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第二章

ティソン・デツェンの即位 その4

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 どうもゲルシクといると調子が狂う。ニャムサンにとって大人とは、冷たく無視するか説教を垂れる存在だったから、ゲルシクの態度に戸惑ってしまうのだ。大きな体を縮めるようにして頭を下げるゲルシクの頼みを拒否することは、出来なかった。
 しかしルコンはどう思うだろう。ゲルシクはツェンポの意向に従って仏に帰依することを宣言した。また伝統派と改革派の争いが再燃すれば、マシャンとルコンにとってゲルシクは政敵となる。それでなくとも、ゲルシクとマシャンは仲が悪いのだ。
 ああ、イヤだ。
 いくさもイヤだが、政治もイヤだ。尚論であるかぎりこんな争いごとと無縁の生活は出来ないと分かっているから、ついつい牛や羊とともに生活する自分の姿を夢想してしまう。
 そばにプティがいてくれれば、それ以上なにも欲しいと思わない。

 翌朝、ルコンの執務室に顔を出すと、もうルコンは仕事にとりかかっていた。
「遅いぞ」
「小父さんが早すぎるんだ」
 ルコンはニャムサンに目を向けずに書類をめくりながら続けた。
「昨夜はゲルシクどのの屋敷にお邪魔したそうだな」
「なにそれ。見張りでもつけてるのか? 気持ち悪いな」
 ニャムサンが眉をひそめると、ルコンは鼻をならす。
「ふん、おまえの動向を気にするほど、わたしは暇じゃないよ。日の出とともにゲルシクどのが家にやって来たのだ。おまえが部下になることを承知したと、やけに喜んでいたぞ」
「こっちは喜んで承知したわけじゃない。おっさんが、みっともないほど頭を下げるから、つい、いいよって言っちゃったんだ」
「よほど、おまえのことが気に入ったのだな」
 ルコンが仕事の手を止めてニャムサンを見つめた。目の奥に探るような光が見えて、ニャムサンは身構える。
「人手が足りないんじゃないの? 誰でもよかったんだろ」
 ルコンは立ち上がった。近づくとニャムサンの手をとり、なにかを握らせる。
「もう少し時間が欲しいと思っていたのだが。まあ尚論に必要なことは最低限教えたからいいだろう。あとは自分で努力して学び続けなさい。これは餞別だ」
 手を開くと、ナナムの紋章である獅子の姿が彫刻された翡翠の珠が手のひらに転がった。
「これは、わたしが唐に旅立つときに、おまえの父上がお守りにくれたものだよ。いまのおまえと同じ18のときだ。再会したら返す約束をしていたのだが、果たせなかった。おまえに返しておこう。これからは、おまえもわたしも、一人前の尚論として対等の関係となる。わたしはもう、おまえに干渉はしない。おまえも、わたしやマシャンどののことを気にする必要はない。おまえの正しいと思ったことを貫きなさい。その代わり、おまえが敵となったときは、こちらも容赦はしない。心得ておくのだな」
 ニャムサンは戸惑った。
「それって、本当におっさんの部下になっていいってことか?」
「もちろんだ。おまえが承知したのだろう」
「あちらのことを探って報告しろとか、なにかないのか」
「わたしは今でも、おまえがマシャンどののために働いてくれたらとは思っているよ。だけど、どうしてもイヤだというなら強制は出来ないさ。気が変わったら戻ってくればいい」
 急に涙がこみあげてきて、ニャムサンは慌ててぬぐった。
「なにを泣く。遠くに行ってしまうわけではないのだ。話がしたければいつでも来い。これまでと変わりはしないよ」
「オレはずっと、小父さんはオレを利用するためにいろいろ教えてくれるのだと誤解していた。ごめんなさい」
 ルコンは声をあげて笑った。
「そのくらいの警戒心を持っていたほうがいい。それにおまえのためじゃない。親友の息子のおまえが放っておけなかったのだ。なんだか、ツェテンどのには大きな借りがあるような気がしてな。おかげで、少しだけ返せた気がする。わたしの自己満足だ。恩に着ることはない」
 ニャムサンの肩を、ルコンは力強くたたいた。

 東方にいるツェンワからは戦果とともに、唐にいる間者からの情報が続々と届いている。その内容を精査、分析して、ゲルシクに報告するのがニャムサンに任された仕事だが、ニャムサンにはそこに書かれていることの意味がサッパリ理解できなかった。結局はツェンワの書状をそのまま持って行って、ゲルシクからそれらがどんな意味を持つのかを教わっている。
 ゲルシクはニャムサンが同じ質問をくり返しても根気強く教えてくれた。こうしてゲルシクの部下になってからはじめての冬を迎えるころには、ゲルシクに対する警戒心はすっかりなくなっていた。
「おっさんはさぁ、早くいくさに戻りたいの?」
「戻りたくないと言えばウソになる。儂には宮廷の空気は息苦しくてな」
「意味わからない」
 ゲルシクはニヤリとした。
「それは、ニャムサンどのがいくさの面白さを経験されていないからだ。やっぱり儂が東方の駐屯地に帰るときに連れていってやろう」
 ニャムサンは慌てて首を振る。
「イヤだって言ってるじゃないか」
「残念だな。まあ、何年か経てば気が変わることがあるかもしれん。そのときは儂から陛下にお願いしてあげよう」
「気が変わることなんて絶対にないし。それに、ナツォクになら自分で頼むよ」
「ふむ、確かにニャムサンどのなら陛下と自由にお会いできるからな。あの壁登りの技はたいしたものだ」
「まあね」
 とは言うものの、唐を攻めるかどうかで気まずい雰囲気になったあの日から、ツェンポの居室には足を運んでいなかった。
 ゲルシクには相談出来ない。これは政治には関係ない、友人同士のいざこざだ。上司に相談することではないだろう。
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