王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

客席

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 講堂の壁には国旗が掛かっていた。
 黄色がかった赤い円。日の丸が国旗の中心から少しズレた位置に浮かんでいる。それは地平線に揺らぐ真夏の太陽のようで、そこから放射線状に白を潰して伸びる赤は毒々しいと感じるほどに派手やかだった。
 睦月花子はポリポリと右手の中指で顎をかいた。
 この素朴で、寂しく、錆びたような美しさを持つ講堂と、その派手な国旗がどうにも不釣り合いに感じた。それは何も旭日旗という古い時代の国旗を忌んでいるからというわけではなかった。むしろ彼女はその堂々とした派手さをイカしているとさえ思っていた。だが、あえてここが戦中であると分かった上で、その毒虫の警戒色にも似た色彩を眺めていると、何やら浮いているような、モヤモヤとした違和感を覚えるのだった。それは彼女がすでに歴史を知っているからだろうか。
 まぁ、とりあえず引き剥がしておこうかと、講堂の奥にある低い舞台の壁に掲げられた国旗に向かって、花子はのそりと足を動かした。
「ぎゃあああ!」
 と、凄まじい悲鳴が講堂に響き渡った。
 長閑な昼のひと時を横に叩き飛ばすような甲高い声である。
「て、秀吉じゃないのよ」
 外へと繋がる渡り廊下からは絶えず涼やかな風が吹き込んでいた。そんな開け放たれた扉の前で小田信長と宮田風花が肩を抱き寄せながら固まっていた。さらに二人の背後には額に包帯を巻いた長谷部幸平の姿が見える。幸平はといえば何やら澄ました顔をしていた。
「それと生徒会の女と、あとアンタは新九郎のお友達だったかしら?」
「へ、へぁ……? ぶ、部長、なんですか……?」
「え、え……? お、お化けじゃなくって、は、花子さん……?」
「だーれがお化けよ、コラ」
 どうやら花子の風体に恐怖していたようである。花子はやれやれと肩を落とした。その左腕は肘から下が焼失してしまっており、両足は炭のように黒く焦げ、右肩の肉は抉れ、顔の左半分は焼け爛れている。そんな満身創痍の花子の隣では、三原麗奈が無表情に、その空色の瞳を半目にしていた。
「てかアンタら、こんな所で何をやってんの?」
「は、花子さん、と……えっと、そ、それと、み、三原さん……?」
「そうよ。で、アンタらは何やってたのよ?」
「そ、その体……だ、大丈夫じゃないよね……?」
「何ともないわ。んな事よりもアンタらはいったい何をやってたわけ?」
「そ、それに、そ、その三原さんの目、カ、カラコン……? ど、どど、どうして二人がここに……?」
「先ずはこちらの質問に答えなさいっての! アンタらはいったい何処で何をして!」
「部長ー!」
 わっと安堵の表情をした信長が花子の元に駆け寄っていった。そんな彼を風花が慌てて止めようとする。それは誰がどう見てもボロボロの花子の体を心配してのことだった。だが、杞憂のようであり、片腕で軽く信長の体を受け止めた花子はヤンチャな子犬でもあやすように、そのおかっぱ頭をヨシヨシと撫で始めた。
「たく、ほんっと世話の焼ける奴ね」
 戦中の講堂には煤けたような匂いが漂っていた。それでも舞い込む風は爽やかで、柔らかな陽にポカポカと浮かび上がるようである。
 信長はいつまでもメソメソと泣き止まず、会話が成り立たなかった。それは風花も同様で、彼女はどうにも怯え切っている様子であり、それが重度の火傷を負いつつも平然とした花子に対してか、それとも瞳を空色に冷え切らせた麗奈に対してかは分からなかったが、ともかく何を尋ねても答えがモゴモゴとして話し合いにならない。仕方なしに花子は、二人の背後に立つ優男に視線を送った。額に包帯を巻いた長谷部幸平は先ほどから一人「うんうん」と気取った態度で、腕を組むようにして折った左腕に右腕の肘を立て、そうして人差し指を顎に添えながら、片方の眉をクイッと持ち上げていた。
