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第三章
宴の終わり その2
しおりを挟む李承宏は身体を起こした。
めまいだろうか。身体が揺れているように感じる。
寝床から降り、両脚で立ってもその感覚は去らない。
めまいではない。本当に地が、京師が揺れているのだ。
部屋を出、建物を出る。
ウワンウワンという唸りが空気を揺らしている。宮を囲む分厚い壁の向こうの空が赤く染まって、大明宮の中の建物をほんのりと照らしている。含元殿に登れば街の様子を眺めることが出来るだろうが、確認したところでどうなるわけでもあるまい。
李承宏はそちらには向かわず、東へ向けて歩き続けた。
多くの取り乱したひとびととすれ違ったが、帝である李承宏に気づくものはいない。次第に人影はまばらになる。
ひとりきり。
左銀台から暗闇に包まれた夾城に入り、南に向かい、やがて東に折れ、また南に折れ、手探りでゆっくりと延々と歩き続ける。
荒い息を吐きながら春明門のゆるい坂を上って下りる。
興慶宮に入ったときには、東の空がほんのりと白み始めていた。
目の前に池が広がっている。その光景を眺めながら、息を静めた。反乱によって荒れてしまったはずの庭園も、夜明け前の薄明かりのなかでは昔と変わらぬ美しさを保っているように見えた。
「この景色も見納めか」
李承宏はポツリとつぶやく。
池のほとりには玄宗自ら指揮して植えさせた牡丹の園が広がっていた。花の盛りには宴が催され、李承宏の一家も招かれたものだ。牡丹は玄宗が京師を去ってから手入れする者もないまま、すっかり枯れ果てている。
杖刑の後遺症に苦しむ父と、幼くして吐蕃に嫁ぎ両国の和親に尽力する妹に報いようとするかのごとく、玄宗は一家を厚遇し、李承宏をはじめとする兄弟たちは功績がなくとも高い地位を与えられた。それを世間の人々が軽侮の交じった哀れみの目で許容していることに気づいたのはいくつのときだったか。それから李承宏は、ありとあらゆるものに意欲を覚えるこがなくなってしまった。
痛む足を引きずりながら、ゆっくりとかつての花園を通り抜け、沈香亭に入る。
もうこれ以上は歩けない。
そっと横になって目を閉じると、微かなささやきほどに聞こえていた外の喧噪が、昔と変わらぬ、池に舟を浮かべて歓声を上げるひとびとの声に変わった。
「広武王さまですな」
鋭く咎めるような声で呼ばれて、うたた寝の夢を破られた李承宏は半身を起こした。武装した男たちが、抜き身を手に自分を取り囲んでいる。ぼんやりと彼らの顔を見回して、知った顔があることに気がついた。
「お会いしたことがございますな。はて、どなたでしたか」
その顔に話しかけると、男は口調を和らげた。
「中書舎人の王延昌にございます。郭令公のもとにお連れいたす。ご同道ください」
郭子儀の部下か。よい人間に見つけてもらえた。
「ああ、そのように甲冑を身に着けておられると、まるで別人のようだ。先日令公とお会いしたときにともにいらしたかな。失礼いたした」
李承宏はゆっくりと立ち上がった。
「お手数をおかけする。さあ、参ろうか」
悲しそうに眉を下げた王延昌に、李承宏は朗らかに笑って見せる。
もう、哀れみの目で見られるのは沢山だ。
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