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第二章

進軍 その3

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「これまでにない大規模な遠征だっていうから楽しみにしてたのに、まったく面白くない」
 背後で愚痴る副将のトンツェンを、ゲルシクは無視していた。誰も相づちを打つ者がいないのに、トンツェンの口は止まらない。いつものことだ。
「唐の将軍ってのは、どいつもこいつも腰抜だな。ちょっとは刃向かおうという骨のあるヤツはいねぇのかよ」
 ゲルシクはこころのうちでうなずいたが、やはり返答はしなかった。
 国境を発して北方の道をとるルコンと分かれ南下し、東に道を変えた。十万の兵を率いて進むゲルシクの前を塞ぐ唐軍はおらず、なんの反撃を受けることなく進んでいった。畿内の西を守る大震関でさえルコンから教えられた説得の言葉を通詞が伝えると、あっけなく開いた。
 そんな簡単にいくものだろうかと半信半疑だったゲルシクだが、想像以上の手応えのなさに拍子抜けしていた。若いトンツェンが退屈するのも無理はない。
「いちどぐらい事前の説得なしに、不意打ちでそこらの城か村を襲ってみませんか?」
 とうとうトンツェンはゲルシクの隣に馬を寄せて提案し始める。ゲルシクは眉をあげた。
「バカを言うな。ルコンどのは出来るだけ説得と数の脅しで敵を追い払い、いくさは避けて兵力を温存しろと命じられたのだ」
「らしくありませんねぇ。この隊の大将はゲルシクどのじゃないですか。いちど兵を任されたからには、その現場で判断するべきでしょう。どうして遠くにいるルコンどののご命令に服さなきゃいけないんです?」
「よいか。こたびのいくさはこれまでのような局地的な小競り合いではない。間違いなくツェンポのご希望を叶えるためには無事に長安に到着する必要があるのだ。おまえのわがままに付き合って危険を冒すわけにはいかん」
「じゃあ、いったい何のために精鋭騎馬隊なんか作ったんです?」
 トンツェンはゲルシクの背後を進む騎馬隊を顎で示す。千の騎馬隊もルコンとゲルシクで五百騎ずつ分けて帯同させていた。
「万が一のためだよ。それに帰りはすんなりとは行かぬとおっしゃっていた。退くとなれば唐軍も攻めてくるだろうとな」
「ふーん。行きはこのまま散歩してりゃいいってことですね」
「おいおい、油断するなよ。どこに伏兵がいるかわからないのだからな。しっかり物見を放ち警戒しろ」
「そんなのやってますよ。当たり前じゃないですか」
 トンツェンはあくびをした。
「しかしみんな逃げだした後の略奪っていうのもつまらないものですね。少しは意地を見せてくれる兵がいないかな」
「戦闘を避けろというのだから、兵が残っていたら略奪もダメだ」
「ゲッ、わかりましたよ。まあおかげで武器や工具が壊れることもないし、食料もシャン・ゲルツェンが豊富に届けてくれるから無理する必要もないんだけど。アイツよくやってますね。どうせお飾り将軍だろうと思ってたけど、意外です」
 ゲルシクはうなる。敵軍の手応えのなさ以上に、ゲルシクのこころに引っかかっているのは、ラナンの存在だった。
 ふたてに分かれるのだから、ルコンの方に行けばいいものを、わざわざあちらを兄のティ・スムジェに任せ、自らゲルシクの背後を担当することを決定したという。なにを考えているのか。
「ふん。一族に経験のある尚論が多くいるからな」
「でもニャムサンが言ってましたけど、あいつが自分で一族を招集して、自分で人事を決めたそうですよ。軍備もアイツが主導して準備したんだって。ずいぶんと成長したって喜んでました」
「ふうむ。しかしいざ戦闘となったらどうかな。儂はまだ信用してないよ」
 ニャムサンがラナンを褒めるのが気にくわない。ゲルシクが不機嫌になったことに気づかぬように、トンツェンは話し続けていた。
「まあ、京師では暴れていいんでしょ? 楽しみだなぁ。やっぱり京師ってところには財宝がいっぱいあるんでしょうねぇ。それに女も。ゲルシクどのは唐の女と西域の女、どちらがお好みですか?」
 ニヤけるトンツェンに、もうゲルシクは返事をしなかった。
 それからも行く手を阻む敵が現れることなく、ゲルシクの軍は順調に長安を目指して進んだ。あと一日ほどで渭水の渡が見えるだろうというところまで到着したとき、ルコンの伝令チャタがやってきた。
「奉天に郭子儀が陣を敷いている。念のためそれを避けて南下し合流するので、シャン・ゲルシクは渭水の手前、盩厔ちゅうちつでお待ちくださいとのことです」
「チェッ、郭子儀の野郎、そっちにいたのか」
 いくさがしたくてしようがないトンツェンは悔しそうに吐き捨てる。ゲルシクは安堵した。目の前に名の知れた唐将が現れたら、トンツェンは命令を無視して突撃しかねない。チャタに尋ねる。
「その盩厔まではあとどれくらいだ」
「半日というところです。野営の準備をするにはちょうどよい時間でしょう。京師も近いのでこちらでも待ち構えている唐軍がいるかもしれません。くれぐれもご油断召されぬようとの殿からの伝言です」
 チャタの言ったとおり、日が沈まぬうちにゲルシク軍の本隊は盩厔に到着した。十万の兵ともなると、すべてが集合するまでに時間がかかる。すでに到着している先鋒の兵たちは、思い思いのところに野営の準備を始めていた。ルコンの忠告を思い出したゲルシクは、夜間の見張りをいつも以上に厳重するよう命じた。
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