「ねぇちょっと、アンタらさ」
「どうやら魔女が現れたようだ」
「はあん?」
「いいや、君たちの探し求めている人ではない」
「いや、アンタらが何してんのかって聞いてんだけど?」
「そうだね、言ってみれば戦下の魔女か」
「だからアンタらがここで何してんのかって聞いてんのよ!」
「この夜において魔女の出現は必然なんだ」
 幸平はふぅっと大きくため息をつくと、前に倒れ込むようにして額に手を当て、暫しの沈黙の後、そっと目を見開いた。
「ただ、彼の場合はこの夜との繋がりが極端に希薄で間接的で、そういった点では五人目の魔女と通ずるところがあるのかもしれない。けれども、その積極性においては三人目の魔女とも似通っているし、やはり戦下の魔女と呼ばれるだけあって、その心技体は四人目を思わせるところがある。ああ、うん、そうだね、言いたいことはよく分かる。確かに僕たちからすればここは遥か昔の校舎だ。どうして戦中における一人目の魔女に他の魔女の特徴が見られるのかって疑問に思うのは当然のことだよね。でもね、魔女という存在は本来そういうものなんだ。つまり彼らは王子や姫のような人の意思によって導かれた曖昧な存在ではなく、必然の名の下に生まれた影のようなもので……。ああ、この言い方だと語弊が生まれるかもしれないけれど、まぁつまりは僕たちと同じような部外者で、いわばアリーナに並んだ観客のようなもので、戦下の魔女である彼は一人目の魔女でありながら最も新しい魔女であるといえるわけなのさ。いったい何故そんな事態に陥ってしまったのかといえば、それはこの夜の根幹であるシダレヤナギが関係してて……」
「ねぇ、そろそろ動かない?」
 花子はゲンナリと肩を落とすと、麗奈を振り返った。
 だが、麗奈はふるふるとも首を動かさず、ジッと空色の瞳を細めたままである。
「全ては物語の中にある。それは子供の創作ゆえ暁闇に目を凝らす道のような曖昧模糊とした形に呑まれている。けれども、その根幹にある思想は大衆を意識したいわゆるプロ思考の創作物なんかよりもずっと強烈なものがあって、だからこそ頻繁に客席の様子が映し出されたりするわけだけれども、それもこれもこの安直とは言い難い物語の醍醐味だったりするわけで、ほら、全てが人の計算の上で成り立ったものほど陳腐なものはないって考えたことはない? そこにたび重なる不自然と大数の法則によって導かれる自然の調和によりまるで神が創り出した世界が如き美しい物語が生まれてくるわけであって、まぁ重要なのは様々な苦難の続く王子と姫の逃避行の先にある永遠の愛と苦悩の本当の意味を知るという……」
「コラッ!」
「待って」
 やっと麗奈のほっそりとした首元がふるふると震えた。
「と、言うとそれはちょっとおかしいんじゃないかって首を傾げてしまうかもしれない。だって永遠の静寂こそがこの夜の物語であるというのならばこの日の温かさは何なのかってね。でもそれは何もおかしいことではなくて、何故ならこの戦中こそが物語の創られた根本に当たるわけで、つまりここは正確には夜の校舎ではなく、言ってみれば夜の校舎が書かれている原稿用紙の上なんだ。僕たちはまさにこれから生まれるであろう物語の上に新たな物語を書き足しているような状態にあってね、あ、だからといって簡単に物語を書き換えることは出来ないよ? だって僕たちは舞台の上にいないのだから。僕たちの魂は広い客席とも云うべき違う時代にあるわけで、それはいわば光の当たらない影であって、だから僕たちこそが夢のような存在で……」
「いっつまでブラブラしてるつもりよ、このドアホ! 私もうほとほと飽きちゃったんだけど!」
「もう少しだけ」
「もう少しだけってア!」
「つまり物語を書き換えたいというのであれば青い海を縦に泳がなければならないんだ」
 ニョキリと幸平の瞳が花子の胸の下に現れる。
 軽く首の骨を鳴らした花子の右手が鋭利な刃物のように尖った。
