天空の国

りゅ・りくらむ

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第二章

バ・セーナン

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 サンシはタクを連れてすぐに戻ってきた。ニャムサンがすっかり寝入っているのを確認したサンシに促されるまま、タクを残して部屋を出る。
 扉の外に、ティサンと同じ年のころと見える男が愛想のよい笑みを浮かべて立っていた。
「以前お話したレン・セーナンです」
 サンシが紹介すると、呂日将が口を開く前に、セーナンは驚くほど早口の唐語でまくし立てた。
「サンシどのよりうかがいました。ええ、唐の方が見学にいらしてくださるとは、大変光栄に存じます。早速ですが、これからこの訳経所のご案内をさせていただきます。ぜひ、改善点などございましたらご教示ください」
 言葉の終わらぬうちに、セーナンはセカセカと歩き始める。どうやら、ティサンのさらに上を行くせっかちのようだ。
 セーナンは、自分のことをなんだと思っているのか。
『ご教示』という言葉に不安を覚えてサンシの顔を見ると、サンシは申し訳なさそうな顔をして軽く顎を引いた。黙って付き合ってやってくれ、ということらしい。ふたりは小走りにセーナンの背中を追った。
 無人となった大部屋は、先ほどよりも広く感じた。シンと静まり返ったがらんどうの空間に、セーナンの怒涛のような解説が流れていく。
「ご覧いただいたとおり、翻訳はここで行っています。基本的には唐で行われている方法と同じく、漢語を読み上げ音写してからこちらの言葉に変換し、文法を整え、その後ひとつひとつの語句の意義を検討する、という形です。まあ、貴国でもそうだと思いますが、文法を整えるまでは大した作業ではないのですが、語句の意義の検討は、先ほどのように大いに議論になることが多く、難しいところになると、偈頌の一句が決定するのに何日もかかることがございます」
 机上に、先ほどニャムサンの部屋で見たのと同じような漢文の巻物と、この国のものに似たような横書きの文字が書かれた細長く薄いものが積み重ねられて整然と置かれている。それをうやうやしく示しながら、セーナンは言った。
「残念ながら貝多羅のほうは阿闍梨がお帰りになってしまったので翻訳は止まっています」
 貝多羅とはなにか。阿闍梨とはなにか。さっぱりわからなかったが、呂日将に口を開く隙を与えず、セーナンはしゃべり続けた。
「唐の方にこのようなことを申し上げてはご不快に思われるかもしれませんが、貝多羅と漢訳で同じ経典を照らし合わせてみると漢訳には間違えや欠損があることが分かりました。このまま漢訳の翻訳を進めることに意味があるかどうか、はなはだ疑問ではあります。しかし阿闍梨がまたいつ、ここにおいでになるか、また新たな貝多羅の経が入手出来るかはわかりません。とりあえず巻数も読める者も多い漢訳の翻訳を進めているわけです」
「あの、触ってみてもいいですか」
 セーナンが息継ぎをしたので、ようやく呂日将は質問することが出来た。茶褐色に変色した紙かと思ったが、どうも違う。少し興味を惹かれて、セーナンが貝多羅と呼んだ細長いものを指差す。
「もちろん、もちろん。なにか御不審な点がございますか?」
 セーナンのようすから大切なものなのだろうと察した呂日将は、恐る恐るめくってみる。その間もセーナンはなにやら話していたが、言葉は頭の中を素通りしていった。
 まんなかあたりに穴をあけて糸で綴ってある。紙よりも厚く、表と裏にびっしりと文字が書かれていた。
 呂日将はセーナンの吐き出す言葉に乗り上げるように声をあげていた。
「あの、これは……」
「……今後、唐からも僧侶をお呼びしてご覧いただく必要があります。将来は両国からもっと多くの……えっ、ええ? なにか問題がありますか?」
「これは、なんですか?」
 セーナンは目も口もポカンと開いたまま固まる。代わってサンシが説明した。
「貝多羅というのは天竺の言葉で『葉』という意味です。あちらでは唐のように紙が普及していませんから、こうして木の葉に文字を残すのです」
「ああ、なるほど。これは天竺の文字なのですね」
 セーナンが困惑の声をあげた。
