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第一章

大相の失脚 その2

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「なんとも肝の据わった若者ではないか。太子を守るためなら一歩も引かぬという気概にあふれていた。いずれおまえたちに勝るとも劣らぬ将となるに違いない」
 ニャムサンに対して感嘆しきりのゲルシクに、トンツェンは唇を尖らせた。
「そうですかねぇ。オレはやっぱりただのバカだと思いますけど」
 ゲルシクはギロリと鋭い視線をトンツェンに送る。
「まことに、おまえはひとを見る目がないな」
 懸念したとおり、ゲルシクはすっかりニャムサンを気に入ったようだ。こうなったら誰にも止められない。
 目くばせをすると、ツェンワは笑いを噛みしめながら首を振った。
 その間も、ティサンは黙々とマシャンの書状に目を通していた。やがて顔をあげると満足気に微笑む。
「事件についてと、今後のことについて書かれています」
 その経過については、以前トンツェンとサンシがニャムサンから聞いたものと相違ない内容だった。大相が弑逆を企んでいたことを尚論たちは知らなかったとはいえ、止めることが出来なかった罪は逃れようがない。その責はマシャンひとりが負うつもりなので、他の尚論を咎めることをしないで欲しいという。
「ふん、どうせ許してくれると儂らを甘く見ているのだろう」
 ゲルシクが吐き捨てるように言うと、ティサンは眉を下げた。
「許さざるを得ませんよ。マシャンどのは間違いなくこたびの功労者のひとりです。それに新たなツェンポのシャンでいらっしゃるのですから」
「それはそうだが」
 不満そうに鼻息を荒くするゲルシクにかまわず、ティサンは続けた。
「衛兵隊はすべてマシャンどのの指揮下にあるので心配はない。大相と副相、衛兵隊長のティゴルは夜のうちに捕らえる。大相の手勢を服させるか追い払ったら、太子とともに入京していただきたい、とのことです」
「衛兵隊はもとからマシャンどのが操っていたんですかね」
 トンツェンが言うと、ゲルシクは喚いた。
「どうせルコンどののお知恵だろう。功労者と言えばあの男よりルコンどのではないか。ルコンどのの書状もあったろう」
「ああ、こちらはゲルシクどの宛になっていますよ」
 ティサンは封をしたままの書状をゲルシクに渡した。ゲルシクが封を破こうとしたとき、サンシがやって来た。
「太子のお着替えが終わりました。改めて皆さまにお礼をされたいとの仰せです」
 4人の将軍は太子の天幕に向かった。