「うんうん、うんうん。そうだよね。たとえ魔女であっても青い海を縦に泳ぐことなんか不可能だろうって言いたいんだよね。でもそれがこの校舎においては可能となってしまうんだ。何故ならここは現世と常世の狭間にあたる神域であって、言ってみれば青い海に突如として現れたバベルのとっ……」
 いったいその空色の瞳の先に何が見えているのか。麗奈はただそっと宙に視線を漂わせるのみである。窺い知ることの出来ない花子はただイライラと足を揺するのみ。二人の足元では、花子の抜き手をモロに食らった幸平がだらりと体を伸ばしていた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
 暫くして、麗奈が唐突に首を傾げた。
 てっきり自分への質問かと振り返った花子はギョッとして右目を見開いた。完全に白目を剥いていたはずの幸平がまたしたり顔で平然と腰に手を当てていたのだ。
「青い花の行方かい?」
「魔女が現れたって話」
「ああ、現れたという言い方には語弊があったね。彼の考える僕たちが紛うことなき魑魅魍魎の類であるのと同じように、彼が魔女であるか否かは、あるいは僕たちの認識次第なんだ」
「それで」
「ようは我々こそが部外者であり」
「つまり」
「つまり未来を変えるのはこの時代を生きる彼らだって話さ」
 麗奈の頬が微かに青白んだ。それは些細な変化であり、すぐに冷たい光を瞳に戻した麗奈はそれっきり押し黙ってしまった。
「たく、さっきから何なのよ。魔女だの王子だのって、アンタは姫宮玲華かっての。てーか、その彼って誰のことよ?」
「彼はこの時代の魔女さ」
「あー、それってまさか戦中の生徒?」
「いいや、彼は満州国軍の中尉だった」
「満州国?」
「会いたいかい?」
 ザーザーと小石が屋根に傾れるような音を耳にする。そうして凄まじい爆発音と共に大地が揺れる。信長と風花の絶叫が悲惨な轟音と重なった。比べて花子たち三人は平然としたままである。
「騒がしくなってきたね」
 幸平はそう言って、麗奈の白い手に手を重ねた。サッと冷たい殺気が空色の瞳を走る。
「じゃあ魔女に会いに行こうか」
 が、麗奈はさして抵抗することなく彼の後に続いた。
 花子はといえば如何にも気怠げであり、振り場を失った鉄拳を宙ぶらりんに、ハァとため息を吐くのも億劫そうである。
「たく……」
 爆発音が校舎を揺らめかせる。煙と炎に視界が狭まっていく。やがて崩壊する校舎にいつまでも留まっておくわけにはいかないのである。
 チッと舌打ちした花子はイライラと頭を掻くと、わーわーと腰にしがみついた風花と信長と共に、のしのしと二人の後に続いていった。


 来栖泰造は腰を低くした。
 無数の千本針が彼の眼前に迫っていた。薄暗い校舎の片隅。狭い廊下を舞うそれらは峻烈な冬の吹雪を思わせる。だが、来栖泰造は一切引く素振りを見せない。軍刀を抜き去ると同時に、地を這う獣のように前に飛び出し、舞い上がる白い布を撫で斬りに、左手で拳銃の引き金を引いた。夜闇と千本針の入り乱れる校舎。その一点。放たれた銃弾が吹雪の合間を縫うようにして、おかっぱ頭の少女の額を撃ち抜いた。そこは学校の講堂へと繋がる渡り廊下の前だった。血飛沫と共に山本千代子の小さな体が崩れ落ちると、千本針は撃ち抜かれた白鳥のように、バサリとその白い羽を廊下に広げた。
「に、にわかには」
 吉本慎介はゴクリと唾を飲み込んだ。
「信じられません……」
 慎介は軍需工場の士官だった。戦争の末期、とうに活気など忘れ去られた飯の席で、冷めた粥を啜りながらこの校舎の噂話を聞き、好奇心半分に職務を離れたのである。何でも長い黒髪の美しい女の霊が出るという。隣では同じく工場の指導者である太田貴一郎が呆然と立ち竦んでいた。
「ここはあの世ぜよ」
 花巻英樹はそう呟き、軍刀の先を白い布の束に立てた。ゼェゼェと荒い呼吸音が校舎の静寂を揺さぶる。今にもフラリと倒れてしまいそうなほどに顔色が悪かった。されど校舎の奥を睨む英樹の眼は異様にギラついていた。
「ワシらぁとうに死んどった」
 脂ぎった巻き髪が英樹の垢黒い額に垂れる。月の青い光に彼の頬は死人のようである。
