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第4章

マシャンの失脚 その2

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 セーナンが通された部屋には、ツェンポはもちろん、大相をはじめとする重臣たちが顔をそろえていた。セーナンは緊張に震える自分の足を必死でなだめながら、なんとか儀礼通りの礼拝をこなした。ティサンが質問を発する。
「西の国境の状況はいかがですか?」
 ここで求められているのは、マンユル長官としての報告だ。セーナンは目を伏せたまま、マンユルの情勢を話した。セーナンが口を閉ざすと次の質問が飛んだ。
「ネパールに、不穏な動きはないか? こちらが唐に集中せねばならぬときに隙を突かれることがあってはならぬ」
 質問者が誰であるのか知らなかったが、席次から想像するに内大相のタクラ・ルコンだろう。
「とんでもございません。ネパール王はわが陛下に変わらぬ親愛の情をお持ちで、今後もさらなる友誼を求めていらっしゃいます」
「それはどうして知ることが出来た。ネパール王と面識がおありか」
 冷えた声に突かれて、自分が失言したことに気づき汗が噴き出す。発言者はツェンポの背後に立つ黒衣の、ぞっとするほど美麗な顔の持ち主だった。
「レン・セーナン。摂政のご下問です。お答えください」
 ティサンの言葉に、セーナンは自分が不躾に摂政の顔を眺めていたことに気づいて、慌てて頭を下げた。
「朝貢のために通りかかるネパール王の家臣はもとより、王と親しくしている商人たちなど、出来るだけ多くの者と会い、ネパール国内の情勢について聞取りをするよう心掛けております。つい、彼らの口ぶりを真似てしましました」
 こんな言い訳で信じてもらえるだろうか。ビクビクと次の言葉を待っていると、ティサンが引き取った。
「貴賤にとらわれず、多くの者から話しを聞くのはよい心がけです。これからも、陛下のために抜かりなくお役目に励まれますように」
 ホッとしながらも、摂政の顔に見覚えがあるような気がして、セーナンはもう一度、上目使いで摂政の顔をうかがった。マシャンはじっと、こちらを探るような鋭い視線で見つめ続けている。
「もう結構です。お下がりください」
 ティサンにうながされて、セーナンは頭を深く沈めてソロソロと後退った。ツェンポは終始退屈そうな表情で、一言も発することはなかった。

 部屋を出ると、袖を捕らえる者がいる。振り向くと、そこに摂政の顔があったので、セーナンは小さく叫んでしまった。
「ごめん、ごめん。そんなに驚かないでよ」
 摂政の冷たい声とは違う。
「オレのこと覚えてない? 無理もないか。一度しか会ってないんだもんな」
 バラけた口調に、セーナンはようやく思い出した。
「あ、あなたは、レン・ティシェル・サンシと翻訳をされているという……」
 ツェンポの居間で寝転がっていた、ニャムサンと呼ばれた若者だ。それで摂政の顔に見覚えがある気がしたわけがわかった。
「名乗ってなかったっけ。オレはシャン・ゲルニェンだ。とにかくこっち来て。ナツォクと会わせてやる」
「ああ、シャンのお方でしたか。では、摂政の?」
 ニャムサンはイヤそうな顔をする。
「マシャンはオレの伯父だよ。だけどオレはあいつとは違うから」
「いえいえ、余計な詮索をいたしました。申し訳ございません」
 セーナンがせわしなく手を振って言うと、ニャムサンは破顔した。
「そんな固くなるなよ。みんな早くインドの話が聞きたいってさ」

