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最終章
未完の推理
しおりを挟むそれは戦中の校舎における雨と喧騒より少し前──。
「それで新平さん、この今村康介という前髪で目を隠した男、彼に対して何か違和感は覚えませんでしたか?」
永遠の夜の片隅。
「たとえば言動の節々に自己否定の感があったとか。視線がここではない何処か遠くに向けられていたとか。自分の殻に閉じこもっているようで、その癖よく人を観察し、陰ながらに他人を支えるような場面があったとか」
校舎は変わらぬ静寂に沈んでいた。
「何でもいいんです、この今村康介という貴方の同級生に対して、何か不審は抱きませんでしたか?」
荻野新平の呼吸は深かった。
黒色のリボルバーを片手に下ろした彼の歩行に迷いはない。フッと影を置き去りにするような速度で、されど急ぎ足というわけではない。闇夜に獲物を探す肉食獣のように荒々しく、巧妙に、静かだった。
「では新平さん、大杉田大吉というこの痩せ気味の彼、この男に対して思うところはありませんでしたか?」
清水狂介の呼吸に変わりはない。
紅色の卒業アルバムを片手に上げた彼の視線は定まらない。キョロキョロと見えない星の影でも探すような、されど惑っているというわけではない。読経に沈む僧侶のように淡々と、旺盛に、澱みなかった。
「たとえば貴方のご友人である白崎英治さんに対して妙に馴れ馴れしいところがあったとか。貴方のご友人である大宮真智子さんに対して同級生以上の視線を向けていたとか。たとえば新平さん、貴方に対して何やら接触を避けているような節があったとか」
戦後すぐの校舎であった。
廊下の窓は大半が破損し、黒い土埃を被っている。栗の皮のように焦げた校舎は荒れ果て、窓枠の端に尖ったガラスの先端のみ、陰惨とは程遠い夜空の満月の黄金色を薄く反射させている。木造の廊下は踏み場もないほどで、それが学舎であるかと問われれば首を傾げるより他なく、ただ、人けのない夜の教室に散らばった机や椅子、黒板に残る落書きに、かつての生徒たちの活気が寂しげに残されていた。
新平の歩みに音はなかった。視線を下げずとも足の先にまで神経が行き届いているのか、ガラスの破片を踏み砕くことはなく、また木板で覆われた廊下が軋むこともない。その呼吸までもが静かで、紺の衣服の擦れを夜に溶け込ませているような、そんな男だった。
なのに彼の周囲は先ほどから騒々しい。
ガチャリガチャリとガラスの破片の踏み砕かれる音が絶え間なく、ドスンドスンと校舎は今にも踏み抜かれてしまいそうで、ミシリミシリと五月蝿い。
狂介は歩みは縦横無尽だった。校舎の荒廃具合を特に気にした様子はなく、しかし空襲後の校舎自体には興味があるようで、普段通り飄々とした調子で、新平の後を追ったり真横に並んだり追い抜いたり下がったりと落ち着きがない。右腕に彫られた髑髏のタトゥーのみ静かな、そんな男だった。
「ならばこの如何にも生真面目そうな葛谷宏という男はどうでしょう。彼との間に何か印象深いエピソードは……」
「黙れ!」
新平は怒りの裏拳を放った。
すると狂介の体が綿毛のように真後ろに吹っ飛ぶ。
狂介の質問は先ほどから一向に止まる気配がなかった。いったい何処から持ってきたのか、開いた卒業アルバムを離そうとしない。何でも本物の四人目の王子とやらを探しているのだという。彼の親友である白崎英治が嵌められていた可能性があると、初めは多少興味を持った新平だったが、二、三、質問に答えたが最後、そこから地獄の閻魔の取り調べかとも思えるような質問の連鎖が始まってしまい、いい加減うんざりさせられていた。もう同じアルバムを何百周したであろうか。すでに表紙はボロボロである。もちろんそれが彼の歩行に影響を及ぼすようなことはなかったが、短気な彼の我慢の限界などはもうとっくに臨界点を超えていた。
「ほう。やはりこの葛谷宏という男との間に何か因縁が? もしや彼と大宮真智子との間にはこっそりと花言葉を囁き合うような並々ならぬ関係が? 白崎英治と彼との間には竹馬で遊び呆けたような古き懐かしき友としての関係が? もしや彼と貴方の間には水浸しの犬と油まみれの猿のような決して相容れぬ関係が?」
