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第一章

太子の幽閉 その3

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 チム・トンツェンは河原におりると両手を椀にして水をすくい、口をすすいだ。水の冷たさが、目を覚ましてくれると期待していたが、案に相違してまたあくびが出る。
 戦場ならば夜討ちも朝駆けもまったく苦にならないのに、そこから離れると不思議と起きるのが辛くなる。空気が違うせいだ。生きるか死ぬかの境界にある、ヒリヒリと肌を刺すような緊張感が、ここにはない。
「報告なんて面倒だな」
 あくびとともに口を突いて出た自分の声にギョッとして、周囲をうかがってしまう。上司である南方元帥グー・ティサン・ヤプラクの姿のないことを確認して、肩の力が抜けた。彼がいまの言葉を耳にしたら、陛下への報告も尚論の大切な仕事だなどと説教を垂れるに違いない。うっかり愚痴もこぼせなかった。
 ティサンとトンツェンは年明けに唐の城を落として都に帰る途中だった。25歳の若さで元帥という要職を拝命しているティサンに対して大いに尊敬の念を抱いているトンツェンだったが、その真面目すぎる性格にはときどき息苦しさを感じる。
 半月ほど前に酒を酌み交わしたド・ツェンワが羨ましい。彼は唐との国境にある赤嶺のふもとに駐屯している東方元帥チム・ゲルシク・シュテンのもとに向かっていた。トンツェンも、もともとは同族のゲルシクの配下だったが、他の将軍からも学んで視野を広げるようにというゲルシクの意向で、ティサンの麾下に組みこまれている。
 東の山から眩しい朝日が顔をのぞかせていた。もうひとつあくびをする。
 トンツェンは朝日の下、昨夜宿泊した天幕の向こうの街道に目を向けた。赤土の道に長い影を引きずりながら、ナカルの街に向かってゾロゾロと村人たちが歩いている。朝市に行くのだろう。
 行ってみようかと思案していると、天幕から少年が出てきた。唐人の子バ・ティシェル・サンシだ。たまたま行き合って同道している唐使節団の一員。トンツェンと目が合うと、サンシの白い頬に愛想のいい笑みが浮かんだ。
「おはようございます」
 礼儀正しい挨拶に、トンツェンは片手をあげて「よう」と返した。
「ちょうどよかった。付き合わないか」
 少年は小首をかしげてトンツェンを見る。
「朝市を見に行くんだ。興味あるだろ」
 幼いころに唐から和睦の印として贈られたサンシは宮廷育ちだった。めったに庶民の生活を目にする機会はないだろう。
 サンシは「はい。お供させてください」と溌溂と答えて、「ちょっと誰かに声をかけて来ます」と天幕に引っ込む。すぐに出てくると、嬉しそうな顔をして駆け寄って来た。なかなか素直でかわいげのあるガキだ。
 ふたりは徒歩で連れ立って、人の流れに乗った。
 尚論となってすぐに初陣を経験し、そのまま戦場に身を置くことが多かったトンツェンは、宮廷の奥深くで暮らすサンシと今回が初対面だった。
 チラリとその首筋を見る。戦場ではこんな生白い男はいない。
「あんた、ほとんど宮廷の外に出ることないんだろうな」
 サンシはいかにも賢そうな、輝く瞳でトンツェンを見あげた。
「はい。このように太子のお側から離れるのは今回がはじめてです」
「じゃあ、太子以外、あまりひとと話すようなこともないのか」
「太子がお会いになる方々とはわたしもお会いしますが」
「改革派の尚論たちか」
 太子は仏教に興味を持っていて、仏教を信奉する尚論を呼び寄せては討論をしているとトンツェンも聞いていた。
「レン・ティサンとはこれまで何度かお会いしたことがありました」
 そういえば、ここに来るまでの間、ふたりは仏教のことや漢籍のこと、唐の詩歌の評論など、トンツェンにはまるきり縁のないことを楽しそうに語り合っていた。
「なるほどねぇ。いま17だっけ。同じ年頃の友達は少ないのか」
「太子とナナム家のゲルニェン・ニャムサンくらいのものです」
「は? あの『おんなたらし』と友達なのか」
 トンツェンは眉をしかめてしまう。サンシは首をかしげた。
「おんなたらし?」
「ニャムサンのあだ名だよ。あいつは手当たり次第に女に手を出してるからさ。黙って立っているだけであのお顔に女が勝手に靡くってんだから、羨ましいや」
「そうなのですか」
 サンシは困ったような笑顔を見せる。世間に汚されていない積もりたての雪のような清潔な笑顔だ。
「あいつ、ついこの間も女の取合いで町人に殴られたらしいぞ」
「この間ですか?」
「といっても、もう1か月以上経ってるな。下町の酒場で暴れてたところをツェンワが見かけて、ルコンどののところに連れていったらしい。顔が半分腫れちまって、せっかくの男前が台無しだったってよ。なかなか面白そうなガキだな。尚論になったらオレのところに来いって言ってくれ。一人前の武人になるよう鍛えてやる。ヤンチャなヤツは大歓迎だ」
「ああ、もうニャムサンも尚論になってもおかしくない歳ですね。そうしたら、あまり会えなくなってしまうのでしょうか」
 寂しそうに言うサンシの肩を、トンツェンは強くたたいた。
「永遠に会えないわけじゃないんだ。大人になったらさ、年に1、2度会うぐらいがいい感じの距離になるんだって。あんたもこうやって使節団のひとりに任命されたってことは、これからいろいろ仕事を与えられるってことだろ。それで忙しくなれば、数か月なんてあっという間だ」
 サンシが真直ぐな眼差しを向ける。トンツェンはその眩しさに思わず目を細めた。
「ありがとうございます。シャン・トンツェンはおやさしいですね」
「おやさしい?」
 慣れぬ言葉に背中がムズムズする。
「おいおい、やめてくれよ。あと、ふたりで話をするのに頭にシャンをつけなくていいから」
 シャンとは〈おじ〉を意味する王家外戚の称で、いまは〈ド〉〈チム〉〈ツェポン〉という三家出身の高官が名乗ることを許されていた。いずれ太子ナツォクがツェンポになったら、その母の出身である〈ナナム〉も加わることになる。それ以外の高官はレンを称する。この国ではその両方を合わせて、官職を拝命している貴族のことを尚論シャンレンと呼んだ。

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