29 / 49
第二章
郭子儀 その1
しおりを挟む「ふたてに分かれていた吐蕃軍は盩厔で合流したようです。総大将は馬重英。涇州を落とし、奉天でわれらと当たるのを避け、武功、盩厔と移動したのはこの将軍の率いる軍です」
咸陽に陣を敷く郭子儀は、ヒゲをかみながら報告を聞いていた。ここにいるのはたった二十騎の部下だけ。しかもほとんどは、普段中書省に勤める文官だった。
帝に報告が入ったとき、吐蕃はすでに邠州を落としていた。驚いた帝は郭子儀を副元帥に任命して咸陽を守るよう命じたが、たまたま京師に滞在していただけの郭子儀は、兵を連れていなかったのだ。
「もう一方の、大震関を破った将軍の名は?」
「……わかりません」
「わかりません?」
「旗が、吐蕃の文字にて読めません、とのことです」
「そんな言い訳があるか!」
郭子儀は苛立っていた。
吐蕃とは何十年も国境で争っている。主だった将軍の名と旗印は辺境の守備をしている者なら把握しているはずだ。
知らせる余裕もなく殺されたか、捕らえられたか、もしくは、敵を見る前に逃げ出したか。
逃げ出した可能性のほうが高い、と郭子儀は思った。
ひとりの将校が、おそるおそるといったように口を挟む。
「昨年末、武寧軍を破った東面節度使尚結息ではありませんか?」
「確かか?」
「……いえ。しかしそう考えるのが妥当かと」
郭子儀はため息をつく。
「なら、なぜ馬重英などという者が総大将になっている。正体がまったくわからん。吐蕃の将らしくない名ではないか」
「まことに吐蕃人らしくない名前ですなぁ。唐人でしょうか?」
「東面節度使を差し置いて、無名の唐人にこれだけの軍の総大将を任せるなどということがあるか」
「ならば、吐蕃人なんでしょうなぁ」
不毛な会話だ。しかし情報が少なく、ほかに話すこともないのだ。
蕃夷人。蕃夷国。
そうやって侮ってきた結果がこれだ。
前年の、会盟の場面が、頭をよぎった。
李輔国の指示に従って、毎年絹五万匹と地図を届けろという無茶な要求を素直にのんだ後、吐蕃の作法により三匹の獣が屠られた。
「これでお互いの口から出た誓いの言葉は、唐の帝とわが賛普の祖先の霊に、しかと届けられました」
論泣蔵と名乗った吐蕃の宰相は、皮を剥がれ、バラバラになった四肢とはらわたを血に浸らせている生贄を指し示し、吐蕃人にしては色白の顔に穏やかな笑みを浮かべながら少しなまりのある唐語で言った。
「この誓いに背いた国は、この生贄のように切り裂かれ、血を流すことになります。くれぐれも、我らを蕃夷と軽んじてお破りになられませぬよう、ご忠告申しあげます」
明らかに、あの男は唐が約定を果たせぬことを知ったうえで予言した。しかし郭子儀は、いつものとおり辺境を犯す口実とするぐらいだろうと甘く考えていたのだ。
馬重英という男は十万の兵を率いながら、たかが二十騎の郭子儀を避けた。少しでも兵と時間を損ねないよう心掛けているのだろう。その証拠に、途中の城や村が力ずくで略奪されたようすがない。確実に、京師を目指すことだけに集中している。
すでに吐蕃は、あのときから京師を狙っていたのか。
過去のことを悔いても仕方がない。郭子儀は話を変えた。
「盩厔で、いくさがあったらしいな」
「はい。渭北行営兵馬使の呂将軍が二千騎で夜襲を仕掛け、五千ほど討ち取ったそうです。が、その後、司竹園の渡しで敗走しました」
「骨のある男が残っていたのだな」
一兵でも無駄にすまいと慎重に進む敵に数千の痛手を与えた呂日将の功績は大きく評価されるべきだ。
郭子儀は瞑目する。
しかし、いまのままでは彼の働きが帝の耳に届くことはない。それどころか、若き将軍の台頭は宦官たちの疑心を招き、生えたばかりの芽はたちまち摘まれてしまうことだろう。
そんな世の中が正しいわけがない。
彼のような男が報われる世を作るためにも、郭子儀はここで死ぬわけにはいかなかった。
副将の中書舎人王延昌を呼ぶ。
「もう一度、京師に援軍の要請を。敵は明日にも便橋に達する。ここを破られたらあとはない、と奏上するのだ」
「はっ」
王延昌は即座に馬に飛び乗って去った。
相手は二十万だ。たった二十騎で戦うわけにはいかない。しかし、援軍が来ればいまからでも手の打ちようはある。とりあえず、二万。いや、一万でもいい。
床几に腰掛けたまま、郭子儀は王延昌の帰りを待った。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
商い幼女と猫侍
和紗かをる
歴史・時代
黒船来航から少しの時代。動物狂いでお家断絶になった侍、渡会正嗣と伊勢屋の次女ふたみはあるきっかけから協力して犬、猫、鶏と一緒になって世を守る。世直しドタバタ活劇。綺羅星の様な偉人ひしめく幕末の日本で、二人がひっそりと織り成す物語です。
摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。
民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
最後の風林火山
本広 昌
歴史・時代
武田軍天才軍師山本勘助の死後、息子の菅助が父の意思を継いで軍師になりたいと奔走する戦国合戦絵巻。
武田信玄と武田勝頼の下で、三方ヶ原合戦、高天神城攻略戦、長篠・設楽原合戦など、天下を揺さぶる大いくさで、徳川家康と織田信長と戦う。
しかし、そんな大敵の前に立ちはだかるのは、武田最強軍団のすべてを知る無双の副将、内藤昌秀だった。
どんな仇敵よりも存在感が大きいこの味方武将に対し、2代目山本菅助の、父親ゆずりの知略は発揮されるのか!?
歴史物語の正統(自称)でありながら、パロディと風刺が盛り込まれた作品です。
浮雲の譜
神尾 宥人
歴史・時代
時は天正。織田の侵攻によって落城した高遠城にて、武田家家臣・飯島善十郎は蔦と名乗る透波の手によって九死に一生を得る。主家を失って流浪の身となったふたりは、流れ着くように訪れた富山の城下で、ひょんなことから長瀬小太郎という若侍、そして尾上備前守氏綱という男と出会う。そして善十郎は氏綱の誘いにより、かの者の主家である飛州帰雲城主・内ヶ島兵庫頭氏理のもとに仕官することとする。
峻厳な山々に守られ、四代百二十年の歴史を築いてきた内ヶ島家。その元で善十郎は、若武者たちに槍を指南しながら、穏やかな日々を過ごす。しかしそんな辺境の小国にも、乱世の荒波はひたひたと忍び寄ってきていた……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる