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第二章

ティソン・デツェンの即位 その3

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 坂の途中でトンツェンは振り向いて見る。ふくれ面をしながら、ニャムサンはちゃんとついて来た。本当に憎らしいほど美しい顔立ちをしている。
「なんで馬や輿に乗って来ないんだ。尚論がみっともないだろ」
「他人がどう思おうと関係ないよ。オレは馬だろうが家来だろうが、他のヤツにこの坂道を上り下りさせて自分は楽をするなんてイヤなんだ。オレにだって、立派な二本の足があるんだから」
 少し感心した。意外と心根の優しいヤツなのかもしれない。
「尚論になってから、マジメに仕事しているんだってな。ゲルシクどのが喜んでるぞ」
「なんであのおっさんが喜ぶのさ」
「ルコンどののところで修業が終わったら、自分のもとに配属してもらう約束だって言っていたけど」
「オレはそんな気はないね」
「そんなに嫌うなよ。あんな顔しているけど優しいところもあるんだ。ほかで働くよりずっと楽だぞ。ティサンどのなんか普段は柔らかい物腰だけど、いくさのこととなると鬼のようにおっかねえんだから。おまえの言う『いくさバカ』って、むしろティサンどのにピッタリだぜ」
「誰がいいとかじゃないよ。オレはいくさが嫌いなんだ。いくさに行かなくちゃいけないところで働きたくない」
 男子が〈いくさが嫌い〉などと恥ずかしげもなく言い放つのが、トンツェンには信じられない。
「尚論になったらいくさに行くに決まってる」
「そんなの誰が決めたの」
「知るか。昔からそういうもんだろうが」
「バカみたい。なんでわからないものに従わなくちゃいけないのさ」
「変なガキだな」
 ニャムサンはますます不機嫌な顔になってそっぽをむく。それからは、トンツェンがなにを話しても、ウンともスンとも応答しなくなったが、そんなことには慣れていた。ツェンワでさえ、トンツェンの話は半分も聞いていないのだ。トンツェンは一方的にしゃべり続けた。
 ゲルシクの館の門前まで来ると、トンツェンの話をさえぎってニャムサンはポツリと言った。
「あんた、おっさんのことをこころから信頼しているんだろ。えらい将軍だからかい?」
「あ? それだけじゃない。あのひとには嘘がないんだ」
「ふーん」
「なんだ、もしかして羨ましいのか?」
 ニャムサンは唇を引き結んでかすかにあごを引いた。
「大人でもそういうひとがいるんだな、と思って」
「じゃあ素直にゲルシクどのの部下になればいい」
「絶対、イヤだ。そんな話をするっていうのなら帰るよ」
「なんの話があるんだか、オレは知らねえよ」
 言いながら、トンツェンは素早くニャムサンの襟首をつかんだ。門番はトンツェンの顔を認めると門扉を開く。トンツェンは自分の家のように勝手知ったるその屋敷に、ニャムサンを引きずりこんだ。

