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第一章

太子の幽閉 その4

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 ひとの密度が増していた。露店に商品を並べた近郊の農民や牧畜民、西域からやって来たソグド商人たちが活気あふれる呼び声を発している。都ほどではないが、なかなかの盛況だ。高山に囲まれたこの国では、外敵の心配はほとんどなかった。現ツェンポ、ティデ・ツクツェンが即位してからは、国内の部族や貴族同士の争いも少なくなり、国民は平和を謳歌している。
 だが国境では唐との土地の奪い合いが激しくなっていた。そこに住む人々は財産といのちを失う危険に常にさらされている。もちろん唐側に攻め入るときは、トンツェンも唐のものを奪い、荒らし、殺す。だが、いままでそれに対してこころを痛めたことはない。相手は敵なのだ。
 サンシは目に入るものすべてが珍しいのだろう。興味津々といったようすで周囲にはしこく視線を走らせていた。彼も両国の争いによる犠牲者のひとりだ。和睦の印の贈物という名の人質。ひとりで敵国に囚われる心細さと親兄弟恋しさに、泣いた日もあっただろう。
 柄にもなくサンシの身の上に思いを馳せてしんみりしてしまった。やはりここの空気のせいだろう。
「調子が狂うな」
 トンツェンは頭を掻いた。いちいち他人の境遇にほだされていては、いくさはできない。敵に限らず、部下に対しても。戦場ではこころに蓋をして、そういった余計なことは考えないようにしている。そこがトンツェンの大きな弱点だとゲルシクによく叱られたものだが、気になってしまうものは仕方がない。
「トンチェンさま、トンツェンさま」
 呼ばれて我に返った。サンシは人波の先を一心に見つめている。
「ラモチェの和尚ハシャンさまがいらっしゃいます」
 トンツェンも目を向ける。確かに、仏教僧の姿があったが、背中を向けているので顔がわからない。
 都にあるラモチェ寺は、百年以上前にこの国を統一した大王ティ・ソンツェンの中国妃文成公主が建立した寺だ。その和尚は王が唐から招いた僧侶だが、かなりの高齢で王宮に出向く以外に出歩くことはめったになかった。こんな田舎町にいるはずがない。
「年取った坊さんだから、そう見えるんじゃないか」
「でも似てらっしゃいます」
 サンシはいきなり走り出した。
「おい、待てよ」
 トンツェンは慌ててその後を追った。
「和尚さま!」
 サンシの呼びかけに振り向いた顔を見て、トンツェンもその僧侶がまぎれもなくラモチェ寺の和尚であることを認めざるを得なかった。
サンシが唐語で話しかけると、トンツェンに会釈したラモチェの和尚はサンシと会話を始める。
 ティサンは敵との交渉や尋問も自分でできるほど唐語に長けていたが、トンツェンはまったく唐語が理解できなかった。小鳥のさえずりのようなふたりのやり取りと聞き流しながら、自分なりに推理してみる。
 もしや、病にかかって帰国を申し出たのか。が、目の前の僧侶はしごく元気そうで、年より若く見えるくらいだ。だいたい、唐までの道は健康な若者であっても越えるのが困難な高山がいくつもある。病を押して帰国するなど考えられなかった。
 では、ツェンポの不興を買ったのか。考えにくいことではあるが、まったく可能性がないわけではない。
 サンシの顔が次第に青ざめ、困惑の表情になる。
 まさか、病気なのは……。
 だが、五十という老齢とはいえツェンポは人よりも頑強な質で、病気らしい病気をしたと聞いたことがない。
 ならば事故か。ツェンポは馬が好きだ。馬の事故も考えられないわけではない。
 そして、忌まわしい言葉が頭にのぼった。
 弑逆……。
 思いを巡らしかけたとき。
「トンツェンさま」
 再びサンシの声で我に返った。
「おう、なんだって?」
 サンシはおびえたような顔をしていた。
「わかりません」
「わからない?」
 高僧に目を移す。彼も沈んだ表情で首を振った。
「突然、唐人と天竺の人は帰国するようにという命令が出たそうなのです。陛下と太子にお別れのご挨拶をしたいと願い出ても、お許しがいただけなかったとか。それに……」
 サンシが言いよどむ。うながすと、かすかに震えながら続けた。
「ならばせめてと、頻繁にお寺にいらしていた尚論を訪ねられたそうですが、何人かの方々がその数日前からお帰りになられず、家族や家来たちが心配していたと。陛下と、宮中にいらした改革派になにかあったってことは考えられませんか?」
 トンツェンは、足元の地面が抜けて宙に投げ出されたような感覚に襲われてよろめく。政治闘争なんてものに巻き込まれるのはごめんだ。直接刃を交える戦場とは違い、目に見えぬ権力の争いは得体の知れない怪物のように恐ろしい。
 サンシが、意外と冷静な声で言った。
「もしも伝統派の謀反なら、このまま都に帰っては危ないですね。とにかく、レン・ティサンにお知らせしましょう」
「お、おう」
 一瞬の狼狽が恥ずかしくなる。頬をはたいて自分で自分に気合を入れた。背を向けて逃げるのは主義じゃない。
 トンツェンは慌ただしく老僧に礼をするとサンシの腕をとり、ひとごみをかき分けながらもと来た道を駆け始めた。

