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第二章

京師長安 その5

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 ルコンとゲルシクは宮城の東側、大明宮と興慶宮の間にある貴族の館に宿泊し、李承宏に疑念を抱かせないように足繁く大明宮へ顔を出していた。わざわざ馬に乗るほどの距離ではないから徒歩だ。
 何者かがあとをつけているのに気付いたのはゲルシクのほうだった。
「郭子儀の手の者だろうか」
 ゲルシクは眉を動かしながら言った。ルコンは顎を撫でた。
「どうでしょう。だとしたら、兵力や守備の配置を探ればいいだけ。われらの後をつける意味が分からない」
「刺客かもしれんぞ」
「ならばなぜすぐに実行せずグズグズと後をついて歩いているのか」
「まあ、様子見するとするか」
 刺客であったとしても、ふたりは余計な外出をせず、出歩くときには常に護衛の兵を連れていたので、よほどの手練れでなければ手を出すことは出来ないだろう。
 そのうち、その怪しい気配は消え去ってしまった。腑に落ちぬことだったが、数日ですっかり忘れてしまった。

 京師に到着してから十一日目の朝。
 ルコンのもとに、長安の南東にある藍田の地に武装した者たちが集まり始めている気配があると報告が入った。商州に退いた郭子儀と連絡を取り合っているかもしれない。
 内では、洛陽まで攻め入るべきだなどと過激なことを言い出す者たちが出始めている。その急先鋒が高暉だった。彼らにしてみれば裏切ってしまった『先の帝』がこの世にある限り、こころを安んずることが出来ないのだろう。
 そろそろ潮時だ。
 そう思いながらゲルシクとともに大明宮に伺候すると、李承宏は人払いをして言った。
「おふたりにお願いがあるのだ」
「なんなりとお命じくださりませ」
 李承宏はじっとルコンを見つめた。
「これから朕を興化坊の屋敷に連れて行って欲しい」
「お安い御用にございます。しかしいかがなさりましたか」
「あちらに着いたらお教えする」
 宮城を出発した李承宏に従うのはルコンとゲルシク、それに長く李承宏に仕えているという家僕の老人と三十人ほどの護衛の兵士。
帝の御幸とは思えぬ寂しい道行だが、希望したのは李承宏自身だった。
「何といったかな、尚結息シャン・ゲルシク将軍の御親族の……。即位前にお会いして以来、あの賑やかなお若い将軍がたの顔を見ておりませんな」
 道中、車駕のうちから李承宏に尋ねられたルコンはドキリとした。なにかと目立つトンツェンのことを覚えていたようだ。
尚東賛シャン・トンツェンにございますな。若い衆は城外の警戒に当たっております」
「さようか」
 それ以上追求することなく、李承宏は無言になった。
 館は主が出て行ったときのまま、手付かずで兵士に守らせていた。李承宏はしばし入り口を見回して、その無事であることに満足したようにうなずくと、先頭に立って入っていった。従うルコンとゲルシクが導かれたのは、なんの調度も置かれていない、虚ろな部屋だった。
「床下を掘ってみよ」
 ルコンは館の護衛をしていた兵士たちを呼ぶと、床をはがして李承宏に促されるままその下を掘らせた。さほど深く掘ることなく、大きな陶器の壺と小ぶりな銀の壺がふたつずつ出てきた。李承宏の指示に従って銀の壺をひとつ開いてみると、びっしりと翠玉や紅玉など、眩い光を放つ貴石がつまっている。世に李承宏が「守銭奴」と噂されるもととなった財なのだろう。
「これは、弟の邠王承寧が父から相続したものだ。安禄山が謀反を起こしたときに埋めて京師を逃れたのだが、弟は戻ることなく亡くなってしまった。わたしは弟の代わりにこの宝を管理していたのだ」
「なぜこれをわたしたちに?」
 ルコンは目を瞬いた。
「形見分けだ。この銀の壺を吐蕃王ツェンポに差し上げよう」
 あっけにとられるルコンに、李承宏は微笑んで続けた。
「わたしの祖父、章懷太子は謀反人に仕立てあげられて太子を廃され自害した。その王子のなかで唯一生き残っていた父も、まだなにもわからぬ子どもであったのに十年以上軟禁され、杖刑を受けた。父は名誉を回復し邠王に封ぜられたが、そのときに受けた痛みと恐怖に生涯苦しまれた。それを紛らわすためか、遊興の限りを尽くして多くの妻妾を抱え、わたしたち兄弟はだいぶ苦労させられたよ。それでもわたしたちのことはかわいがってくれてね、みな父のことが大好きだった。これは、その父が遺した財のすべてだ。われら兄弟は、父に似ぬ守銭奴と謗られても、父の思い出につながるこれらを必死に守ってきたのだ。吐蕃王には感謝いたしておる。わずか数日とはいえ、帝位につくことができた。祖父と父の無念も少しは晴らせただろう。お帰りになったらよろしくお伝えくだされ」
「主上!」
「もう兵を退くのであろう。このようなことが長く続かぬであろうことは、愚かなわたしでもわかっておる」
「お願いにございます。どうかわれらの国にいらして下され。ツェンポも主上を伯父上としてお迎えすることをお望みです」
 思わず、ルコンは撤退の直前に明かそうと思っていたことを口に出してしまった。
「そのお気持ちだけ、ありがたく頂戴いたす。わたしは長く生きすぎてしまった。早く兄弟たちのもとに行きたいのだよ」
 ルコンがゲルシクにかいつまんで話すと、ゲルシクも必死に思い直すよう言ったが、李承宏のこころが変わることはなかった。
 ルコンとゲルシクはずっしりと重い銀の壺を取ると、兵に命じて以前よりも穴を深くして残りの壺を埋め直し、床を張った。
「気づかれることなく、永遠に地中に眠ってくれるとよいが」
 李承宏は嬉しそうに言った。
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