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第二章
京師長安 その3
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ラナンの働きで予定より早く捕虜の選別を終えたトンツェンとツェンワが捕虜を連れて出発するのを、ルコンはゲルシクとともに開遠門で見送った。
これからは少しずつ兵を撤退させる。大明宮で皇帝の生活を満喫している李承宏や官吏たちに怪しまれぬよう、ルコンとゲルシクは毎日出仕し、捕虜たちが十分離れた頃を見計らって最後に去る予定だ。李承宏は京師を去るギリギリのときに騙して京師から連れ出し、攫って行こうとルコンは決めていた。
とにかく捕虜たちを無事送り出したことにホッとしながら宿としている館に戻った。帰りを待っていたのだろう。門を入るや否や、家来が駆け寄って紙片を差し出した。
「お留守の間に唐人がやって来て、殿にこれをお渡しするよう申し付かりました」
「唐人が?」
「手紙の主の名も聞いたのですが、なにぶん、唐語が苦手で、よく聞き取れませんでした。申し訳ございません」
頭をかく家来を下がらせ、書状を開いてみるとたった二行の文章が目に飛び込んで来た。
お会いしたいが足を患いおうかがいすることができない。
大変恐縮であるがお時間が作れたらご足労願いたい。
署名はない。が、見覚えのある墨蹟に、家来が聞き逃した名は苗晋卿であることをルコンは知った。
これから撤退するまでは特にやるべきことはないから、時間を作るのは造作もなかった。にもかかわらず、ルコンは苗晋卿の館に足を向けるのをためらっていた。なんども紙片を読み返し、さんざん迷った末、館を訪ねたのは、その二日後だった。どこぞの節度かと思わせるような立派な風貌の家僕に導かれ、一室に足を踏み入れる。
寝台に半身を起こして迎えた苗晋卿に、ルコンは戸口で拝礼した。
「ようやっと来たな、茶汲み小僧め。あんなならず者どもをよこして己は顔を見せぬとは、どうゆう了見だ」
「わたしのことなど覚えていらっしゃらないと思いました」
「なるほど、わたしがすっかり耄碌しているだろうと思って挨拶にも来なかったのか」
「とんでもございません」
苗晋卿は脚にかけられている布団をパンパンとたたいた。
「いいか、身体はこんなになってしまったが、頭はまだまだしっかり働いておる。『吐蕃の馬重英』と聞いて、すぐにそなただとわかった。吐蕃王に一族を誅され、身ひとつにて故国から逃れてきたなどと申しておったこともな。あれは嘘であったか」
「はい」
「夜中にこっそりとわたしの書物を盗み読みしていても、哀れに思って見逃してやっていたのに、とんだネズミだ」
「ご存知にございましたか」
「わたしの目を節穴と侮って、わが家中に潜り込んだのだな」
「決してそのようなことではございません」
ルコンは身が縮む思いがしたが、苗晋卿は言葉と裏腹に、寬厚廉謹との世評を裏切らぬ穏やかな笑みを見せていた。
「まあ、このくらいにしてやるか。小言を言うために呼だのではない。もっと近くで顔を見せよ」
ルコンがソロソロと近づくと、苗晋卿はじっとルコンを見つめた。
「おお、すっかりおやじになってしまったが、確かにあの洟垂れ小僧だ。かつての家僕が二十万の兵を率いる総大将とは、わたしも鼻が高いな。まあ、そんな自慢をしたら首が飛ぶだろうが。おまえもうっかり漏らすなよ」
「心得ております」
「よしよし。さて、久しぶりの京師はどうだ」
「いささか失望いたしました。街にも、ひとにも」
「そうであろう。そなたがいたときが、京師の一番よいときだったのだ」
開元二十四年。中書舎人となったばかりの苗晋卿の館に十八才のルコンが雑役夫として入り込んだころ、唐は、玄宗の治世の絶頂期だった。