 トンツェンが客間にニャムサンを押しこむと、ゲルシクは満面の笑みを浮かべた。部屋のすみで、ツェンワがいつもの半笑いを浮かべている。その脇に寄ると、ツェンワはささやいた。
「まるで恋人との再会みたいですね」
「気色悪いこと言うな」
 トンツェンはツェンワの脇腹を固めたこぶしで小突く。
 ニャムサンはゲルシクの許しも得ずにドカリと床に腰をおろして言った。
「なんの用? 今日は疲れているから早くうちに帰りたいんだけど」
 トンツェンかツェンワがこんな態度を取ったら、蹴飛ばされるだろう。しかし、ゲルシクは無礼を咎めるどころか、笑んだまま自分も床に座った。
「ご足労をおかけして申し訳ない。実はご相談したいことがあってな」
 ゲルシクはトンツェンとツェンワをジロリと睨んだ。
「おまえらもこっちへ来て座れ。そんなところで突っ立っていられたら落ち着かぬ」
 ふたりはニャムサンを挟んで座った。ゲルシクの家来が酒を持ってくると、四人は乾杯した。
 杯の酒をグイと一気に飲み干したゲルシクの顔を、ニャムサンは杯に口を付けずに警戒の表情で窺っている。
「いやいや、よく来てくださった」
 ゲルシクが言うと、ニャムサンはトンツェンに目を移した。
「来たくて来たんじゃない。脅されたから仕方なかったんだ」
 本当にかわいくないガキだ。ククッとツェンワが忍び笑いをするのもムカつく。
「こやつは無骨者だから恐ろしく見えたのだろう。決して悪気はないのだ。許してやってくだされ」
 ニャムサンは気まずそうな顔をした。
「いや。オレも悪かったよ。ちょっと素っ気ない態度をとっちゃったんだ」
 そう言われればトンツェンも謝らないわけにはいかない。モゴモゴと謝罪の言葉を述べると、ゲルシクはうなずいた。
「よし、今後は若者同士、仲良くされよ。ツェンワもよいな」
 それからはニャムサンも緊張が解けたのか、酒に口をつけ始める。トンツェンはゲルシクの態度にようやく得心がいった。
 ゲルシクは豪放磊落ながら、意外と神経の細かいところがあった。後進にも、その者の長所や欠点、人柄に応じて接し方を変える。だから年若い将軍の多くは、ゲルシクのことを父のように慕っていた。大人を信じていないニャムサンには、あえて目上の者ぶらずに対等に接することで、その頑ななこころを解くつもりなのだろう。
「尚論の仕事には慣れたかな。まずはルコンどののもとで修業をされたのはよかったと思っておる。儂と違ってルコンどのは文官としても優れてらっしゃるし教養もあるからな」
「国のことを知るのは、意外と面白いよ」
 ポツンとニャムサンは言う。
「おお、それはよかった。そろそろ儂のもとで働くのはどうだ?」
「おっさんの部下になるのはイヤだ」
 キッパリと言われたゲルシクは、眉を下げて悲しそうな表情を浮かべた自分の顔を指さした。
「うーむ、この顔がダメかな。自分で言うのもなんだが、儂は見た目ほど恐ろしい男ではないよ。なあ、トンツェン」
 いきなり話を振られて、トンツェンはむせてしまった。ケラケラと笑いながら、ツェンワが代わりに答える。
「いつも叱られてばかりのトンツェンにとっては恐ろしいんじゃないですか。でも、本当にゲルシクどのは情に厚い、よい方ですよ」
「そういうことじゃなくて、オレはいくさに行くのがイヤなんだ」
 ゲルシクは目を見開いた。
「なんと。男がそのようなことを申すものではない。庶民でさえも、男ならば死ぬときは戦場でと願っておる。病で倒れるのは恥だとな」
「バカじゃないの。だったらオレは男じゃなくてもいいよ」
 ゲルシクは眉をひそめて思案する顔になった。トンツェンはやっと口を出した。
「こういうヤツなんですよ。いい加減、あきらめてやったほうがコイツのためでもあるでしょう」
「ならばなおさら、お互い好都合だ」
「は?」
 ゲルシクは顔をあげてニコリとほほ笑んだ。
「実はご相談とは、先ほど陛下の御前でティサンどののおっしゃっていた件なのだ」
「オレは、ティサンどのに賛成だよ。ナツォクがなんと言おうと、どちらかはナツォクから離れないほうがいいと思う」
「ふむ、やはりそう思われるか」
 ゲルシクは腕組みをしてうなった。
「では、儂は宮廷に残ることにしょう。ツェンワは儂の代理として総指揮をしてくれ」
「はい」
 真面目くさった顔でうなずくツェンワを見ながら、トンツェンは唇をかんでいた。代理であっても総司令であることは変わりない。対して自分は、相変わらずティサンの副将だ。先を越されたという気分は拭えなかった。チラリとツェンワがこちらを見る。妬心をさとられぬよう、トンツェンは平静を装って杯を口に運ぶ。
 ニャムサンが、低い声で言った。
「好都合っていうのは、おっさんが宮廷にいるからオレが部下になるのに丁度いいってこと? でも、いつかはいくさに戻るんだろ」
 ゲルシクはうなずいた。
「もちろんだ。せめてこのふたりが元帥にふさわしく成長するまでは、軍務を退く気はないからな」
「だったら断るよ」
「いや、それまでに儂の仕事を覚えていただいて、儂がいくさに戻るときには都での儂の代理という身分で陛下をお助けして欲しいのだ」
「イヤだ。元帥なんて偉いヤツの代理なんか、出来ないよ」
 頑なに言い張るニャムサンに、トンツェンの苛立ちは頂点に達した。
「てめえ、いつまで甘ったれている気だ」
「オレが尚論になったのは、ナツォクをマシャンから守るためだ。ナツォクが大人になったら牛飼いになるつもりだから、出世なんかしたくないよ」
「バカにしてるのか?」
 トンツェンは立ち上がってニャムサンをにらむ。
 つられてトンツェンを見上げたその横っ面を張り倒そうと平手を振り上げたとき、ゲルシクがガバっと頭を下げたので、トンツェンはその姿勢のまま硬直してしまった。ニャムサンも息をのんだような表情でゲルシクをみつめている。
「頼む、ニャムサンどの。恥を忍んで申すが、儂はこれまでいくさ一筋に生きてきたから、宮廷にいるチム家の年寄り連中に信頼出来る者がいないのだ。このトンツェンとツェンワは儂同様、宮中の仕事はからきしダメだし、頼れるのはニャムサンどのしかおらぬ」
「一族も信頼出来ないのに、なんでオレが信頼出来るんだ。オレがおっさんのことを全部知らないように、おっさんもオレのことなんか知らないだろ」
「ニャムサンどのが陛下のことをこころから大切に思っておられるのはわかっている。だから儂は、ニャムサンどのならすべてをまかせてもいいと思ったのだ。頼む。儂のためではなく陛下のために、お引き受けいただけぬか」
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