さらに煩わしいことに、この狂介という男、日向の雑草のように安易には倒れなかった。攻撃自体が当たらなかった小野寺文久の場合とは違う。先ほどの裏拳にも確かな手応えがあった。にも関わらず、ものの数秒もしないうちに、こうしてまた真後ろか真横か真ん前に立ち、質問を繰り返し始めるのである。いっそ脳天を撃ち抜いてやろうか──そうスミス&ウェッソンM29の銃口を上げそうになったのも一度や二度ではない。ただ、流石に怒りに任せて銃弾を放つなどはあり得ず、相手にしてやること自体が馬鹿馬鹿しい。そもそも彼は質問を繰り返しているのみであり、そこに邪心はなく、まさに子供のようであった。
それでも鬱陶しいものは鬱陶しいのである。
「黙れと言ってるんだ!」
また裏拳を放つ。
卒業アルバムは貪りながらも狂介は学習しているようで、怒りの鉄拳の届かぬ距離にヒョイッと身を交わしていた。だが、相手は荻野新平である。初手の裏拳は避けれども、二の手で放たれた左のハイキックは卒業アルバムを片手に避けられるようなものではない。顔面に強烈な蹴りを喰らった狂介はまた突風になびく綿毛のように夜の校舎を転がされてしまった。それでもすぐに立ち上がる男。まさに悪夢のような野郎だと、新平は舌を打ち鳴らした。
二人の前には延々と夜の校舎が続いていた。
空襲で焼け残ったばかりのそこは廃墟のようで、割れた窓ガラスに反射するものはなく、黒い灰と砂埃に全体の色が沈んでいる。まさに無といった表現が相応しい、そんな有り様だった。それでも歩みを進めるごとにほんの僅かずつ校舎が変化していくのが分かった。どんよりと暗い廊下に微かな煙の臭気が漂い、壊された窓ガラスの先端がさらに鋭利に、水気のなかった校舎がミシミシと声を上げ始める。
新平は拳銃を腰のホルスターに仕舞った。このまま進み続けた結果、いったいどんな状況に出くわすか、おおよその検討が付いたのだ。その場合、拳銃は不要だろうと考えた。むしろ身軽な状態で、決して振り返ることなく、いち早く空襲の惨劇を駆け抜けるのが吉であろうと、そう考えた。新平の体から無駄な力が抜けていく。獲物を前にした獣のように集中力が極限にまで研ぎ澄まされていく──。
「待て」
そう声を上げたのは狂介だった。
気が付けば、新平はまた、リボルバーを正面に構えていた。流れるような動作で抜き去られた銃身が仄暗い夜に煌めく。突然、正面に人影が現れたのだ。新平は躊躇なくスミス&ウェッソンM29の引き金に指を当てた。
その猛獣のような視線、新平の構える銃口の先──。
薄れゆく雲間から月の光が舞い降りる。
それが心霊学会幹部の一人である大野木詩織の妹、大野木紗夜で分かると、新平は当惑を隠せないように銃口を下げた。
「お前……何故、お前がここに……」
「彼女は五人目のヤナギの霊だ」
新平の目が驚愕に見開かれた。
窓際の立つ人形のように顔の整った少女。白魚のような指の先。この世の苦悩を知り尽くしたような微笑み。
無意識に、その寂しげな表情の何処かに、吉田真智子の面影を探してしまう。そうして、彼はその瞳の奥底に、かつての親友の暗い影を見た。
再び銃口が前に向けられる。新平はゾッと這い上がってくる罪悪感に思わず呼吸を乱した。
「時間がないよ」
そう少女は呟いた。
たった一人の舞台からそっと下ろされたような静かな吐息だった。
「永遠にあるのでは」
狂介が首を傾げる。その右手のアルバムはいつの間にか閉じられている。
「いいや、お前の時間の話か」
そこで狂介は彼女の肌の異様な白さに気が付いた。夜の雲間が完全に開いたのである。月明かりの下に晒された紗夜の体はうっすらと透けていた。
「そう、私の時間。そして、アナタたちの時間。この校舎の時間」
「ヤナギの木に何かあったのか」
「うん、とうとうね、切り倒されちゃった」
「そうか」
「やっと終わりを迎えられたの」
「いいや、それでもまだ生きているだろう」
狂介は即答した。彼は何ら変わりない夜の静寂にジッと耳を澄ませた。
「真智子さん……なのか?」