英明な君主の治める大帝国の京師。
花咲き乱れ、水は澄み、夜は万灯に浮かび上がる大道を着飾った人々がさんざめく。この世のどこよりも華やかで美しく、自信に満ちた平和な都。
ルコンが手に入れたいと思っていたのは、そんな長安だった。
なのに、いまの京師は、街もひとのこころも荒れ果てていた。
「こうして日がな一日寝てばかりいるので退屈でならん。すこし、おまえの話をしてくれ。なに、珍しい話が聞きたいだけだ。他の者には言わないよ」
「いまのわたしには隠し事などございませんから、どなたに話されても困ることはありません」
「では、なぜこたびも馬重英など名乗っておる。まさか、こうしてわたしが招くと思ったからではなかろう」
「侍中さまのお耳に入れば……と思ったのもひとつです」
「ふん。その割には挨拶に来なかったではないか。いまさらお愛想をいっても遅いぞ」
「申し訳ございません。いままで侍中さまを騙していた後ろめたさに、お会いする勇気が出なかったのでございます」
「まあ、そういうことにしておいてやろう。ひとつ、ということは他にも理由があるのだろう」
「実は、一年前、わたしは官職をはく奪され、流刑を受けました。年の始めにお許しがあり、こうして軍を率いることとなりましたが、まだ官職の復帰を見ていないのです。なので家名を名乗ることを遠慮し、昔の名を名乗ることをツェンポにお許しいただきました」
「流刑とは穏やかではない。何をしでかした」
「親友であった摂政の暴政を止めることが出来ませんでした」
「親友か」
「はい物心ついたころからともに兄弟のように育ちました。彼のいない宮廷に戻るつもりはなかったので、今年の始めまでわたしは流刑地で死のうと思っておりました」
「ああ、去年の会盟を仕組んだのは、その摂政だな」
苗晋卿は得心がいった、という顔をした。
「そのときから、今日のことを考えていたのか。しかも親友が存分に働ける舞台のお膳だてでもあったわけだ。まったくしてやられたわい」
「え……」
ルコンは目を瞬いた。
これからは少しずつ兵を撤退させる。大明宮で皇帝の生活を満喫している李承宏や官吏たちに怪しまれぬよう、ルコンとゲルシクは毎日出仕し、捕虜たちが十分離れた頃を見計らって最後に去る予定だ。李承宏は京師を去るギリギリのときに騙して京師から連れ出し、攫って行こうとルコンは決めていた。
とにかく捕虜たちを無事送り出したことにホッとしながら宿としている館に戻った。帰りを待っていたのだろう。門を入るや否や、家来が駆け寄って紙片を差し出した。
「お留守の間に唐人がやって来て、殿にこれをお渡しするよう申し付かりました」
「唐人が?」
「手紙の主の名も聞いたのですが、なにぶん、唐語が苦手で、よく聞き取れませんでした。申し訳ございません」
頭をかく家来を下がらせ、書状を開いてみるとたった二行の文章が目に飛び込んで来た。
お会いしたいが足を患いおうかがいすることができない。
大変恐縮であるがお時間が作れたらご足労願いたい。
署名はない。が、見覚えのある墨蹟に、家来が聞き逃した名は苗晋卿であることをルコンは知った。
これから撤退するまでは特にやるべきことはないから、時間を作るのは造作もなかった。にもかかわらず、ルコンは苗晋卿の館に足を向けるのをためらっていた。なんども紙片を読み返し、さんざん迷った末、館を訪ねたのは、その二日後だった。どこぞの節度かと思わせるような立派な風貌の家僕に導かれ、一室に足を踏み入れる。
寝台に半身を起こして迎えた苗晋卿に、ルコンは戸口で拝礼した。
「ようやっと来たな、茶汲み小僧め。あんなならず者どもをよこして己は顔を見せぬとは、どうゆう了見だ」
「わたしのことなど覚えていらっしゃらないと思いました」
