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第二章

マシャンの破仏 その5

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 まだ暗いうちに都を出発したニャムサンは、郊外にある岩山の緩やかな坂道を登っていった。ところどころにつもりはじめた雪を避けながら慎重に進む背後では、タクがブツブツと文句をたれていた。
「お帰りになられてようやく安心して眠ることが出来るって喜んでたのに、こんな早朝から連れまわされたらたまりませんよ」
「おまえが勝手についてきたんじゃないか」
「そりゃそうです。また逃げ出されたら、たまったもんじゃありません。シャン・トンツェンにも『おまえがしっかり見てないからだ』って怒られて、本当に怖かったんですから」
「ああ見えて優しいから、おまえを殴ったりはしなかったろ?」
「わたしみたいな者にしたら、あんな偉い将軍さまににらまれたら、それだけで死ぬほど怖いんですよ」
「わかった、わかった。もうあんなことはしないから安心しろ」
 山の中腹に大きく口を開けている洞窟の前で足を止める。
「着きました?」
 ゼイゼイと息を切らせて追いついたタクに、ニャムサンは眼下を指さした。山々の背後が朱色に染まり、足元を金色に輝く朝霧が河のように流れていく。タクが感嘆の声をあげると、洞窟から若い男が顔を出して誰何した。
「オレはシャン・ゲルニェンだ。先生にお会いしたい」
 ニャムサンの名乗りで尚論と知ったからか、若い男は丁重にニャムサンとタクを洞窟に導き入れた。
「師は黙想中ですので、しばらくお待ちください」
 男はうやうやしく告げて奥に入っていく。ニャムサンとタクは胡座して待った。香を焚いているのだろう。花のような甘酸っぱい匂いが漂っている。その薫りを胸に吸い込みながら一刻ほど待つと、先ほどの男がニャムサンを呼んだ。ニャムサンは居眠りをしているタクをそこに残して、奥に進んで行った。
 最奥は人の手でまるくくりぬかれ、広々とした部屋になっている。その真ん中でチラチラと揺れる炎の向こうに、ニャムサンは目指す相手の顔を認めた。
「お久しぶり。先生」
 赤く照らされたケラムの顔がゆがんだ。
「あなたでしたか。こんな朝早くに、尚論が直々にお見えというのでいささか驚きました。ご祈祷ですか?」
 ニャムサンはドサリと腰を下ろした。
「いや、実はナツォクのために、先生に一肌脱いで欲しいんだ」
 ケラムは首をかしげて、目を見開く。
「陛下の御為に?」
「そう。ちょっとふたりだけで話が出来るかな」
 ケラムが、ニャムサンを案内した男に退がるように言うと、彼は音もなく姿を消す。
「ただ、先生にも危険が及ぶかもしれない。それがイヤだったら素直に言っておくれ。オレはなにも話さないで帰る」
 ケラムは真直ぐにニャムサンを見つめた。
「知らなかったとはいえ、わたしは先の大相の陰謀に加担してしまった。その罪滅ぼしになるのなら、喜んで協力させていただきます」
「先生はぜんぜん悪くないよ。でも、そう言ってくれると助かる」

 ニャムサンとケラムが王宮に到着したのは、正午を回ったころだった。ふたりの後にはタクとケラムの弟子ふたりが、ケラムの洞窟から持ち出した紙束を山のように積んだ荷車を引いている。
 宮殿の門を守る衛兵に、ニャムサンは荷車を指さして言った。
「ツェンポが、先生の持っている珍しい本を見たいって言うんで持って来たんだ」
 衛兵は荷台をチラリと見ただけで、アッサリと一行を通した。
 宝物庫にはツェンポとティサンとサンシが待っていた。ケラムは仏典の山を、興味津々といった顔で見回した。
「すごい量ですね。これは先代の陛下が収集されたものなのですか?」
 ティサンは首を振る。
「いいえ、先の陛下以前に集められたものは、すべてドンツァプに燃やされてしまいました」
「なんと酷い」
 ケラムは悲痛な顔をした。ルコン同様、それがたとえ異教の本であろうと損なわれることにこころが痛むようだ。
「こんどはこいつらが危ないんだ。マシャンはドンツァプがしたのと同じようなことをしようとしているから」
 言って、ニャムサンは一巻を手に取ってみる。ニャムサンには模様にしか見えない複雑な形の文字が並んでいる。発音だけを表すこの国の文字と違って、漢字は意味を表す、という程度の知識はあった。だとしたら、人間の考えられる意味の数だけあるということだ。クラクラする。
「こんなの、サンシは自在に読めるのか」
「もちろんです。もともとわたしは唐人ですから」
 サンシはクスクスと笑う。
「ここにある仏典は、すべてこのサンシどのが唐から持ち帰ったのです」
 ティサンが言うと、ケラムは感に堪えないという表情でサンシを見る。
「そのお若さで、唐へ使いされたのですか。言葉が出来るとはいえ、たいしたものですね」
 サンシは色白のほおを紅に染める。ニャムサンは、胸のうちがチクンと痛むのを感じて戸惑った。勉強の出来るサンシに嫉妬するなんてはじめてだ。ニャムサンは、自分のなかに芽生えたものを振り切るように外に出て、洞窟から持ってきたものを宝物庫に運び込む。
「貴重なものではないのですか」
 ツェンポは新たに加わった紙や木簡を見つめて言った。
「これらは弟子が書写した反故のようなものです。用済みになりましたら破棄していただいてもかまいません。これとは別に、わたしの先祖が代々、歴代のツェンポのなされた業績を書き継いでいる門外不出の記録をお持ちいたしました。こちらを陛下に献上いたします」
 ケラムが懐から一巻を取り出して恭しく捧げる。
「ありがとう。幽閉の間にお教えいただいたことは、日々かみしめ、君主としてなすべきことの指針とさせていただいております。こんなにしていただいて、なんと礼を言っていいか」
 ツェンポの言葉に、ケラムは泣きそうな顔をして深々と頭をたれた。

