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第三章

ニャムサンの受難 その1

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 この時期には珍しい暖かな日差しを浴びて、ニャムサンはゆっくりと馬を歩ませていた。山々に囲まれて南北に走る大河の東岸に沿った一本道だ。ヤルルン方面に向かう道とケラムの洞窟に向かう道が分かれる三叉路さえ見失わなければ迷う心配はないから、存分に思考を働かせることが出来た。
 このごろは、どうすれば王権に動揺を与えることなくマシャンを除くことが出来るかばかりを考えている。
 マシャンは多くのひとの恨みを買っていた。改革派の尚論だけではない。最近では伝統派の尚論も、いつ罪を着せられるかとビクビクしながら過ごしている。マシャンの権勢を疎ましく思っている者は多くいるはずだ。彼らを取り込めれば、マシャンを失脚させることが出来るかもしれない。しかし表だって不満をあらわにしない彼らの誰に繋ぎをとればいいか、まったくわからなかった。
 ルコンのことを思うと、ニャムサンのこころは重く沈んでしまう。
 マシャンはルコンの思惑を外れて暴走しているようだ。しかし世間ではルコンもマシャンと共に、いや、むしろルコンがマシャンをそそのかしているのだろうとの噂が密やかに流れていた。マシャンを断罪すれば、ルコンの連座は免れない。そうでなくても、ルコンは自らマシャンとともに罪に服すことを望むだろう。
 どうにかルコンを助けることは出来ないものか。
 しかしいくら考えても、うまい案は思いつかない。
 ふと、顔をあげると、三叉路が目に飛び込んで来る。危なくとおり過ぎるところだった。
 ホッと息をついたとき、世界が傾いた。全身を地面にたたきつけられてうめく間もなく、重たいものが腹に飛び乗ってきて息が詰まる。
「よう、久しぶりだな。おんなたらし」
 背後の太陽がまぶしくて黒い影にしか見えない。しかしその鼻にかかった声には聞き覚えがあった。
「まさか、おまえ……」
 名を言う前に、鳩尾に衝撃を受けて意識が飛んだ。

 寒気に身震いして、目を開く。周囲はうっすらと暗い。
 もう夕方なのか? なんで自分は地べたに寝ているんだろう。確か、ケラムの洞窟に向かっていたはずだ。と思い返して、急に意識が鮮明になった。
 そうだ、あいつはティゴルだった。
 起きようとするが身体が思うように動かない。身もだえすると、手首と足首に何かが食い込んで来る感覚があった。縛られているのだ。
「クソッ」
 吐き捨てると、笑いを含んだ声が反響した。
「お目覚めですか?」
 仰向けに転がって目を向けると、片頬をゆがめて笑う顔が目に入った。
 ティゴルはニャムサンの肩をつかんでぞんざいに引き起こし、たたきつけるように壁にもたれかけさせた。ここは洞窟のなかだ。上方から漏れる光が下に降りて地面の一か所を丸く照らしている。
 ティゴルは腕を組んで笑顔でニャムサンを見下ろしながら言った。
「おまえの伯父貴はずいぶん嫌われているぞ。あいつを殺したら、オレは英雄になれるぜ」
「バカじゃないの。マシャンを殺したって先の陛下を殺した罪は消えねぇよ」
 ティゴルが真顔になる。ニャムサンは左頬を蹴られて転がった。
「生意気な口きくんじゃねえ。てめえの立場、わかってるのか?」
 また、引き起こされる。
「顔はやめろよ」
 ニャムサンがつぶやくと、ティゴルはニヤリと笑んだ。
「おんなたらしは顔がいのちってか? じゃあ、これはどうだ?」
 腹にティゴルの拳が食い込んで、ニャムサンは喘ぎながら身体を二つに折った。ティゴルがニャムサンの髪をつんで顔をあげる。
「おい、マシャンは都にいるな?」
「いるけど、都になんか行ったらすぐに捕まるぞ」
 しゃがれた声が出た。目と鼻の先にあるティゴルの顔が歪んだ。
「そんなのわかってるさ。だからその前に、あいつを見つけて殺す。そのあとはどうなったって知ったこっちゃねえ」
 球を投げるように、ニャムサンの頭を壁に投げつける。
 見当を失って、力なく地面にずり落ちたニャムサンに、ティゴルの声が降ってきた。
「オレは誰にもおまえのことを言わねえからな。オレが帰らなかったら、おまえはここで野垂れ死ぬんだ。ざまあみろ」
「むざむざと死にに行くことないじゃないか。おまえはドンツァプに利用されてただけなんだろ。生きていることは誰にも言わないでやるから、逃げろよ」
「おやおや、ご自分をこんな目に遭わせるオレの心配をしてくださるんですか。やっぱりやんごとなきお方は、オレみたいな下賤な人間と違っておこころが広いんですねぇ」
 ティゴルの蹴りが、太ももに飛んでくる。うめくニャムサンにティゴルは投げつけるように言った。
「レン・タクラに顔を見られちまった。3日前だから、今頃はマシャンにご注進に及んでるだろうよ。もうやり直しはきかないんだ」
「そんなことないって。また隠れりゃいいじゃないか」
 ティゴルはギラギラと光る目でにらみつけた。
「もし無事に帰ることが出来たらそうするさ。マシャンをぶっ殺したら、次はおまえだ。その大事な大事なキレイなお顔を切り刻んでやる。いのちを助けてやるかどうかはオレの気分次第だ。楽しみに待ってな」
 そして、出て行ってしまった。

 縛られたまま、ひとり取り残されたニャムサンは周りを確かめた。ここは洞窟の行き止まりだ。三方を壁に囲まれ、部屋のようになっている。青空の見える頭上の穴は、ニャムサンの背丈よりはるかに高いし、得意の壁登りの技を駆使しても手が届きそうにないところにある。もっとも縛られていてはどうにもならないが。奥には火を焚いた後が黒く残っていた。ティゴルはここで一晩を過ごしたのだろう。一方は洞窟の入り口に続いているようだが、通路は曲がりくねっているのか、先は暗くてまったく見通せなかった。
 ニャムサンはゴロゴロと転がって移動してみたが、めまいと痛みに耐えられずに断念する。そのまましばらく、仰向けになってぼうっとしていた。
「腹減ったな」
 こんなときにも食欲がある。
 ニャムサンはごろりと横になって、ジンジンと痛む左頬をひんやりとした地面につけた。
 ティゴルが無事に帰って来るはずがない。マシャンに近づく前に捕まってしまうだろう。
 目の前の地面を照らす光をじっと見ていると、ジリジリと地を這うように壁に向かって進んでいるのが分かった。
こうして小さな穴を通して外界とつながっているのに、誰もオレがここにいることを知らない。
 ニャムサンの頭のなかにひらめくものがあった。
 この数ヶ月、ずっと考えていたことの答え。本当のことを知っているのは関係者だけだが、噂のとおりならルコンを説得してマシャンだけを消し去ることが出来るかもしれない。
 突然、身体の奥底から焦りがわいてきて、煩悶する。いますぐ、ツェンポとティサンに相談したい。午を過ぎてもニャムサンが姿を見せなければ、サンシは異変を感じて探してくれるだろう。でも、ここにたどり着くのはいつになることか。
 この洞窟が見つかったときには、もう手遅れになっていて……。
「誰かッ!」
 ニャムサンは叫び始めた。
「オレはここにいる! 助けてくれ! サンシ! ナツォク!」
 声が嗄れるまで、ニャムサンは叫び続けた。
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