 トンツェンの話を聞いたティサンは、眉間に深いしわを作った。
 真っ青な顔をして息も絶え絶えに倒れこんだサンシは、仲間に背をさすられながら水を飲んでいる。これまでの人生で、こんなに走ったのははじめてなのだろう。
「外国人に帰国命令が出されている。そして和尚が懇意にされていた改革派尚論の一部の消息が確認出来ない、というのですね」
 ティサンの固い声に、トンツェンは背筋を伸ばした。
「はい」
 ティサンは目の前の空間をにらむ。こういうときのティサンは怖い。他人と比べ饒舌なトンツェンだったが、ムズムズする舌を唇で固く封じて、ティサンの思案が終わるのをじっと待つ。
「あの、よろしいでしょうか」
 その沈黙を破られて、ギョッとする。サンシがフラフラとトンツェンの脇に寄った。思考を中断されたティサンは鋭い視線を向けたが、相手がサンシとわかると柔和な笑みを浮かべた。
「なんでしょう」
「わたしが都に行って、なにが起こっているのか聞いて来ます」
「ちょっと待てよ。おまえがいちばん危ないんだぞ」
 トンツェンの言葉にティサンもうなずく。
「その通りです。もしも改革派に対する粛清が行われているのなら、使節団の人間、まして唐人のサンシどのは帰ってはいけません」
「いいえ。わたしが一番安全です。わたしは皆さまに比べて顔を知られていませんから」
「バカ言え。一番安全なのはオレだ。オレは伝統派でも改革派でもないからな。それに、腐ってもチム家の人間だ。大相だって、そう簡単に捕まえることは出来ない。戦勝報告だって言えば陛下に会わせないわけにはいかないだろ。ティサンどのは、まだ唐からの反撃があるかもしれないから砦を守っているって言えばいい」
「では、ふたりで行きましょう」
「なんでだよ」
「いけません!」
 ティサンが叱責の声をあげたので、トンツェンはビクリとする。
「サンシどのは、和尚さまとともに唐にお帰りなさい」
 サンシは一瞬あっけにとられた顔をしたが、みるみる頬を紅に染める。
「イヤです」
「お帰りなさい。唐主ギャジェはあなたに、残って唐に仕えよと言ったそうですね」
「帰るってどういう意味です? わたしの帰るところは太子のもとです。帝にはそう申し上げて、キッパリとお断りいたしました」
 サンシは真っ赤に充血した瞳でティサンをにらみつける。
「どうしてもお認めいただけないとおっしゃるのなら、わたしはひとりで都に帰ります」
 ティサンは悲しそうな顔をした。
「そのような短慮を起こすものではありません。だいいち、宮中のようすを知る、信頼できるお知り合いがいるのですか?」
「ナナム家のニャムサンです」
「おんなたらし?」
 トンツェンが聞き返すと、ティサンが首を傾げる。
「レン・マシャンは伝統派の重鎮のひとり。彼が陰謀を主導している可能性もあります。その近親者にお会いするなど、危なすぎます」
「ニャムサンは伯父上の言いなりになるようなひとではありません。それに、太子のことを弟のように大切に思っています。太子を裏切るようなことは絶対にしません」
「そうかなぁ」
 懐疑の声をあげたトンツェンに対して、ティサンはしばらく真剣な表情で考えた後、うなずいた。
「では、おふたりで行っていただきましょう。まずはトンツェンどのが陛下への謁見を申し出る。それでわからなかったら、ニャムサンどのにお会いする。くれぐれも無理をしないように。どちらかひとりが危ないと思ったら、すぐに引き返しなさい。よいですね」
「はい」
 明るいサンシと、力ないトンツェンの声が重なった。
 トンツェンはため息をつく。
 なんで、こんなお坊ちゃんと相棒を組まされなきゃならないんだ。

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