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第二章

マシャンの破仏 その4

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 ツェンポは即位した当初から、サンシが唐から持ち帰った仏典を翻訳するための訳経所建立をマシャンに要求していた。しかし、マシャンはまだ父の3年の喪が開けていないうちに新しいことを始めるのはよくないなどと理由をつけて、明確な返答を避けていた。
「では、来年には出来るのですか」
 マシャンは無表情で頭を下げた。
「現時点では、しかと返答いたしかねます」
「なぜです。喪が明けるまでとおっしゃったではありませんか」
「恐れながら、財政が思わしくありません。来年になって、その余裕があれば検討も可能かと思います」
 ツェンポは焦れながらも、マシャンの言うことがもっともであるので、それ以上は要求出来ない。とりあえず、いつでも翻訳が開始できるよう準備しておくようにと、ティサンとサンシに命じていた。

 年の瀬が迫っても、ニャムサンの行方はわからなかった。本当に都を出て、牛飼いになってしまったのだろうか。ニャムサンにマシャンとの和解を強いたことが、悔やんでも悔やみきれない。ニャムサンが一族に白眼視されて苦しんでいたことを、誰よりも知っているつもりだったのに、こころないことを言ってしまった。サンシとトンツェンのふたりでさまざまに手を尽くして探しているが、手がかりもつかめないという。自分自身で動くことの出来ない身分であることが、もどかしくてならない。
 マシャンが閣議で新たな法律の制定を提議したのは、そんなときだった。
「先の陛下がお亡くなりになられたのは、仏などという異教の神や唐の風俗を取りいれた儀式を重んじられて、祖先の神々を軽んじられたからと存じます。同様に、今上の陛下にも天罰が下るやもしれません。仏の教えと唐風の儀礼を禁じる法律を制定すべきです」
 それを聞いた瞬間、全身の血の気が引くのがわかった。マシャンがドンツァプと同じようなことを言い出すとは夢にも思っていなかった。
「先の陛下の御崩御が神罰とは、不敬にございましょう」
 ティサンが珍しく反論すると、マシャンはスッと冷たい視線をティサンに向けた。
「先の陛下に罪があるのなら、その罰を下したドンツァプを処刑したのは間違いだったということですか」
 マシャンはそっけなく言い返す。
「ドンツァプの罪は消えない。ただ、その災厄を逃れることが出来なかったことが神罰だと申しておるのです。誠に仏などというものがあるなら、なぜ、陛下をお守り出来なかったのだ」
「それは……」
 仏の法とは呪術やまじないの類ではない。この世界の真理を悟り、苦を滅する方法を説く教えだ。
 しかし、これ以上の抗弁は危険と判断したのだろう。ティサンはマシャンに一礼して詫びた。
「ごもっともにございます。大変失礼をいたしました」
 ティサンから目をそらしたマシャンは「ほかに反対の者はいらっしゃるか」と、尚論たちを見回した。
 みな、押し黙っている。
 マシャンの権力に逆らう尚論は宮廷からいなくなっていた。そのような者はいつの間にか病を得て領地に帰るか、ささいな罪で捕らえられて追放されるのだ。
 ツェンポがちらりとティサンをうかがうと、ティサンは悲しげな目つきで小さくうなずく。ここは辛抱しろというのだろう。
 自分の無力さが悔しい。握った拳が震えた。

 結局、マシャンの提示した、仏教や唐の文物風習を取り締まる法律案に反対する者はいなかった。尚論たちや各地の部族の主たちが集まる会盟で承認されれば来年正月には施行される。その前に、サンシが唐から持ち帰った仏典を隠さなくてはいけない。
 仏典は王宮の宝物庫に集められていた。ティデ・ツクツェンが殺害されたとき、太子だったツェンポが『中論』を読んでいた倉庫だ。ドンツァプはその中にあった収蔵品を壁まで剥がして持ち去り、燃やしてしまったから、いまはこの仏典だけが収蔵されている。
 閣議の翌日、ツェンポはティサンとサンシを宝物庫に呼んだ。
「これを、摂政に気づかれない場所に隠さなくては」
 場所だけの問題なら、ティサンの領地にでも隠せばいい。しかし万が一それが見つかればティサンは捕らえられ、身分を剥奪されてよくて追放、悪ければ死罪になってしまう。出来ればマシャンが思いもよらないところに隠したい。
 なかなかいい案が浮かばない3人は、しばらく呆然と経典の山の前で立ち尽くしていた。
 突然、入り口の扉をたたく音が静寂を破った。ギョッとしてツェンポは扉を見つめた。ティサンもサンシも青い顔をして入り口を凝視する。扉には内側から閂が渡してあるが、兵士が数人がかりでたたけば破られてしまうであろうと思われる華奢なものだった。
 やがて、外から怒鳴り声がした。
「おい、ナツォクいるんだろ。開けろよ!」
 あのときと同じ、ニャムサンの声。
「いま開けるよ」
 ツェンポは叫びながら入り口に駆け寄ると、関木に手をかけた。

