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第4章
マシャンの失脚 その6
しおりを挟む冬が近づいていた。
ところどころ見える地を這うような草木も、あとひとつきほどで枯れ果ててしまうだろう。そうして大地が一面茶色くなると、すぐに雪が白く染め上げる。いまはこの辺りに放牧している民も、もっと過ごしやすい地を求めて移動してしまう。
凍てつく大地に、ルコンと家来たちだけを残して。
ルコンはマシャンに道を誤らせたとして、この北原の荒野に流された。
小山の中腹にある洞窟に家来たちが食料や燃料を運び込んでいるあいだ、ルコンはふもとにある大きな石に腰掛けて、ぼんやりと牧畜民の天幕を眺めていた。
男たちは家畜を放ちに出かけているのだろう。中年の女性と、その娘と見える少女の姿が天幕を出たり入ったりする以外に、ひとの姿は見えなかった。
夕刻になると、のんびりと放歌しながら、家畜とともに男たちが戻ってくる。兄弟らしいふたりの中年男性と5人の子どもたち。その屈託のないようすに、ニャムサンではないが、うらやましくなる。
殿で家畜を追っていた12、3歳の少年が立ち止まってこちらを見た。ルコンに手を振る。ルコンも無意識のうちに手を振り返していた。
「あれ、小父さんの知り合い?」
振り向くと、ニャムサンが笑っていた。
「そんなわけないだろう」
ニャムサンも両手で大きく手を振ると、少年は飛び跳ねるようにして手を振った。
「やっぱり帰らないで牛飼いになろうかなあ」
のんびりとした口調でニャムサンが言う。
「ナナムの当主が、なにを言う」
「まだ当主と決まったわけじゃないよ」
サラリと言うニャムサンに、ルコンは驚いた。
「一族の承認を得て来なかったのか」
「そういうの、めんどくさいじゃないか」
「せめてスムジェどのとは話し合ったのだろうな」
ナナム・ティ・スムジェは、ツェテンのすぐ下の弟で、母の身分が低いために家督を継ぐことは出来ないが、残されたマシャンの兄弟では最年長となる、マシャンなき後、一族で重きをなすであろう男だ。ニャムサンは盛大に眉をしかめた。
「あいつが一番嫌いなんだ。なるべく話したくない」
「バカッ!」
思わず、ルコンは怒鳴ってしまった。
「好きだの嫌いだの言っている場合じゃないだろう。家長が一族と話し合えなくてどうする。まったく、おまえはいくつになったら分別を身につけてくれるのだ」
「罪人のクセに説教すんなよ。帰ったら頑張るって」
子どものように頬を膨らませながらも、ニャムサンはルコンの隣に腰かける。ルコンは周りを見回して、声の届くところに誰もいないのを確かめると、これまで聞けなかったことを思い切って尋ねた。
「マシャンどのは生きているのだろう」
笑顔を夕焼けに染めたニャムサンが答えた。
「やっぱり小父さんにはわかっちゃったか」
「王家の墓、と聞いたときにピンと来た」
墓守は『生ける死者』と呼ばれ、俗世間との接触が禁じられている。生者に姿を見せることはもちろん、声を聞かせることも許されない。墓を訪れるものは、その入り口で法螺貝を吹き鳴らして知らせる。彼らはそれを聞くと穴蔵や物陰に身を潜め、その存在を消すのだ。もしも生ける死者たちに知らせず墓に侵入したり、生ける死者と無理に接触しようとした者は、たとえツェンポであろうと問答無用で打ち殺される、と言われている。実例をルコンは知らないが、おそらく真実なのだろう。代々の王の安眠を守るため、彼らは法の外に存在するのだから。
「ティゴルに捕まったときに思いついたんだ。疑うひとがいても、生ける死者のなかにマシャンがいるかどうか確認する手立てはないから、マシャンを消すにはうってつけだろ」
「ティサンどのもご存じなのか」
「いや。ティサンどのはオレの言う通りにやってくれただけだ。勘づいてはいるかもしれないけど、ちゃんと話したのはナツォクとゴーだけだよ。生ける死者になるにはナツォクの承認が必要だからね」