「なるほど、わたしがすっかり耄碌しているだろうと思って挨拶にも来なかったのか」
「とんでもございません」
苗晋卿は脚にかけられている布団をパンパンとたたいた。
「いいか、身体はこんなになってしまったが、頭はまだまだしっかり働いておる。『吐蕃の馬重英』と聞いて、すぐにそなただとわかった。吐蕃王に一族を誅され、身ひとつにて故国から逃れてきたなどと申しておったこともな。あれは嘘であったか」
「はい」
「夜中にこっそりとわたしの書物を盗み読みしていても、哀れに思って見逃してやっていたのに、とんだネズミだ」
「ご存知にございましたか」
「わたしの目を節穴と侮って、わが家中に潜り込んだのだな」
「決してそのようなことではございません」
ルコンは身が縮む思いがしたが、苗晋卿は言葉と裏腹に、寬厚廉謹との世評を裏切らぬ穏やかな笑みを見せていた。
「まあ、このくらいにしてやるか。小言を言うために呼だのではない。もっと近くで顔を見せよ」
ルコンがソロソロと近づくと、苗晋卿はじっとルコンを見つめた。
「おお、すっかりおやじになってしまったが、確かにあの洟垂れ小僧だ。かつての家僕が二十万の兵を率いる総大将とは、わたしも鼻が高いな。まあ、そんな自慢をしたら首が飛ぶだろうが。おまえもうっかり漏らすなよ」
「心得ております」
「よしよし。さて、久しぶりの京師はどうだ」
「いささか失望いたしました。街にも、ひとにも」
「そうであろう。そなたがいたときが、京師の一番よいときだったのだ」
開元二十四年。中書舎人となったばかりの苗晋卿の館に十八才のルコンが雑役夫として入り込んだころ、唐は、玄宗の治世の絶頂期だった。
英明な君主の治める大帝国の京師。
花咲き乱れ、水は澄み、夜は万灯に浮かび上がる大道を着飾った人々がさんざめく。この世のどこよりも華やかで美しく、自信に満ちた平和な都。
ルコンが手に入れたいと思っていたのは、そんな長安だった。
なのに、いまの京師は、街もひとのこころも荒れ果てていた。
「こうして日がな一日寝てばかりいるので退屈でならん。すこし、おまえの話をしてくれ。なに、珍しい話が聞きたいだけだ。他の者には言わないよ」
「いまのわたしには隠し事などございませんから、どなたに話されても困ることはありません」
「では、なぜこたびも馬重英など名乗っておる。まさか、こうしてわたしが招くと思ったからではなかろう」
「侍中さまのお耳に入れば……と思ったのもひとつです」
「ふん。その割には挨拶に来なかったではないか。いまさらお愛想をいっても遅いぞ」
「申し訳ございません。いままで侍中さまを騙していた後ろめたさに、お会いする勇気が出なかったのでございます」
「まあ、そういうことにしておいてやろう。ひとつ、ということは他にも理由があるのだろう」
「実は、一年前、わたしは官職をはく奪され、流刑を受けました。年の始めにお許しがあり、こうして軍を率いることとなりましたが、まだ官職の復帰を見ていないのです。なので家名を名乗ることを遠慮し、昔の名を名乗ることをツェンポにお許しいただきました」
「流刑とは穏やかではない。何をしでかした」
「親友であった摂政の暴政を止めることが出来ませんでした」
「親友か」
「はい物心ついたころからともに兄弟のように育ちました。彼のいない宮廷に戻るつもりはなかったので、今年の始めまでわたしは流刑地で死のうと思っておりました」
「ああ、去年の会盟を仕組んだのは、その摂政だな」
苗晋卿は得心がいった、という顔をした。
「そのときから、今日のことを考えていたのか。しかも親友が存分に働ける舞台のお膳だてでもあったわけだ。まったくしてやられたわい」
「え……」
ルコンは目を瞬いた。
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