天空の国

りゅ・りくらむ

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第一章

吐蕃へ

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 三月も半ばだというのに、蘭州は肌寒い。木々はようやく芽吹き始めたところだ。長安では、もう花が咲き始めているだろう。
 宿に落ち着くと、曹健福は呂日将に告げた。
「ここで西域に向かう道と吐蕃に向かう道が分かれます。このさきは急激に高度が増しますので、身体を慣らすためゆるゆると進みます。高所の病は重症になるとあっという間にいのちを奪う。頭痛や吐き気があるときは我慢なさらず、すぐにおっしゃってください」
 噂には聞いているが、想像しているよりも厳しい道程であると覚悟したほうがよさそうだ。緊張が伝わったのか、曹可華が励ますように言った。
「オレは去年、はじめて羅些まで行ったんだけど、いい薬があるから大丈夫でしたよ」
「そんなところで生活をしていて、吐蕃の人間はなんともないのか」
「生まれたときから高いところにいるから大丈夫なんじゃないですか。オレたちだって、身体が慣れれば大丈夫になっちゃうんですから」
「なんでそんな危険を冒してまで羅些で商売するのだ」
「そんな危険なところだからですよ。商売敵が少ないからそれだけ儲かる」
「なるほど。商人は商人で、いのちをかけるものがあるのだな」
「そりゃ、儲からなかったらひとも雇えないし商品も仕入れられない。商売が出来なくなったら飢え死にしちゃうでしょ。稀学さまだって商人のクセに、そんなことも知らないんですか」
 曹可華は呆れた顔をする。

 安史の混乱に乗じて吐蕃が陥とした石堡城を通り過ぎた。
 その指揮をとったのが、曹可華が言っていたシャン・ゲルシク将軍なのだろう。ここでいのちを落としたであろう多数の唐の兵たちのことを思って、呂日将のこころは暗くなった。いま、自分は彼らを裏切り、この地を吐蕃に与える約束をするためにここまで至ったのだ。
 罪悪感を振り払い、強いてこれからのことを考える。
 馬重英が苗晋卿に名乗ったレン・タクラというのは偽りで、シャン・ゲルシクこそがまことの名なのではないか、と呂日将は疑い始めていた。シャン・ゲルシクは国境にほど近い台地に駐屯しているという。とりあえず、彼に会うことを第一の目標と定めた。
 国境へ向かう道は意外に整備されていた。膨大な商品を運ぶ駱駝は山を登ったり降りたり、支障なく進んで行く。それでも道は次第にきつくなり、息苦しいような気分になって来た。やがて青空のもと、立ちふさがるなだらかな山を指さして曹健福は告げる。
「あれが吐蕃との国境の赤嶺です。賛普に嫁ぐ太宗時代の文成公主、そして昨年吐蕃に擁立された広武王さまの妹君の金城公主が、山頂で故国との別れを惜しんだそうです」
 雪の残る登り道を、ゆっくりと進む。深く呼吸することを意識するように、という曹健福の注意を守り、冷たい空気で肺を満たしながら頂上に到着すると、呂日将はふたりの公主にならって後ろを振り返ってみた。が、同じような山々が見えるだけで、思ったほどの感慨は生まれて来ない。行く手に目を移せば、まだらに雪の残る茶色い平野の彼方に、真っ白に輝く峨々たる山脈が壁のように立ちはだかっている。その絶景にしばし見惚れてから、ふと道の傍らに目を移すと、大きな石がゴロゴロと転がっているのに気がついた。薄っすらとつもっている雪の隙間から、漢字や吐蕃の文字が刻まれているのが見える。
「これは金城公主の発案で建てられた、唐と吐蕃の国境を定めた誓いを示す石碑です。建てられてほんの五年で両国の和は敗れ、玄宗皇帝の命によってこのように破壊されてしまいましたが」
 曹健福の長男、曹健祥が教えてくれた。何気なくそのかたわらにしゃがみこんで、雪を指で払ってみる。
 有渝其誠 神明殛兮――その誠に背くことあらば、神より罰がくだされるだろう
 呂日将は、ギョッとした。
 安禄山に長安を追われ、その途上で寵愛する宰相と貴妃を殺され、京師に帰ってからは宦官たちに幽閉されたまま寂しく一生を終えたという玄宗の悲惨な晩年は、この砕かれた石碑の呪いなのではないか、などと想像してしまったのだ。
「会盟の誓いを締めくくる決まり文句です。めったに守られることはありません」
 呂日将の畏怖の念に気づいていたのかいないのか、曹健祥は闊達に笑っていた。
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