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第一章

太子の幽閉 その6

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 トンツェンとサンシが都に到着したのは、出発から5日後の午だった。トンツェンひとりなら3日もあれば十分な道のりだったが、旅慣れていないサンシが供では仕方がない。
 自邸で出迎えた家来たちに聞くと、なにがあったのかは不明だが、例年と違って王族も閣僚も都にとどまっているという。ツェンポに異変が起こったのは確かなのだろう。
 サンシを館に残して、トンツェンはすぐに王宮へ向かった。
 ニャムサンなどを頼らなくてもツェンポに目通りを願い出ればすべてわかるはずだ、と高を括っていたトンツェンが通されたのは、案に相違して大相の執務室だった。
「ほほぉ、洮州城を落とされたか」
 ドンツァプは、もみ手をしながらジロリとトンツェンをにらんだ。
「しかし、なぜシャン・トンツェンだけがお帰りか。レン・ティサンはいかがされた」
「唐側がいつ反撃して来るかわかりません。レン・ティサンは砦に残っていらっしゃいます」
「それはいけない。兵を擁したまま任地に留まれば、反逆を疑われても文句は言えんぞ」
 ドンツァプの視線に押されそうになる。いまは見る影もなく肥満しているが、かつては名将の誉高かった歴戦の将だ。トンツェンは負けまいと目に力を入れて大相を見つめ返し、声を張った。
「レン・ティサンの忠義のおこころが曇ることは決してございません」
「ならば、すぐに都にいらっしゃるようお伝えせよ。砦は貴公が守ればいい。それぐらいは出来るだろう」
 手を振るしぐさで退室をうながす。あまりにも無礼な大相の言動だが、トンツェンはこぶしを握ってこらえた。
「あの、陛下にお目通りを」
 大げさにため息をついたドンツァプは立ち上がった。
「それは、レン・ティサンのお役目だと申しておろう。そうそう、来る途中に唐へ派遣された使者たちを見かけなかったか」
「さあ、そのような方々がいらっしゃるとは存じませんでしたから、気に留めておりませんでした」
 ドンツァプは、ますます見下すような表情を見せた。
「下がれ。早急にレン・ティサンのもとに戻り、儂の言葉を必ず伝えるのだ」
 背を向けられたら、退出するしかなかった。

 こうしてトンツェンとサンシはニャムサンの屋敷に向かった。道々ドンツァプとの会見内容を話すと、サンシはたたきつけるように言った。
「ティサンさまを呼びつけて、殺してしまおうと考えているに違いありませんよ」
 頬を紅潮させて激憤に耐えかねるという顔をしている。意外と、このお坊ちゃんは激しい気性の持ち主のようだ。
「それより、本当にニャムサンは大丈夫なのか?」
 ティサンが言うと、サンシはうつむいた。
「みんなニャムサンのことを誤解しているんです。トンツェンさまだって、甘やかされて育ったわがままな放蕩者と思ってらっしゃるのでしょう」
「まあ、オレは噂以上のことは知らねえからな」
「お会いになればわかります。表面ではひねくれた言動ばかりしていますが、本当はまっすぐなひとなんです。太子がひどい目に遭っていたら、手をこまねいているはずはありません」
 買いかぶりの気がするが、トンツェンにも他に当てのある人間はいなかった。チムの一族にもガチガチの伝統派はいる。怪しまれて大相にご注進に及ばれては困るので、うかつに接触することは出来なかった。