「陛下はお許しになられたのだな」
「うん。オレにはナツォクの名代でときどき供物を持って行く仕事をくれた。それならマシャンに届け物が出来るから」
生ける死者の衣食住に必要なものは親族が供物として持って行く。近年、ナナム氏から生ける死者が出たことはないから、理由もなくニャムサンが王墓に通えば怪しむ者が出るだろう。
「そうか。それはよかった」
ルコンは天を仰いで微笑んだ。
「こっちにもさ。いろいろ届けるから安心して」
「余計なことをすると、おまえも同罪になるぞ」
「大丈夫。これもナツォクの許可をもらっているから」
「なに?」
驚くルコンに、ニャムサン肩をすくめる。
「やだなぁ。ナツォクが本気で小父さんに怒っているわけないじゃないか。冬が終わる前に迎えが来るよ」
「なあ、ニャムサン。わたしはマシャンどのを大相にするために働いてきたのだ。罪に問われなくても引退するつもりだったのだよ」
「まだ45じゃないか。引退なんてナツォクは許さないよ。小父さんには大きな仕事があるんだから」
「大きな仕事?」
「ケンシを攻めるんだ」
ルコンはしばらく言葉が出なかった。
ケンシとは、京師。
つまり唐の都長安のことだ。
「そんなバカな」
やっと絞り出した言葉に、ニャムサンが目を丸くする。
「だって、そのためにマシャンは唐と会盟をしたんだろ?」
「領土を広げるためだ。唐を滅ぼすためじゃない」
「マシャンがそう言ったんだぜ。自分が消えたらオレからナツォクに進言しろって。そしたらナツォクもティサンどのもすっかりやる気になっちゃってさ。小父さんはケンシに住んだことがあるんだろ? 唐人みたいに話せるし、向こうの習慣や儀式のこともよく知ってる。いまの唐主をやめさせて新しい唐主を立てるにはその知識が必要なんだって」
「新しい唐主だと?」
次々と聞かされる意外な話に、ルコンは頭のなかが混乱して来た。ニャムサンはニッコリと微笑むと立ちあがる。
「帰ったらナツォクから話があるよ。冬の間に身体がなまらないよう気をつけて。寒くなってきたからなかに入ろうぜ」
洞窟に向かうニャムサンの背中を、ルコンは呆然と眺めていた。
「もうすっかり片付いたよ。早く夕飯食おう」
入り口でルコンを呼ぶニャムサンの声が、荒野にこだました。
空が白み始めたころ、ニャムサンとタクは都に向けて発った。ふたりを見送ったルコンは、背後に立つゴーを振り返った。
「出来れば、ニャムサンの力になって欲しいのだがな」
ゴーはふたりの背中をじっと見つめていた。
「まだ、そのような気分にはなれません。ルコンさまが罰を受けられるなら、同じくマシャンさまのために働いたわたしにも罰が与えられるべきです。なのに、陛下はわたしに罰を賜りませんでした。ルコンさまがお許しくださるなら、ここに置いてください」
「そうか」
昨日ニャムサンの言ったことは本当とは思えない。ルコンに希望を持たせるために、あのようなことを語ったのではないか。
長安に攻め込む。しかも、帝の首をすげ替えるなど、夢物語だ。
だが。もしも、本当なら?
18歳のルコンが到着した開元24(736)年の春。皇帝李隆基が治める唐の京師は、この世のどこよりも華やかで美しく、自信に満ちた、平和な都だった。
あの長安を、征服しろと。それがマシャンによって託された、新しい自分の役目なのか。
瑠璃色の空に、陽が昇り始める。金色の光がルコンの目を貫いて、その胸にふたたび炎を灯した。
「そうだな。春になるまで、ゆっくり考えればいい」
「春?」
「唐には、冬と夏の間に、春という季節があるのだ」
「冬が終わったら夏になるものでしょう」
不可解な顔をするゴーに、ルコンはカカと大笑した。
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