   ※  ※  ※

「どうしちゃったんだ」
 宝物庫の扉が開いたとたん、ツェンポが泣きながらしがみついて来たのでニャムサンは狼狽えた。
 扉を閉めて閂をかけながらサンシが言った。
「本当に都を出て牛飼いになってしまったのかと思って、みんな心配していたんですよ。トンツェンさまだって探してらしたんです」
「なんでトンツェンが」
「ニャムサンのせいで都勤めになっちゃったから怒っているのです」
「オレのせいじゃないよ。自分が勝手に上司とケンカしてクビになったんじゃないか。顔を合わせたら面倒だから、早くゲルシクのおっさんのところに送ってやれ。で、なんでこいつ泣いてんだ」
「陛下はご自身のお言葉がニャムサンを傷つけてしまったと、ずっと苦しんでらしたんです」
「うん、まあ腹が立ったけど」
 ニャムサンはツェンポの頭をポンとたたく。
「オレが大人気なかった。悪かったな、ナツォク」
 ツェンポはニャムサンの胸に埋めたまま、顔を横に振る。
「わたしが悪かったんだ。ニャムサンがずっと辛い目に会っていたのはわかっていたつもりなのに……」
「よしよし。これで仲直りだ。さあ、離してくれ」
 ニャムサンはツェンポ肩をたたいて積まれている紙の束を指さした。
「こいつらを隠すんだろ?」
「なんでご存じなのですか?」
 ティサンが目を丸くする。ニャムサンはニヤリと笑った。
「オレだってやらなきゃいけないことぐらいわかってるさ」
「でも、昨日の閣議で提議されたばかりで、まだ公表されていないのですよ」
「そりゃ、閣議に出てたひとに聞いたから。ルコンは今回のマシャンのやり方に反対なんだ」

 辞令に腹を立てて家を飛び出したニャムサンは、ルコンの屋敷の庭に忍び込んでルコンの帰りを待った。日が落ちてまもなく帰って来たルコンの部屋に窓から飛び込むと「病気だと聞いていたが、ずいぶんと元気そうだな」とルコンは眉をひそめた。
「しばらく匿ってよ。もう、尚論はイヤなんだ」
 ニャムサンがいきさつを話すと、ルコンは頭を抱えてうなった。
「愚か者が」
「なんとでも言っておくれ。今度という今度は、オレは絶対に帰らないからな」
「それなら、こんなところで愚痴ってないで、さっさと都を出て牛飼いでもなんでも勝手になればいいではないか。タクが心配なら、わたしの領地で使ってやる」
「それはいずれお願いするけど、いまはまだ都を出るわけにはいかないんだ」
「女か。宿屋の娘だそうだな」
「え? なんで知ってるの」
「マシャンどのの目を誤魔化せるはずがないだろう。彼女の宿下がりを待って駆け落ちするつもりか」
 ニャムサンは足下から震えが走るのを感じた。プティのことは、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
「伯父さんがオレのことを探らせているのか」
「まだ自分の立場がわかっていないのか。おまえはゲルシクどのの腹心だ。政敵の動きを探るのは当然だろう」
「オレが尚論をやめれば、伯父さんだって安心するだろ。助けてよ」
「世話の焼けるヤツだな。まあ、しばらくはようすをみてやろう」
 ルコンは屋敷の一室にニャムサンを匿ってくれた。

「ルコンどのが、破仏の法のことを教えてくれたというのですか?」
 ティサンは納得のいかない顔をしている。
「ルコンだって改革派の力を抑えたいと思ってはいるさ。だけど地方の貴族にも仏教に帰依している者は沢山いる。急に過激なことをすれば反乱が起こると危惧してるんだ。それにルコンは漢籍にも造詣が深いだろ。自分は信じていなくても、貴重な仏典が失われるのは忍びないそうだよ。で、オレになんとかしてこいって」
「お若い頃に、唐で学ばれたと聞いたことがあります」
 ティサンは眉を開いて微笑んだ。
「わたしも出来ればそのときのお話などお伺いしたいものだと思っているのですが、なかなかお近づきになる機会がなくて」
 無邪気に目を輝かせるティサンが気の毒なる。ルコンのほうは、ティサンのことをまったく信用していないようだから。
「出来ればマシャンの法律が制定されるのを防ぎたい。じゃなければ、もっと緩やかなものに変えたいと思ってマシャンに助言したんだけど、マシャンはそれを、少しも聞かないそうなんだ」
「摂政はどうして急に、かたくなになられたのでしょう」
「あいつは前からそんなところがあったぜ。一番えらくなって遠慮がいらなくなったから、それが表に出て来たんだろ」
「そうでしょうか」
 目を伏せるティサンに、ニャムサンは舌打ちしてしまう。戦場ではゲルシクより怖いと聞いていたが、宮中ではどうしてこうも頼りないのか。ルコンには、最後にひと仕事してツェンポに尚論を辞める許しをもらって来ると言って出てきたが、こんなことでは心配で都を離れることが出来そうにもない。
 仕方がない、と腹をくくってニャムサンが手を打つと、3人はいっせいにニャムサンを見る。
「で、こいつらはどうするの」
「まだ決まっていません」
「ルコンはゲンラムの領地に隠してもいいと言ってくれたけど、借りを作るのはイヤだろ。で、オレはもうひとり、絶対に疑われないひとを思いついた。まずそのひとを当たってみようと思うのだけど」
「お願いいたします」
 ティサンは安堵の表情でうなずいた。
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