 対応に出た老翁は、トンツェンが名乗るとピョンと飛び上がり、床に頭をぶつけんばかりの勢いで礼をした。それが妙に慣れた感じなので、いつもこのように主の不行状をあやまってばかりいるのだろうと気の毒になる。老翁は地面に向かって言った。
「申し訳ございません。いま、主は太子のもとに出仕いたしております。わたしがご用件を承りまして、必ずお伝えいたしますから、どうかお許しください」
 トンツェンはサンシと目配せした。
「ニャムサンは、いまも太子とお会いしているのですね」
 サンシが尋ねると、頭をあげた老翁はキョトンとした顔をする。
「はあ、ご学友にございますから、毎日お会いしています」
「毎日?」
 サンシが頓狂な声をあげる。
「ニャムサンが律儀に毎日王宮に通っているのですか?」
 主をバカにされたと思ったのか、老翁は少し機嫌を損ねたような顔をして、サンシをジロジロと眺めた。
「はあ、左様にございます」
 トンツェンは一歩前に出て、老翁とサンシの間に立ちはだかると、居丈高に言った。
「どうしても今日中に会わねばならぬ用があるのだ。夕方には帰って来るのだろう。邪魔するぞ」
老翁を押しのけるようにして、トンツェンは邸内に足を踏み入れた。サンシがあとに続く。老翁は慌てたようすで小走りにふたりを追い越すと案内した。
 この屋敷は、もともとニャムサンの父のものだったという。さすがに名門ナナム家の尚論の屋敷だけあって、立派なものだった。が、通された部屋に、トンツェンは思わず声をあげた。
「おいおい、ここで待てって言うのかよ」
 そこはなんの調度品もないがらんどうの部屋だったのだ。老翁は床に敷物を広げながら言った。
「申し訳ございません。先代さまがお使いになっていた道具はすべて若さまが片付けてしまいまして……」
 これが客間で間違いないらしい。トンツェンは敷物の上にどっかりと腰を下ろした。
「構わないよ、気にするな。悪いが待たせてもらうぜ」
 サンシもその隣に座ると、老翁はヘコヘコと頭を下げながら部屋を出て、すぐに酒と干した肉や果物をもって戻って来た。腹が鳴る。昨晩からろくに飲み食いしていなかったことを思い出したトンツェンは相好を崩した。
「ありがたい。遠慮なくいただこう」
 老翁は安心したように顔をほころばせた。
「先代さま、というのはニャムサンの父上だな。あんたはそのころからこの屋敷に仕えているのかい」
 干し肉をかじりながらトンツェンが問うと、老翁は首を振った。
「いいえ。わたしは若さまがこの屋敷に戻ったときに雇われた通いの使用人です。先代のツェテンさまのご家来衆は、若さまの乳母とその子を除いて残されていなかったと聞いております。その乳母も、若さまの元服の直前に亡くなったそうです」
 トンツェンも、マシャンが弟を殺して家督を奪ったという噂は聞いていた。その真偽はともかく、ツェテンの死後、その家来たちが追放されたのは本当らしい。
「その乳母のお子さんがタクですね」
 サンシが口を挟むと、老翁は目を丸くした。
「よくご存じで」
「タクって誰だ?」
 トンツェンの問いにサンシは答えた。
「わたしとニャムサンのおない年の、ニャムサンの従者です」
 老翁はますます目を見開いた。
「あの、あなたさまは?」
 サンシは老翁に笑顔を向ける。
「わたしはニャムサンとともに太子の学友を務めております」
「これは失礼いたしました。わたしはてっきり……」
 トンツェンの従者だと思っていたのだろう。そう見えるかっこうをさせていたから仕方がないのだが、老翁はまた申し訳なさそうな顔をしてペコペコと頭を下げた。
「しっかし、あんたが帰ったら、この広い屋敷にタクってやつとふたりだけになるのか?」
 それはずいぶん寂しいとトンツェンには感じられた。

 陽がだいぶ西に傾いて部屋が薄暗くなったころ、予告なく扉が開いた。
「こんなときになんで帰って来るんだ、バカ」
 トンツェンは立ちあがった。
「いきなりバカとはご挨拶だな」
 戸口に棒立ちになったまま、ニャムサンは西日で橙色に染まった顔をしかめた。
「あんたに言ったんじゃないよ。ていうか、あんた誰だ」
「オレさまを知らないのか」
「名前が出てこない」
 若手の出世頭と自負しているトンツェンは、いささか自尊心を傷つけられた。少なくともニャムサンの年頃の男子なら、憧れの星と仰ぎ見るべきだろう。
「もうちょっとで思い出しそうなんだけどな」
 ニャムサンはツカツカと無遠慮に近づいて来て、ジロジロと顔を眺めまわす。
「無礼なヤツだが、思い出したら許してやる」
「シャン・ツェンワじゃないほうでしょ」
「なんだそれ」
「あ、思い出した。シャン・トンツェン」
「そうだけど、殴っていいか?」
「許すって言ったのに」
「ツェンワじゃないほうって、どういう意味だよ」
「似た者同士だから組で覚えてるんだよ、いくさバカ」
 思わず、手が出た。が、ニャムサンの頬を狙ったこぶしは空を切る。上半身をそらして紙一重で攻撃をかわしたニャムサンが、ニヤリと笑った。
「乱暴だなぁ。勘弁してよ」

