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第二章
タクラ・ルコン
しおりを挟む息が苦しい。
だけど笑いはおさまらなかった。
呂日将に文句を言ったら、呂日将が現れた。
こんな偶然ってあるのだろうか。
「待ってくださいよぉ」
タクの声がどんどん遠ざかっていったが、ニャムサンは振り向きもせず、いっきに丘をあがり、駆け降りる。うざったくて仕方がない装身具を次々投げ捨て、袍も脱いでしまう。タクが拾ってくれるだろう。
胡床に腰掛けているゲルシクの背中がグングン大きくなる。
その隣に繋がれている馬をめがけて、ニャムサンは足音高く跳ねるように坂を下って行った。
振り返ったゲルシクが、下着一枚のニャムサンの姿に目を剥く。
「なんだ、その格好は! 強盗にでも会ったのか!」
「借りるぜ!」
ニャムサンは一言叫ぶと、杭から手綱を解く。そのまま飛び乗って馬腹を軽く蹴ると、馬は駆け出した。
「おお、ようやく……」
ゲルシクの声が馬蹄の響きにかき消える。
模擬戦闘中の騎馬隊に向けてニャムサンは真っ直ぐ馬を走らせた。
「ちょっと待った! 待った!」
騎馬隊に呼びかけるが、彼らは気づかない。
「止めろって言ってるんだよ!」
ニャムサンはそのなかに飛び込む。思わぬ方向からの乱入に、陣が乱れた。
奇襲の隊が仕込まれていたと思ったのだろう。小隊長の号令で、防御の姿勢がとられ、一斉にニャムサンに向けて槍を模した演習用の木の棒が突き出された。
かまわず、そのただなかに馬を乗り入れる。
彼らはニャムサンの顔を認めると慌てて得物をおろして道を開いた。
「止め!」
ルコンの声が鋭く響く。そこに向かって、ニャムサンは騎馬隊のなかを走り抜けた。
行く手の兵が割れていって、ルコンが、見えた。
上体を後ろに倒して手綱を引く。
馬は土煙をあげながら後ろ足を滑らせて、ルコンの馬の脇腹に突っ込む直前に止まった。
「死にたいのか」
ルコンは驚いて軽く飛び上がった馬を御しながら、顔だけ向けて怒りを含んだ声で言った。余人ならば、それだけで震えあがり、ひれ伏して許しを請うだろう。ルコンはこの国で一、二を争う権力者なのだ。が、子どものころから叱られ慣れているニャムサンは平気だった。
「ちょっと、来てよ」
息があがって思うように言葉が出ない。
「理由を言え」
「だから、来れば、わかるって」
「唐語の勉強なら、夜まで待てって言ったじゃないか」
トンツェンが割って入る。異変に気づいて駆けつけてきたようだ。
余計な事を言いやがって。
ニャムサンは心中で舌打ちした。
案の定、ルコンが眉をあげる。
「そんな理由で演習を止めたのか? 軍監でなければ、首を打つところだぞ」
「違うって! 呂日将、が、来た」
「冗談も夜にしてくれ」
うんざりといった顔をするルコンに、ニャムサンは必死で息を整えながら言った。
「本当だって。僕……僕固……なんとかっていうひとからの使いだって。小父さんとゲルシクのおっさんに会いたがってる」
「僕固? 懐恩か?」
「あ、そんな感じ」
ルコンはようやく馬をニャムサンに向けた。
「なんで呂日将が僕固懐恩の使者なのだ」
「そんなの知らないよ! だから来てって言ってるんだ」
「トンツェンどの、代わって続けてくれ」
「はい」
「ニャムサン、案内しろ」
馬を返しながらトンツェンにニッと笑いかけると、トンツェンは盛大に顔をしかめて見せた。
ルコンと連れ立って戻ってきたニャムサンに、ゲルシクは眼を丸くして立ち上がる。
「僕固懐恩の使者だそうだ」
「おっさんも来て!」
ふたりは言い捨てて、そのまま走り去る。
馬は軽々と丘を駆けあがって行く。坂の途中で、ニャムサンの袍を抱えたタクが座りこんでいたので叫ぶ。
「戻れ!」
なにかを言い返したのか、口を開けたタクの姿はあっという間に小さくなった。
丘の頂上まで来ると、茶一色の風景のなかに、黒く固まっている商隊の姿が小さく見えた。
「あれだよ」
ニャムサンはルコンに叫ぶ。
ルコンは速度をあげて丘を駆け降りる。
ニャムサンはそれにピッタリついて行くことの出来ている馬に驚いていた。さすが東方元帥の馬だけある。
挑むように待ち構える呂日将の顔の見わけがつくまでに近づいたとき、風のうなりに乗ってルコンの声が聞こえた。
「本当だったのか」
「え、疑ってたの?」
怒鳴り返す。速度を緩めながら、ルコンは答えた。
「おまえの唐語の理解力を疑っていたのだ」
「ちぇっ。だったらトンツェンの相手なんかしてないでもっと教えてくれよ」
ニャムサンはつぶやいて頬を膨らませた。
呂日将以外の商人たちは平伏してふたりを迎える。
馬を降りて、ニャムサンは後ろを振り返った。
「おっさん、来ないな。なにやってんだ」
ルコンが呆れた声をあげる。
「これはゲルシクどのの馬ではないか」
「そうだよ」
「なら、ついてくるわけがないだろう」
「あ、そうか」
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