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第一章

太子の幽閉 その9

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 突如現れた軍に都を囲まれ、ひとびとは仰天した。それでなくても王が厚く保護していた仏教寺院が打ち壊されたり、夏になっても宮廷が移動しなかったりと普通ではないことが続いて、都人は不安になっていたのだ。攻撃が始まるまえに逃げ出そうという者で街中は大混乱になっていた。
 その騒乱に紛れ込ませたタクをゲルシクに送ってから3日後の午後。
 ボソボソとつぶやくように語り続ける神官ケラムの声に、ニャムサンは苛立っていた。
都中の人間が外へ逃げ出すことを考えているのだから、都の外にある聖山に住んでいるケラムは姿を見せないだろうと思っていたのに、あの包囲軍をどうかいくぐって来たのか、ケラムはこの日もいつもの時間にやって来て、いつものように悲しげな顔で講義を始めたのだ。
今夜、ナツォクとともに都を脱出する予定だった。夜になればケラムは帰るのだが、ニャムサンは落ち着かない。陽がだいぶ西に傾いたころ、焦燥が絶頂に達して、とうとうケラムに言った。
「先生、暗くなる前に帰った方がいいよ。いつ攻撃が始まるかわからないんだぜ」
 話をさえぎられたケラムは、小さな目をしばたいてニャムサンを見つめた。
「あなたは逃げるのですか?」
 ナツォクを逃がすことばかり考えていたニャムサンは、こころを見透かされたような気がしてギョッとする。
「に、逃げるわけねえだろ」
「なら、わたしも逃げません。しかしそんなに危険が迫っているのなら、太子は避難遊ばされたほうがよろしいのではないでしょうか」
 いまさら心配そうな顔をしてナツォクを見つめる。
「わたしから大相にお願いいたしましょうか」
「いくら先生が頼んだって、大相はそんなこと許さないよ」
「どうしてです」
 ケラムが驚いたように目を丸くするので、ニャムサンは呆れた。
「大相はナツォクを手放したくない。あいつらはナツォクの身柄が欲しい。大相がナツォクをここから出すわけないだろ。ていうか、先生は、なんでこんな事態になっているのか、知らないのか」
「さあ、わたしはあまり政治のことはわからないのです」
 ケラムは恥じるように顔を赤らめて、弱々しいため息をついた。
「太子の御身に普通ではないことが起こっていることはわかっています。しかし、わたしに出来ることと言ったら、王家の安寧を祈ることと、歴史や神々のお話をすることぐらいです。ならばそれを、命がけで務めさせていただきたいと思っておるのです」
「そんなの、屁の役にも立たねぇだろ」
「そんなことはない。先生、聴いておりますのでお話を続けてください」
 これまでケラムが部屋にいる間は一度も声を発したことのないナツォクが口を出したので、ニャムサンもケラムも黙ってしまった。ナツォクは照れ笑いを浮かべた。
「いつも先生のお話しをうかがって、わたしにいのちが与えられた意味を、そしてこれからどうすべきなのかを、ずっと考えておりました。今日も最後までご講義ください」
 ケラムは苦しそうに顔をゆがめて一礼すると話を再開した。どうやら、あれが笑顔らしい。