新平はボソリと声を落とした。彼女の雪のように白い右の頬を見つめ、ジンジンと痛み始めた右の拳に握り締める。彼女の顔を無情にも殴り付けたあの日の自分を殴り付けてやりたかった。彼女の瞳に銃口を向けたいつかの自分に銃口を向けたかった。そんな罪悪感に押し潰されてしまいそうだった。それでも新平は拳銃を下げなかった。彼は今やその本能でヤナギの霊を警戒していた。
「大野木紗夜だよ。……新平さん、ごめんなさい、貴方の事を忘れていたのは私なの、だから何も気にしないでね」
紗夜はそう言って、ニッと口を横に開いた。その笑顔にも吉田真智子の面影があった。
「戦中への近道は知っているか」
狂介は優先順位を考え、そう尋ねた。アルバムは取り敢えず腰のベルトに、ふむ、と腰に手を当てる。ブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーが雲の消えた夜空を見上げている。
「先ず過去を変えてしまおう。その為に戦中へ、そして吉田くんの身柄を確保せねば」
「何の話だ」
低い声が響いた。
途端に夜の空気が重くなる。
狂介は両手を上げると、猛獣の眼光をこちらに向ける新平に向かって、淡々と声を落とした。
「過去を変えるための条件がある。その条件に吉田くんが適合している」
「そもそも何故、過去を変える必要がある」
「指名手配犯となった吉田くんを救うためだ」
その言葉に殺気が止んだ。深く息を吐いた新平はそれでも訝しげに長身の青年を睨み続けた。
「お前、まさか真智子さんの息子の友人か?」
「いいや、だが彼とは直接顔を合わせている、バイクにも乗せてやった、もはや知らぬ仲ではない」
「その条件とやらは何だ?」
「現世で死んでいることだ。現世との繋がりが断ち切られた魂のみの状態で、ヤナギの霊が出現する以前の学校、つまりは戦中、もしくは戦前の時代におけるこの校舎において何らかのアクションを加える。それが過去を変える条件だろうと俺は考えている」
「ならば俺でいい。俺も既に死んでいる」
そう言うが否や、新平は腰のホルスターに拳銃を仕舞った。そうして紗夜を振り返る。
「真智子さん、いいや、紗夜さん」
「紗夜でいいよ」
「戦中への道を教えてくれ」
「何も考えずにこの廊下を真っ直ぐ、階段を駆け上がって」
紗夜は夜に霞んだ指の先を廊下の奥に向けた。
「新平さん、気を付けてね」
新平は頷き、振り返らず走り出した。無心に、音もなく、獣のように夜の校舎を駆け抜けていく。細かなガラスの破片が舞うと、彼に置いてかれまいとする影がキラキラと、無数に反射する月光の間をすり抜けていった。
「吉田くんこそが過去改変の鍵を握る男だと睨んでいるんだが」
新平は目を細めた。真横に走り並ぼうとする長身の少年の顔面に強烈な裏拳を放つ。
「戻れ」
「俺も用がある」
「殺すぞ」
「それは困る。何故なら俺は──」
ドッ──と校舎が真上に動いた。
まさに二階にたどり着いたその時である。
凄まじい爆撃音が夜の校舎を上下左右に揺り動かした。
ジャージャーと小石の傾れるような不気味な音が響いてくる。バババ、ババババ、と風を切るプロペラの声が爆撃の合間を縫ってくる。──と、茜色の大炎が大口を開けて校舎を呑み込んだ。
新平は速度を落とさなかった。熱風の吹き荒れる廊下を構わず駆け抜けていく。破裂した窓ガラスの破片が彼の頬に迫った。だが、擦りもしない。炎も、熱も、爆風も、爆音も、彼の後を付いて走る影にすら触れられなかった。
「いったい誰の仕業だろうか」
ほんの僅かな喧騒が終わる。ごうごうとした空襲の校舎を抜けると、途端に、漆黒の静寂に夜が潤った。
「なぁ新平さん」
飄々とした男の声が夜に広がる。火傷と切り傷と黒い灰に全身を汚した狂介はしれっと、新平の影を踏むようにして、彼の真横で腕を組んでいた。
「誰が何をしたのだろう?」
新平はスミス&ウェッソンM29を斜め下に構えた。もはや隣の男の事など気にしていられない、と。
戦中の校舎は穏やかだった。
だが、明らかに異質な気配が紛れている。
その視線の先に不穏な影を捉えると、新平はスッと、リボルバーの銃口を正面に向けた。
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