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第三章
ニャムサンの受難 その5
しおりを挟む叫び疲れたニャムサンは、横たわったまま天井の小さな穴をすり抜けて地面に落ちてくる光を眺めていた。それはのろのろと壁に近づき、やがて壁を這いあがって行く。洞窟の底が闇に沈み始めた。空気がますますひんやりする。ブルリと身体が震えた。
マシャンはどうなっただろうか。
空腹とのどの渇きに苛まれながら、マシャンの心配をしていることに気がついて、苦笑いが浮かぶ。
マシャンは赤ん坊のニャムサンを殺すことも出来たはずだ。しかし、ナナムの子どもとして育て、ツェテンの屋敷や財産をそのままニャムサンに引き継がせた。だから世間からはナナムの御曹司として扱われ、なんの障害もなく尚論となった。ニャムサンをナナムから追い出すことを反対した家来がいたためと聞いているが、少しは感謝すべきなのだろう。
完全に光が消え、洞窟内が暗闇に閉ざされたとき、小さな振動を感じた。地面に耳をピタリとくっつけて、その音を確かめる。
間違いない、足音だ。それもひとりではなく、複数の人間の。
「おい! 誰か、助けてくれ」
叫び声が反響する。足音の主たちにも届いたはずだが、それはじらすようにゆっくりと近づいてきた。
「誰か、そこにいるんだろ?」
笑い声が返って来る。
ティゴルなのか?
ニャムサンは口をつぐんだ。
足音は大きくなったり小さくなったりしながらも、確実に近づいていた。闇のなかに小さな灯りが現れた。まっすぐにこちらに近づいて来る。
「大分お待ちかねのようだな、シャン・ゲルニェン」
嘲る声はティゴルだ。その後ろにぼんやりと灯りに照らされたふたつの顔を見て、もう少しで叫んでしまうところだった。だが、ふたりとも知らん顔をしているので、必死で喜びを抑える。
ニャムサンの顔のそばに、ティゴルはかがみ込んで灯りを置いた。
「このおふたりもマシャンに恨みがあるそうだ。今夜は3人でたっぷりとかわいがってやるからな」
「オレは関係ないじゃないか」
「ないわけないだろが。伯父貴の権勢を盾に好き放題していたくせに」
ティゴルは手の甲で、ニャムサンの頬を軽くたたいた。
「お約束通り、まずはこの顔を切り刻んでやる」
「マシャンはどうした。まさか逃げ帰ったんじゃないだろな」
ティゴルの目がギラリと光った。今度は力一杯頬を張られる。
「だから顔はやめろって」
「これから切り刻んでやるってのに、なにとぼけたこと言ってんだ」
「マシャンが死んでいないなら、順番が逆だろ」
「オレは逃げ帰ってきたんじゃねえ。ちゃんと射ったんだ」
「射ったって、死んでなかったら違うじゃないか」
「ああ、次は失敗しないさ。順番は関係ねぇ。おまえも、マシャンも殺ってやる」
「オレは気分次第で助けてくれるんじゃなかったのか」
「だから、助けてやる気分じゃねえんだ」
ニャムサンはイラつきながら双子を見た。双子は笑いながらうなずく。それを確認すると、ニャムサンはゆっくりとティゴルに話しかけた。
「わかった。もう観念したから、少し話しをしてもいいか?」
「あ? オレはおまえと話すことなんかねえぞ」
「聞いてくれるだけでいいんだよ。最後のわがままだ。頼む」
ティゴルは首を回して双子に目を向けた。ニマが応える。
「オレたちはかまわないよ。時間はたっぷりあるしな」
ダワも黙ってうなずいた。
「よし、いいだろう。だが、いのち乞いは聞かないぞ」
「わかってるって。実は、あんたに謝らなくちゃいけないことと、お礼を言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「なんだって?」
「あんた、マシャンがなんでドンツァプを裏切ったか、わかるか?」
「そりゃ、都を囲まれて、大相のほうが不利になったからだ」
「そう、それさ。なんで都の外にいたゲルシクのおっさんとティサンどのが知ったと思う?」
「マシャンかルコンの野郎が知らせたんだろ?」
「おいおい、それじゃおかしい。あんた、ゲルシクのおっさんが来たからマシャンが裏切ったって言ったじゃないか。だいいち、ドンツァプはあの現場にいた尚論たちの裏切りを警戒していたから、厳重に監視していたはずだ。外部への連絡なんて出来なかっただろ。でも、ひとりだけ、あの事件のあとに堂々と都を出てティサンどののもとに向かった尚論がいた。あんた、知らなかっただろう」