 ケラムが帰ると、ニャムサンは高楼の外に出た。ドンツァプの家来がナツォクの夕食の世話を終えるまで、時間をつぶすのだ。
 ふもとの街からは整然と起立して見える王宮も、内部は代々の王が改築や建て増しを繰り返し、複雑な構造になっていた。が、子どものころからここを遊び場としているニャムサンは、迷路のように張り巡らされた回廊を迷うことなく進んでいく。昼間に働いていた女官たちはすでに自室で休んでいる時間なので、辺りは閑散としている。ニャムサンは下級女官たちの部屋のなかの、ひとつの扉を軽くたたいた。
「やあプティ、久しぶり」
 細く開いた隙間へ微笑むと、扉の向こうの相手は頬を膨らませた。
「あら、なんの御用?」
「なんの用って、おまえに会いに来たんじゃないか」
「いまさらなによ。ほかの部屋に行けばいいじゃない」
 ニャムサンは素早くプティの手首をつかむと、無理矢理身体を扉の隙間にねじ込んで閉められないようにする。
「おまえを忘れてたわけじゃないよ。忙しかったんだ」
「あなたが忙しいわけがないでしょ」
 プティは冷たく言うが、彼を押し出そうとする手の力は弱かった。ニャムサンはすっかりプティの部屋に入って、後ろ手で扉を閉めてしまった。
「忙しいんだって。オレは大相さまのご命令で毎日ナツォクのおもりをしてるんだから」
「太子のところへ? じゃあ、いまなにが起こっているのか知っているの?」
 プティは好奇心に瞳を輝かせてニャムサンを見あげた。
「みんな、大変なことがあったんじゃないかって噂しているのよ。王さまは離宮にお移りにならないし、軍隊は攻めて来るし、普通じゃないでしょ。でも、わたしたちのような身分の者にわかるわけがないじゃない。不安で仕方がなかったの」
「知りたいのか?」
 プティの顎に手をかけて瞳をじっと見つめると、プティは耳まで赤くなった。
「ええ、教えてくださる?」
「外の軍隊は、大相を殺しに来たんだよ」
「どうして?」
「大相があいつらの仲間を殺してしまったから仕返しに来たんだ。で、オレの伯父さんは大相の味方だから、オレも一緒に殺されるかもしれない」
 ニャムサンがわざと寂しげに見えるような微笑みを浮かべると、プティの顔から一気に血の気が引く。これでプティはすっかり同情して優しくしてくれる。はずだった。
 ニャムサンが抱き寄せようとすると、先ほどとは比べ物にならない力で突き飛ばされた。
「痛てえ。なにすんだよ」
 プティは尻もちをついてしまったニャムサンの腕をつかんで引き起こそうとする。
「こんなことしている場合じゃないわ。逃げましょう」
「はあ?」
「だって、悪いことしていないのに大相さまの巻き添えで殺されるなんて、おかしいじゃないの」
「ちょっと待て、落ち着けって」
「落ち着いてられるものですか。父は下町で宿屋をしているの。しばらくそこに隠れて、ようすを見て都の外に逃げましょう」
「そんなことをしたら貴族じゃなくなっちゃうぜ。生き残ったってしょうがないじゃないか」
「あなたバカなの? 身分や家がなに? いのちのほうが大切なのよ。農民にでも牛飼いにでもなればいいじゃない。わたしも働くわ」
 プティの顔を、ニャムサンはポカンと口を開けて眺めていた。
 女というものは、ニャムサンの顔と同時に血筋や未来の尚論という地位に魅かれているのだ、というのがニャムサンの信念だった。それなのに、こんな反応が帰って来るとは。
 プティはニャムサンが迷っていると思ったのか、噛んで含めるように話し続けた。
「ねえ、あなたは知らないでしょうけど、世の中には家や財産を持たないひともたくさんいるのよ。もちろん、贅沢は出来ないけれど、生きてさえいれば楽しいこともいっぱいあるに違いないわ」
 羊やヤクに囲まれて暮らす自分の姿が思い浮かんでしまった。尚論になるよりもずっと、それは楽しそうに思える。
「ちょっと、なにボウっとしているの。早く出ましょう」
 プティがまた力いっぱい腕を引っ張る。ニャムサンは逆にそれをひき寄せて、プティを腕の中に収めた。
「いまは逃げない」
 抱きしめて、髪を撫でながら言うと、プティは激しく泣き始めた。
「わたしだからダメなのね? やっぱり本当は好きなひとが他にいるのでしょう」
「そんなの、いないよ」
『おんなたらし』とあだ名なされるニャムサンだが、いままで好きな女なんかいたことはなかった。寂しさがまぎれるから一緒にいただけだ。
「ねえ。本当にオレが牛飼いになってもついて来てくれるのか。オレが尚論になれなくても、おまえは一緒にいてくれるのかい」
「そう言ってるじゃない」
 プティはニャムサンの胸に顔をうずめたまま、しゃくりあげながら言った。
「どうしてさ。オレから家も身分も取ったらなにが残るって言うんだ」
「そんなものにこだわらないのが、あなたのいいところなんじゃないの。わたしみたいな身分の者にも対等に接してくれるでしょ。それにわたしは、優しくて、みんなを明るくする笑顔を持っている、あなたという人間が好きなの。家や身分なんてどうでもいいわ」
 涙でグシャグシャのプティの頬を両手で包むようにして顔をあげさせ、親指で涙をぬぐってやる。
「オレはおまえが思っているほどキレイな人間じゃないよ」
 ニャムサンはプティを利用しようとしていた。庶民の出で貴族とのしがらみのないプティなら安全だろうから、馴れ初めも覚えていない数ある女のなかから時間つぶしの相手に選んだ。それだけだ。
充血したプティの瞳は、まっすぐニャムサンを見つめている。ニャムサンは自分の行為が恥ずかしくなった。
「大丈夫。いまはまだ言えないけど、大丈夫なんだ。心配いらない」
 怪訝な表情を浮かべた彼女を安心させたくて、強く抱きしめた。
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