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第三章

ニャムサンの受難 その7

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「とのーっ、起きてください。お仕事に行く時間ですよー」
 タクのキンキンと響く声が、ニャムサンの微睡みを破った。
「朝っぱらから、うるさいヤツだなぁ……」
 つぶやいて、ゆっくりと目を開く。部屋のなかは、大分明るくなっていた。ニャムサンは肘をついて起きあがる。
「いたたた……」
 全身を突き抜ける痛みに耐えかねて、再び床にゴロンと寝転ぶと、入り口から顔をのぞかせていたタクの満面の笑顔が目に飛び込んできた。
「こんなんで仕事に行けるわけないだろ! しばらく休むから、もう少し寝かせてくれ」
「えー、本当に痛いんですかぁ」
「見ればわかるだろ、バカ!」
 タクは困惑の表情を浮かべた。
「わかりました。じゃあ、ゴーさんに、そう言って来ます」
「は? なんであいつに伝えるんだ」
「朝早くにいらして、ご出勤の前に来てくれって地図をくれました」
 タクは手にしていた紙片の封をビリビリと破くと、なかを見てしまう。
「バカッ! そういうものを勝手に開けるんじゃねえ」
 ニャムサンは痛みこらえてソロソロと立ちあがると紙片を奪った。網目のように描かれた細い線が、都のなかの道をあらわしていることはすぐにわかった。下町の人通りの少ない住宅地の一角が、四角に塗りつぶしてある。
「こんなところに? ゴーは他になんか言ってなかったのか」
「えっと、プティさんと一緒に待ってるって」
 眠気が一気に吹き飛ぶ。タクの両肩につかみかかった。
「そりゃどういう意味だ」
「し、知りませんよ。とにかく、そう言えって。で、これを殿にお渡しすれば殿にはわかるからって。ゴーさんが言ったのはそれだけです。そんな怖い顔なさらないでくださいよぉ」
 ニャムサンは地図に目を落とす。
「ここにプティがいるっていうのか?」
 つぶやくニャムサンに、タクが暢気な声で言った。
「プティさんって、誰なんですか?」
 ニャムサンは「出かけてくる」と言い捨てると屋敷を飛び出した。

 ゴーの地図にはご丁寧に黒い四角の周りの家々が具体的に描いてあったので迷うことはなかった。ゴーは冗談を言うような男ではない。確かにその家にプティはいるのだろう。
 なぜ?
 ニャムサンは何度も問いかけたが、答えはひとつしか思い浮かばなかった。
 マシャンの命令だ。ゴーが独断でことを起こすはずがない。目的は、密かにニャムサンを殺すことだろう。
 しかしマシャンなら、なにかと罪を着せてニャムサンを処刑するなぞたやすいはずだ。ツェンポと波風を立てたくないから、こんなまどろっこしいことをするのか?
 それも納得がいかない。なにかがおかしい。

 なんの変哲もない民家の扉をたたくと、ゴーが顔を出した。
「よお」
 ニャムサンは笑いかけたが、ゴーの表情は変わらない。
「相変わらずだな。わざわざ来てやったんだから、ちょっとは歓迎しろよ」
「ずいぶん遅かったのですね」
「タクの鈍さは知ってるだろう。急ぎなら急ぎだって言ってくれ」
「心得ておきます。もっとも、今後そんな機会はないでしょうけど」
 ニャムサンはゴーの腕をつかんで、その顔をにらんだ。
「プティは無事か?」
 ゴーは扉を開いてニャムサンを招き入れると、後ろ手で扉を閉じた。
 部屋の奥の床に横たわっているプティの姿が見えた。駆け寄ろうとするニャムサンの腕をゴーがつかむ。
「危害は加えていませんよ。眠り薬で寝ているだけです」
「どうやって連れて来たんだ」
「あなたが怪我をして動けないと言ったら、深夜にも関わらず案内してくれとせがまれました。無理にお連れしたのではありません」
 ニャムサンはこぶしを握り締める。
「彼女は関係ないんだろ。もう帰してやってくれ」
「そうはいきません」
「おまえっ!」
 ニャムサンはゴーの手を振り払うとその襟首を捕まえた。
「どうして、おまえらは、そんなふうに軽く、ひとのいのちを奪えるんだ。平気な顔をして……」
 ゴーは冷たい視線をニャムサンに向けた。
「わたしがどうするつもりであなたを呼んだのか、おわかりのようですね。それなのにノコノコといらっしゃるとは。愚かな方だ」
「オレがバカなのは生まれつきだろ」
「いつまで甘えていらっしゃるのです。ご自身の立場もわきまえず軽々しく出歩いて、そんな怪我をされて」
 ゴーはプティを指さした。
「あげくの果てに、こんな身分低い小娘のために、いのちを捨てようとする。その身勝手さが、どれだけ摂政のご迷惑になっているか」
「だったら、縁切りでもなんでもすればいいじゃないか」
「で、この女とふたりで牛飼いになられるのですか」
 ゴーは自分の襟首をつかむニャムサンの両手首をつかんでひねる。ニャムサンは痛みに悲鳴をあげた。
「あなたのように、やるべきことから逃げてばかりいる人間は、どこに行ったってすぐに逃げ帰って来るのだ」
 ゴーに突き飛ばされて、ニャムサンは床に転がった。
 次には蹴りが飛んでくるか、それをも刃物か……。ニャムサンはすぐに半身を起こして攻撃に備えた。が、ゴーは余裕の表情でニャムサンを見下ろしながら、右手を鼻先に突きつけてきた。指先に、ニャムサンの紅玉髄の指輪が摘まれている。つかんだ手首を放した瞬間に掏り取ったのだろう。
「おい、返せよ!」
 指輪に向かって手を伸ばすと、ゴーは飛び退る。
「返せって言ってるだろ!」
 あの指輪は、自分にも父がいたという唯一の証明だ。だから、嫌いなマシャンと同じ物であっても、肌身離さず身に着けていた。
「なんだかんだいって、血のつながりが大事なのだ。あなたは自分からナナムの家を捨てることなんて出来ない。だったらわたしが捨てさせてあげましょう」
 ゴーの言っていることを理解する余裕などなかった。
 ニャムサンは飛びあがるように身体を起こすと、ゴーに向かって突進する。スッと身体を回転するように躱されて、ニャムサンは前のめりに転んだ。
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