 ツェンポの居間には前回と同様、ツェンポ、ティサン、サンシ、ニャムサンの4人が顔をそろえた。ツェンポは先ほどと打って変わったにこやかな表情でセーナンに言葉をかけた。
「あなたが改革派であることを摂政は知っているから、冷たい態度を取っていた。不安にさせてしまいましたか?」
 セーナンは拝跪した。
「お心遣い、もったいのうございます」
「だから、そんなことすんなって」
 ニャムサンに腕を取られて立ち上がると、ニャムサンはツェンポをからかうように言った。
「おまえ、ニヤケそうなのを必死で我慢してたろう。スゴイ面白い顔してたぞ」
 ツェンポが顔を赤らめる。
「見てたの?」
「見てた、見てた。サンシも気付いただろ?」
 サンシは笑みを見せて小さくうなずく。
 そんな若者らしい会話を交わす3人も、セーナンの目には天人たちがたわむれているように映る。うっとりと眺めていると、ツェンポは照た微笑みを浮かべたまま、セーナンに言った。
「あなたの帰還がうれしくて、興味のない振りをするのに苦労しました。セーナンはインドまで行ったのですね。詳しく聞かせてください」
 これまでのことを思い起こすと、緊張を忘れ言葉が洪水のようにあふれ出して来た。
「ネパールに入ってすぐにネパール王に拝謁し、陛下のおこころをお伝えしたところ、ネパール王は大変お喜びになられました。それから釈尊がお生まれになったルンビニ、悟りをお開きになったブッダガヤ、マガダ国の王舎城や竹林精舎、コーサラ国の祇園精舎、涅槃を迎えられたクシナガラなど、ネパールとインドの各地の遺跡に参りまして、供養をさせていただきました。著名な高僧がいらっしゃると噂を聞けば、訪ねて教えを請い、精舎では沙門たちの論争に参加させていただき、深く法を学ぶことが出来ました。あちらの気候はとても蒸し暑く、慣れるまで苦労いたしました。しかし自然の美しさは格別です。緑が多く、極彩の花々や鳥や動物を見ることが出来ます。冬は温暖で過ごしやすく、これなら求道者が家を捨てて乞食をしながら各所を巡るのも苦ではないだろうと、うなずけました。ただ、仏教については憂いがないとは申せません。この頃は異教徒の力が強く、仏教徒が迫害され、仏塔などが破壊される地方も多くあります」
 いつの間にかツェンポの足下に寝転がっていたニャムサンが、ため息をついた。
「インドでも、そういう争いは避けられないのか」
 サンシが肩をすくめた。
「反乱が起こる前の唐は、そんなことありませんでした。長安には仏教はもちろん、孔子廟や中国の古い神さまを祀るお寺もたくさんありましたし、西域や、もっと西の国の神さまのお堂もありました」
「でも、反乱が起こったんだろ」
「あの反乱は宗教とは関係ないですよ」
 ツェンポはふたりのやりとりを微笑みながら聞いていたが、一段落するとセーナンに尋ねた。
「来ていただけそうな和尚ハシャンはいらっしゃいましたか」
 セーナンは膝を打った。
「はい。ネパール王のお勧めで、ナーランダ大僧院の阿闍梨シャーンタラクシタさまにお会いしてお願いをいたしましたところ、陛下がお招きくださるなら喜んで布教にいらっしゃるとの仰せです」
「ありがたいことです。その和尚さまはどのような方なのですか」
「中観派という、ナーガールジュナ菩薩を始祖とする学派の高僧でいらっしゃいます」
「ナーガールジュナ菩薩とは、春鈴が最後に訳していた『中論』を著した方ではないか」
 ツェンポが目を輝かせて、足下のニャムサンの肩をたたくと、ニャムサンは「そうだな」と寝ぼけたような声をあげた。
「ただ……」
 セーナンは、言いかけて、それがツェンポに対する非難と取られるのではないかと畏れ、言葉を止めてしまった。ティサンが小首をかしげる。
「なにか条件があるのですか?」
「『ブ・チュン法』があっちゃダメだろ」
 セーナンが口に出来なかったことを、ニャムサンはあくびをしながらズバリと言う。ツェンポの顔が曇る。撤廃の努力をすると言った破仏の法は、まだ生きているのだ。
「だから、マシャンをなんとかしようぜ」
「なんとかするって、どうするんです?」
 サンシが言うと、ニャムサンは半身を起こしてニヤリと笑った。
「墓に生き埋めにでもするか」
 沈黙が、流れた。
「あれ? みんなビビってんの?」
 ニャムサンは一同の顔を見回して、ピタリとティサンに視線を据えた。
「それしかないって。このごろは、庶民のマシャンへの恨みがナツォクに向き始めているって、ティサンどのが言ったんじゃないか。尚論たちだって、いつまで我慢していられるかわからないぜ。特にゲルシクのおっさん。あの堪え性のないひとが、黙って東の辺境に引っ込んでるのが奇跡だよ。そう言えば、おっさんのいる所と都の位置関係って、安禄山の挙兵したところと長安に似てるな」
「いやな冗談言わないでください」
 サンシが膨れると、ニャムサンは真剣な顔をした。
「オレは真面目に言ってるんだぜ。いくさバカどもは唐の内乱に喜こんでるけどさ、下手するとこっちも唐みたいになりかねないって」
 ティサンは悲しそうな顔をしてうなずいた。
「おっしゃるとおりです」
「だろ? だったら、早くマシャンを消すべきだ」
「墓に生き埋めって、どうやってです?」
 サンシの質問に、ニャムサンはヘラヘラと笑いながら言った。
「おまえもちっとは考えろよ。と言いたいところだけど、もうオレは考えついちゃったんだよね。任せておけって」
 また、ニャムサンはゴロンと横になる。
「だから、どうやってです?」
「秘密」
 ニャムサン以外の4人は、互いに顔を見合わせた。
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