 それから3日後。ケラムは再び王宮を訪れた。
 帰りは持ち込んだのと同じぐらいの量の仏典を荷台に乗せ、ニャムサンとサンシが付き添って王宮を出る。ゾロゾロと長い坂道を下って、入り口の門に到着すると、衛兵が一行を止めた。
「ツェンポに貸してた本だよ」
 ニャムサンが言うと、衛兵たちは愛想よくうなずきながら、オズオズと言った。
「申し訳ございませんが、確認させていただきます」
「もちろんだとも。好きに見ておくれ」
 兵たちは、心細そうに顔を見合わせる。どうやら身分高い神官であるケラムに遠慮しているらしい。ケラムの弟子が書物を覆っていた布を剥ぐと、ひとりの兵士が思い切ったように進み出た。
「では、失礼して、拝見させていただきます」
 荷台の上にチラリと目を走らせた兵は「結構です」とうなずく。弟子たちがまた、布をかけて中身を隠した。
「どうだい。怪しい本があったかい」
 ニャムサンが軽い口調で言うと、兵はヘラっと笑って応えた。
「いやあ、わたしは字が苦手で。きっとありがたいことが書いてあるんでしょうねぇ」
「そりゃそうだよ。なんたって、この国一番の神官ケラムさまの秘蔵の書だからね。ちょっと見ただけでも御利益があるぜ」
 ニャムサンが兵士の肩を強くたたくと、兵たちはうれしそうな顔をした。
「それはありがたいことです。さあ、どうぞお通りください」
 一行が無事に都の外に出ると、緊張で青い顔をしていたサンシが大きく息を吐いた。
「なかのほうまで見られたらどうしようかと思いました」
 ニャムサンは、仏典を覆うようにして、ケラムから借りた反故をおいていた。兵士たちがつぶさに手に取って調べていたら、その下には異国の文字の書があることに気づいただろう。法が施行されたときに、このことを思い出されたら面倒になる。
「ところで、この経典は先生のいらっしゃる山においていただけるのですか?」
 サンシの問いに、ケラムは頭を振る。
「まさか。異教の教えを聖山に入れるわけにはいきません」
「ではどこへ?」
 ニャムサンが答える。
「先生は他にも洞窟のある山をいっぱい持っている。そのなかで、都に一番近い洞窟を貸してもらうんだ」
「都に近い?」
「おまえがかよえるようにさ」
 ポカンとしたサンシの顔に、みるみる驚きの表情が浮かぶ。
「翻訳を進めることをお許しいただけるのですか?」
「それが陛下のご希望なのでしょう」
 ケラムは厳かに言った。
「陛下の御意志は、神の御意志と同じですから」
 ニャムサンは荷台を見る。これは、ただの紙に書いた文字だ。マシャンはなんでこんなものを嫌うのだろう。ツェンポやサンシはどうしてこんなものを大事にするのだろう。
 それを理解するには、このなかに書かれていることを知る必要があるのかもしれない。不思議と好奇心がわいてきた。
「なあ、オレも手伝っていいか?」
 サンシは目を丸くする。
「どういう風の吹き回しですか?」
「うるせえ。手伝ってやるんだからいいだろ」
「もちろん、うれしいですよ」
 ふたりはケラムの弟子になるという口実で、この臨時の訳経所にかようことになった。

 この年最後の会盟で、破仏の法の施行が決定された。その地名を取って『ブ・チュン法』と名付けられたその法により、仏教と唐風の儀礼が禁止され、それに背いたものは家族から引き離されて僻地に流されることになった。
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