「サンシどの、サンシどの、この方は唐の学者ではないのか」
「誰もそんなこと申しておりません。唐からいらした、と言っただけでセーナンどのが、会わせろ、会わせろ、とせかすので説明出来なかったんじゃないですか」
「なんと……」
 セーナンは、がっくりと肩を落として顔を伏せた。
「ご期待に沿えず、申し訳ない」
 あまりにも落ち込んでいるようすなので、呂日将はつい謝ってしまう。
「いいえ、いいえ」
 セーナンはガバッと顔をあげると、しきりと手を振りながら、また早口で話し始める。
「まったく、いつもこのようにサンシどのやニャムサンどのを困らせてしまう。唐からいらした方がわざわざ足を運んでくださったと聞いて、ええ、自分が勝手に学者の方と思い込んでしまったのです。先ほどからペラペラと独りよがりに話し続けてしまい、さぞご退屈にございましたでしょう。いやいや、まことに失礼いたしました、ええと……」
 セーナンは、急になにかを思いついたような顔をした。
「失礼、あなたのお名前をうかがっておりませんでした」
 サンシは笑い出した。
 呂日将が改めて自己紹介をすると、セーナンは大げさに感心した。
「ほうほう。日将どののような経歴の方がここにいらっしゃるのは初めてですか?」
 とサンシに質問を投げかけておきながら、サンシが答える前にまたしゃべり出す。
「ええ、初めてですよ。といっても、武人でなくても、関係者以外の方が見学にいらっしゃることはめったにありませんから当然ですが。これは重畳、重畳」
 セーナンが息継ぎをする間に、サンシが口を挟んだ。
「でもティサンさまはいらっしゃいますよ」
「ええ、もちろん。ティサンどのは最大の支援者と言っていいでしょう。ここにある漢訳仏典が無事であったのも、ティサンどのとニャムサンどののおかげですから。ああ、そうですね。ティサンどのは将軍としてもご活躍ですね。ははあ、これは一本取られましたな。はははははは」
 セーナンが笑っている隙に、再びサンシが口を出した。
「ここにある漢訳経典は、わたしが唐から持ち帰ったもので、ティサンさまとニャムサンが洞窟に隠して摂政の破仏から守ったのです」
 セーナンは悲しそうな顔をした。
「ようやく経典の翻訳に取り掛かることが出来るようになって、みな熱が入るのは当然なのですが、熱くなりすぎると先ほどのような口争いになってしまいます。破仏以前にいらした唐人の和尚に師事していた者と、シャーンタラクシタ様から教えを受けた者との考えの違いが争いの主な原因です。論争が激しくなると、悟りの階梯はどちらが正しいかだの、どちらが正当に釈尊の法灯を伝えているかだの、いま、目の前にある経典には関係ないことにまで話が及んで手が付けられなくなってしまう。ニャムサンどのがうんざりするのも無理ありません。まあ、明日まで一時休止で、お互い頭を冷やすことが出来るでしょう。いや、日将どのがよいところに来てくださいました。有難い、有難い」
 それからもセーナンは懇切丁寧に訳経作業について語り続けた。部外者に説明するような機会がなかなかないので嬉しいのだという。まったく興味のなかった呂日将も、セーナンの話術についつい惹き込まれ、聞き入ってしまった。
「まだいたのか。日が落ちる。わたしは帰る」
 セーナンの途切れぬおしゃべりを遮る声に振り向いてみると、ニャムサンとタクが戸口に立っていた。
 目の下のクマは相変わらずだが、顔色はだいぶよくなっている。
「なら途中まで一緒に帰りましょう」
 サンシが言うと、ニャムサンはうなずいた。
 別れを告げると「またいつでもいらしてください」とセーナンは名残惜しそうに見送った。
 その後は、サンシとともに羅些の街のなかを散策したり、訳経所でセーナンの一方的なおしゃべりに耳を傾けたり、気分転換というニャムサンの遠乗りに付き合ったりして過ごした。これではまるで物見遊山だ。
 こうして呂日将が羅些に着いてからひと月が経とうとしていた。
「会盟はそろそろ終わります。近いうちに知らせがありますよ」
 サンシがなだめるように言う。自分では抑えているつもりだったが、焦りが顔に出ているようだ。
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