルコンどのに証言を求める使者を送っても間に合わないぞ」
「間に合わないって?」
ツェンワが答えた。
「スムジェどのは、次の家長候補を都に連れてきて、陛下にお目通り願うおつもりのようです」
「次の家長候補って誰だ?」
ツェンワはあきれた顔を見せた。
「マシャンどのの末弟にゲルツェン・ラナンというひとがいるそうじゃないですか。もしかして、知らなかったのですか?」
「聞いたことはあるけど」
マシャンがツェテンを殺したという噂を信じた母親が実家に連れ帰ったという、ひとつ年上の叔父だ。
ニャムサンは手にしていた杯を一気に飲み干す。スムジェの勝手に腹が立った。ニャムサンが家長になるのがイヤならイヤで、一言ぐらいあってもいいではないか。そんなものは喜んで譲ってやる。
トンツェンは、なぜか気の毒そうな顔をして、身を乗り出した。
「おい、諦めるのはまだ早いぞ。おまえにはゲルシクどのが付いているんだからな」
「なんでおっさんが出てくるんだよ」
「ゲルシクどのはおまえの義理の親父みたいなもんじゃないか。この話しにカンカンになってるんだ。おまえがその気なら、ナナム家と一戦交える覚悟だ」
「よしてよ。だからいくさバカはいやなんだ」
「遠慮しないでください。わたしも力になりますよ」
ツェンワが言う。チム家とド家が組んで、ナナム家と争うなどしたら……。
「内乱になっちゃうじゃないか、なんのためにあんな苦労をしたと思ってんだ」
突然、笑いが込みあげて来た。
ナナムの家長になどなったら一族をまとめ、国の舵取りをしなくてはならない。これからも苦労が続くのだと思うと、この数ヶ月ずっと胃の中に石でも飲んでいるような重い気分が続いていた。それがすっかりなくなって、軽やかで爽快な気分になっている。
「そうか。そんなヤツがいたのか。これで丸く収まるな」
「おい、大丈夫か?」
トンツェンとツェンワが心配そうに顔をのぞき込むのもかまわず、ニャムサンはゲラゲラと笑い続けていた。
翌日、ニャムサンはツェンポに帰京の報告がてら家督と役職の放棄を申し出た。
「おまえから離れるわけじゃないぜ。政治や軍事に関係ない仕事をくれよ」
ツェンポは寂しそうな顔をした。
「サンシからも同じようなことを言われたよ。サンシのためには和尚の手伝いをする役職を新しく作ろうと思っているのだけれど」
「じゃあ、オレもそれでいいだろ? サンシに負けないよう、ちゃんと勉強するから」
「一緒に政治が出来る人間がいないと心細いよ。考え直してもらえないかな」
「新しい叔父さんが来るそうじゃないか。仲よくしろよ」
「じゃあ会ってみるけれど、仲よく出来なそうなひとだったらナナムの家督を継ぐ許可は出さないからね」
ツェンポは渋々承諾した。
スムジェとラナンが都に入るのを阻止しようといきり立つゲルシクをなだめるのには苦労したが、トンツェンとツェンワに協力してもらい、なんとか納得させた。
到着したラナンと謁見したツェンポは、ナナムの家督を継ぐ許可を出した。どうやらウマが合ったようだ。
それからひと月後、仏典翻訳官の役職が新設され、ニャムサンとサンシ、そしてシャーンタラクシタを迎えるためにインドに派遣されているセーナンが任命された。
※ ※ ※
兎(763)年、晩冬。
月に一度、ニャムサンはツェンポの名代で王墓へ参拝する。
多くの供物を持って行かねばならないから、このときだけはナナムの家長となったラナンから家来を借りることにしていた。
荷車とともにゆっくりと雪の積もる道を5日。王墓の門に到着すると家来が法螺貝を吹き鳴らす。そのこだまが消えるのを待ってから、一行は王墓へ入っていった。生ける死者たちは法螺貝の微妙な音色を聞き分けて誰が来たかを知るという。生ける死者に関する伝説のひとつだ。
先王の墓前に持ってきた供物の半分をそなえ、残る半分をマシャンの消えた洞窟へそなえる。いつものとおり、少しの間家来たちを遠ざけて、ここでひとり洞窟を背にして胡坐した。
陵墓の向こうに見える街を眺めていると、背後にひとの気配が近づいて、座った。ニャムサンは振り向かず、問わず語りに思いついたことを話し始める。
「ルコンが帰って来る。唐から貢ぎ物が来なかったから今年中にケンシを攻めるんだって。そのあと、内大相に復帰させる予定だ」
返事はない。それでもニャムサンは、語り続ける。
「ラナンはまだ人馴れしていなくて苦労しているみたいだけれど、ナツォクとはうまくやってる。伯父さんの遺言どおりにならなくて悪いけど、心配ないよ」
前回の訪問以後に起こった宮廷での出来事や国内外の情勢など語り終わると、ニャムサンは立ち上がる。
言い忘れていたことがあった。
「ふたつの指輪のことだけど、あれは伯父さんとおやじのものだから、オレが持っているより国のためになるようなことに使おうと思って」
気配が少し動いた。
「天竺の和尚が来たら、ツァンポ川の近くに新しい寺を建てる。そこに安置する仏像に埋め込んでもらおうと思うんだ。いいよね」
もちろん、答えはない。
チラチラと白いものが舞い降りて来る。おそらくこの冬最後の雪となるだろう。これからは生ける死者たちにも過ごしやすい季節になる。
ニャムサンは灰色の空に「また来る」と告げて、歩き始めた。
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