ティゴルは首をひねった。ティゴルの返事を待たず、ニャムサンは続けた。
「シャン・トンツェンだ。ドンツァプは、戦況報告に来たトンツェンに、ティサンどのを寄越せと追い返した。ティサンどのを都に呼んで殺すためにね。もちろん、ドンツァプが会ったとき、トンツェンは宮廷で起こったことをなにも知らなかったから、ドンツァプは帰したんだ。だけど、彼がドンツァプに会った後、都を出る前に、宮廷で起こったことを知らせたヤツがいる。そこからティサンどのに情報が漏れて、ゲルシクのおっさんも知ることになった」
ティゴルは目を見開いた。
「謝りたいことっていうのは……」
ニャムサンは神妙な顔をしようとしたが、どうも半笑いになってしまう。
「わかった? それをトンツェンに教えたのはオレなんだよ。だって、オレは見ちゃったから、ついしゃべっちゃったんだ。すまなかった」
「見た……」
「で、お礼は、中庭に入れてくれたことだ。ありがとな」
下からの灯りに照らされて浮かびあがっていたティゴルの顔が、醜く歪んだ。
「てめぇ、ふざけやがって。ぶっ殺してやる!」
ニャムサンに飛びかかろうとする身体を、ダワが後ろから羽交い締めにする。
「止めんじゃねぇ! おまえらにとってもこいつはかたきだろ。なんたって、マシャンが権力を握ったのはコイツのせいなんだからな」
ニャムサンは声を大きくした。
「ああ、もうひとつ、謝らなくちゃならないことが出来た」
「なに?」
ティゴルは裏返った声をあげて、ニャムサンをにらんだ。
「そのふたり、ティサンどのの部下なんだ。紹介が遅くなって悪かったな」
目と口をポカンと開けたその首に、ダワが腕を回して締めあげる。
ティゴルは地に崩れ落ちた。
洞窟から出ると、あたりはまだほんのりと明るかった。街道の三叉路にふたりの兵士がニャムサンの馬を連れて待っている。
「実はこのふたりは、ずっと前からニャムサンさまを密かに護衛していたのです」
ふたりの兵士は頭を下げた。
「それなのに今日はお守りすることが出来ず、このような事態になってしまいました。大変申し訳ございません」
ニャムサンは頭を振る。
「申し訳ないのはこっちだ。あんたたちに落ち度がないことはオレがティサンどのに証言するから、安心してくれ」
ニマは気絶しているティゴルを馬にしっかりとくくりつけた。
「わたしはお先に、ティサンさまに報告にまいります」
ニマは一礼すると馬に飛び乗って駆け去って行った。ニャムサンはダワに助けられて馬に乗ったが、身体中が痛くて、めまいがして、とても乗っていられそうにない。ダワがすかさずニャムサンの後ろに乗って手綱をとったのでホッとした。
翻訳所に到着すると、サンシは洞窟の前で待っていた。
「だから、何度も注意したんです。ひとりで出歩くのは危ないって」
ことのあらましを聞いたサンシは、目にいっぱい涙をためて怒鳴った。
「ティサンさまの護衛がいなかったら、死んでいたのですからね」
ケラムの弟子たちが、ニャムサンの身体中に薬を塗っている間も、サンシの口は止まらなかった。ニャムサンはいつになく神妙に黙って頭をたれ、サンシの叱責を浴び続けた。
サンシがひと息つくと、ニャムサンは恐る恐る訊ねた。
「なあ、オレの顔、どうなってる?」
「そりゃ酷いものです。その顔で宮中に上がったらかっこうの噂の種になるでしょうね」
ニャムサンはがっかりした。それでは、しばらくプティにも会えそうにない。
誰にも見られずに都に帰りたい。ニャムサンはその夜のうちに、サンシとダワと二人の兵士に付き添われて自宅に帰った。ニャムサンの顔を見たとたん、泣き出したタクを振り切って部屋に引っ込む。
ひとりになると、どっと身体が重くなった。殴られたところがジンジンとして、節々がきしむように痛む。鏡をのぞいてみると、顔の左半分がいびつな形に膨らんで、ベッタリと紫や青のアザで覆われている。ため息をついて、鏡を部屋の隅に放り投げ、床に寝転ぶ。寝てしまったら顔の腫れがひどくなってしまうかもしれないが、もう起きあがることは出来なかった。
しばらくは家でおとなしくしていよう。マシャンを陥れる作戦をティサンと話し合いたかったが延期するしかない。もう少し、ひとりで詳細を練ってから。
とにかく、明日。明日になったら、全部考えよう……。
そこでニャムサンの思考の糸は、プツリと切れた。
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