 トンツェンがここに来た経緯を話すと、ニャムサンは眉をしかめた。
「わけはわかった。でも、唐人が追放になっていることを知っているのに、なんでサンシを連れて来たんだ」
 連れて来たくて連れて来たわけじゃない。トンツェンが今度こそ殴ってやるとこぶしを固めたところで、サンシが口を出した。
「わたしが無理を言って同道をお許しいただいたのです。ニャムサンだったら宮中のことも知っているに違いないし、信頼出来るから」
「なるほどね。確かに、このお兄さんひとりだったら、わからなかったんだろうな」
「どうゆうことだ」
「現場を見た人間以外、なにが起こったのか知らないし、見た人間は、オレを除いてみんな共犯者だからだよ」
 それからニャムサンは、王宮の中庭での出来事と、太子が王の寝室に監禁されていることを語った。サンシは青い顔をして震えている。
「なんでおまえは中庭に入れたんだ」
「ティゴルに案内された。どさくさに紛れてオレも死んじまえばいいと思ったみたい」
「ふん、あんたを妬んでるんだな。だけど小心者のあいつらしい。オレならどさくさに紛らせなくても殺したいと思ったら即殺す」
「あんたがティゴルじゃなくて、こころからよかったと思うよ」
「安心しろ。オレはおまえなんかに嫉妬しないから」
 トンツェンが軽く肩を突くと、ニャムサンはイヤそうな顔をした。
「慣れ慣れしくしないでよ。友達じゃないのに」
「なってやってもいいぞ。光栄だろう」
「この世のなかの人間がすべてあんたと友達になりたいと思っていたとしても、オレは絶対イヤだ」
「なんでそんな寂しいこと言うんだよ」
 サンシが先をうながした。
「いまも太子とお会いすることは出来るのですね」
「マシャンから大相に頼んでもらった。実はその前から、壁を登って窓からこっそり入ってたんだけど」
「それは女を盗むための技か。オレにも教えろ」
「違うよ。ナツォクに会うために練習したんだ。でもそれじゃいつ見つかるかわからないだろ。まあ、大相もオレの素行の悪さを聞いて、こんなバカなら自分の思い通りに利用出来ると考えたんじゃないの。アッサリ許されたうえに、このごろでは何しても衛兵隊に注意されることもなくなったから助かってるよ。で、あんたたち事実を知ってどうするの」
「とにかくティサンどのに相談してこれからのことを考えようとは思うけど」
「レン・ティサンって、どのくらい偉い?」
「そりゃ南方元帥だ。若くても軍では5本の指に入る偉さだぞ」
「大相に勝てる?」
「うーん。それは難しいなあ。グー氏はそれほど力のある氏族じゃないし、改革派の有力尚論たちが殺されちゃったとなると、孤立無援に近いだろう」
 ニャムサンが腕組みをしてうつむく。なにかを言おうか言うまいか、迷っているようだった。
「考えていることがあるんですね」
 サンシにうなずいたニャムサンは、思い切ったように続けた。
「改革派じゃなくてもナツォクのために動いてくれるひとはいないかな。ひとりでは無理でも、何人かが力を合わせれば大相に勝てるんじゃないか?」
 それなら自信がある。トンツェンは即答した。
「東方元帥のゲルシクどのは、太子のためならなにを差し置いても動くに決まっているし、味方する尚論も多くいるはずだ。だけど、太子は大相の人質になっているようなもんだろ。へたに動いたら、御身に危険が及ぶんじゃないか」
 ニャムサンは真剣な表情になった。
「大相にとってナツォクは命の綱だ。簡単に殺したりはしないと思う。だから、レン・ティサンとシャン・ゲルシクで都を囲んで欲しい。大相は外部に知られっこないと油断してるから動揺する。そのどさくさに紛れてオレがナツォクを救い出してそっちに届ける。ナツォクがいなくなれば、都でもそっちに呼応する尚論が出てくるはずだ」
 サンシが歓声をあげる。
「やっぱり、信じてよかったでしょう」
 うなずきながら、いまのいままで半信半疑だったけどな、と素直に言うとニャムサンは「そうでなくちゃ困るよ」とつぶやいた。
「なんでだ。おまえ、思ったより頭も悪くなさそうだし、度胸もあるし。真面目になれば世間の評価も変わるぞ」
 トンツェンの言葉に、ニャムサンは顔をしかめて頭を振った。
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