   ※  ※  ※

 将軍たちとナツォクは、どうもまどろっこしくてかなわない所作と言葉のやり取りを続けていた。ニャムサンの機嫌が悪くなっていくのを察したのか、ナツォクはゲルシクとティサンに言った。
「いまは堅苦しい礼儀はなしにしましょう」
 ふたりが同意すると場の空気はとたんに軽くなり、マシャンの書状について議論が始まった。ティサンが今後の予測を語る。
「おそらく、いまごろは首謀者たちの捕縛は完了していることでしょう。大相の手勢は郊外に2千ほど駐屯していますが、反撃してくる気配はない。都の内を守る軍も敵となったとわかれば、降伏するか撤退すると思われます。2、3日で入京が可能となるでしょう」
 ニャムサンは、一番気になっていることを聞いた。
「で、マシャンをどうするんだ? なにか罰を与えるのか?」
 ティサンは肩をすくめた。
「マシャンどのを罰するつもりはございません。だいいち、新たな大相にふさわしい方はマシャンどのしかいらっしゃらないでしょう」
「大相にするなんて、オレは反対だね。マシャンがいたら、ナツォクのためにならないよ」
 ニャムサンが吐き捨てると、ティサンとゲルシクは目を丸くした。身内のニャムサンが反対するとは思ってもいなかったのだろう。だがあの日、懇願するニャムサンから無理矢理ナツォクを引きはがして連れ去ったマシャンの姿が目に焼き付いていたニャムサンは、とても許す気持ちにはなれなかった。
「あいつは旗色が悪くなったからドンツァプを裏切ったんだ。あんたたちが来てくれなかったら、のうのうとドンツァプと一緒に権力を振るっていたに決まってる」
「マシャンどのも死罪にしろと?」
 ティサンは不安そうな顔になる。ニャムサンはうつむいた。
「そこまでは言わないよ。でも、身分をはく奪するとか、追放するとかすればいいじゃないか」
「では、ニャムサンどのがマシャンどのに替わってナナムの長となられ、王のおそばにお仕えするのですね」
「牛飼いになるつもりだからそんな気ないよ。あんたらのどちらかがいれば、別にナナム家なんかなくても大丈夫だろ」
 ナツォクが慌てた声をあげる。
「牛飼いになるなんて聞いてないよ」
「さっき、決めた」
 ティサンは目を細めてニャムサンをにらんだ。
「そうは参りません。シャンのお方には王を支える義務があります」
「シャン? オレが?」
「そうですよ。太子が王になられたら、ナナムの方々は王の最も近くで補佐するのです。家長であろうとなかろうと、ニャムサンどのにはシャンとしての仕事をしていただかなくてはいけません。牛飼いになるなど、とんでもない」
 ルコンが『太子の従兄弟』と言って叱る意味がようやく分かったニャムサンが唇をかんでうつむくと、ティサンは目をしばたいた。
「まさか、ご存じなかったのですか」
 恥ずかしさに顔がほてる。
「オレはそういうことは、国の仕組みとか、全然知らないんだ。誰も……ルコンは気がついたら教えてくれるけど、それ以外は誰もオレになんか教えてくれないから」
 いきなり、唸り声が響いた。ギョッとして見ると、ゲルシクが鬼の形相で涙を流している。
「なんと、お気の毒なことだ。尚論の子に生まれながら、冷酷な伯父のせいで満足な教育を受けておられぬとは」
 呆気に取られていると、ゲルシクは天井を睨みながら吠えた。
「一族のなかには居場所がない。それで牛飼いなどとおっしゃったのだろう。よし、儂は決めたぞ。ニャムサンどのっ!」
「な、なんだよ」
「失望されることはない。儂のもとに来られよ。どこに出しても恥ずかしくない、立派な将軍にして差しあげよう」
 今度は豪快に笑い声を響かせる。ニャムサンはトンツェンの耳にささやいた。
「おい、あのおっさん大丈夫か?」
 トンツェンはなぜか恨みがましい目つきでにらみつけて来る。
「知るか。おまえが悪いんだからな」
「なんでだよ」
 自分がゲルシクになにをしたというのか。ツェンワが半笑いを浮かべながらゲルシクに言った。
「ところで、ルコンどのの書状はなんだったんですか?」
「おお、そうだった」
 ゲルシクは両手でごしごしと涙をぬぐい、懐に手を突っ込むと、グシャグシャになった紙を引っ張り出した。
「しまった。慌てて仕舞ったからこんなになってしまった」
 バリバリと紙を開いて目を落とすと、「ほほお」や「ううむ」などと唸り出す。
「なんです? それじゃサッパリわかりませんよ」
 トンツェンがイライラと言うと、顔をあげたゲルシクは食いつきそう笑顔をニャムサンに向けた。思わず後退る。
「なんと、『ニャムサンは経験が浅いゆえ無礼な言動があるかもしれないが、怒らないで広い心で受け入れてやってくれ。将来は必ず王のお役に立つ尚論となる者だから、この機会に昵懇となり、早く一人前になれるようご指導賜りたい』とあるぞ。さすがルコンどの。儂がニャムサンどのの師として最適だと見抜いているのだ」
「嘘だろ」
 ゲルシクに飛びついて、その手から書状をひったくって見ると、確かにそう書いてある。
「クソッ。おせっかいにも程があるよ」
 師匠を作るにしたって、こんないくさバカのなかのいくさバカだけは願い下げだ。
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