「そうじゃ、死んどったんじゃ。あ、あん時じゃ、あん時に違いない。ありゃあ南方の島じゃった。日差しがいつもより赤うて赤うて……お、お天道様がずっと近かった。そ、そうじゃ……あん時じゃ……。ワシらぁ皆んな、あん時に死んどった……。のお、そうじゃったろ? あ、あ……あ、あっはっ、あ、あっはっは、あっはっはっはっ! ああっ、あん時じゃあ! あん島じゃあ! どうもおかしいと思うちょったがよ! やはりここはあの世に違いないぜよ!」
 英樹がそう高笑いを始めると、慎介と貴一郎は、死人の口の中を覗いてしまったような何ともいえぬ気味の悪さを感じ、背中の毛を立てた。そもそも二人はこの花巻英樹という男、南方攻略の折に更迭されてきた元陸軍軍曹を快く思っていなかった。いったい彼が南方で何を仕出かしたかまでは聞かされていなかったが、それでもそれ以上の罰を受けることはなく、こうして今も抜き身の刀を両手に、ダラダラと涎を垂らしているのである。
「ゆくぞ」
 泰造の軍刀が鞘に納まる。そんな彼と目が合うと、慎介と貴一郎は慌てて背筋を伸ばした。その深く被られた官帽の下の瞳が怖かった。一見すると真面目そうな、感情の見えにくい彼の表情が怖かった。泰造もまた外地から外地へ、戦場を渡り歩き、そうして内地へと更迭されてきた男だった。歴戦の軍人である彼はその戦場において敵ばかりでなく味方までもを斬り殺してきたという。人斬り中尉と陰で揶揄された男であった。
「し、しかし、この場は……」
 慎介は言葉を濁しながら、少女の死体があろう廊下の先に視線を落とした。そうしてギョッと痩せた頬を強張らせてしまう。少女の姿が跡形もなく消えて去っていたのだ。あたり一面に広がっていた白い布の束も消え、半月から降りる青い光の中、穏やかな静寂が校舎を流れていた。
「また明日じゃ」
 英樹の静かな声が夜の校舎をいっそう寒々とさせた。
「アヤツラは何度でも現れる。のお、おんしの云った通りじゃ」
 慎介は恐る恐る背後を振り返った。先ほどからずっと誰かに見られている気がしてならなかった。だが、長い廊下は夜闇に沈んでしまっており何も見えない。もうここには絶対に来るまいと、慎介はゴクリと唾を飲み込み、隣で立ちすくむ貴一郎の肩を強く押した。

 
 わっと勢いよく講堂に転がり込む。互いを押し合うように立ち上がった水口誠也と山田春雄は、暫しの間、言葉を失ってしまった。
「な……」
 やっと息を吐き出すと、春雄はキョロキョロと辺りを見渡した。
「な、なんだったんだ……?」
 講堂の造りは簡素で、肌寒く、見上げる位置に並んだ窓の向こうに曇り空が見えた。ほんのりとした焚き火の匂いが鼻に付く。秋の終わりといった様相である。静けさは無音というわけでなく、ただ穏やかな午後とひと時を思わせた。
「あ、あれは、いったい……? あ、あの音、あの子供、アイツらは何者だ……? さ、さっきから、チクショウ……! いったいここは何だってんだよ……!」
 黒く煤けた少女の霊。宙を漂う無数の白い布。日本刀を腰に下げた異様な男たち。校舎を木霊する銃声。それらの光景を思い出した春雄はブルリと体の芯を大きく震わせた。そうして恐怖心にも似た焦燥感に駆られながら、未だ呆然としたままの誠也の肩を強く揺すった。
「おい! どうなってんだ!」
 誠也はハッとして目を見開いた。講堂の正面に掛かった国旗を凝視すると、そこから真上に視線を泳がしていく。やっと春雄を振り返ると、意味もなく首を傾げ、ぎこちなく笑ってみせた。
「え、何これ……?」
「それを俺が聞いてるんだ!」
「はあ……?」
「さっきの奴らは誰だ? お前はあの幽霊を知ってるのか? そもそもいったいここは何処なんだ!」
 強い風が吹いた。建て付けの悪い校舎の窓がガタガタと震える。ヒューヒューと外から流れ込む冷気は絶え間ない。幾分か冷静になった誠也は、青白い顔をした青年を横目に、ふぅと白い息を吐いた。
「ここは学校だよ。たぶん、戦中の」
「はあ? 戦中って何だ? まさか俺たち夢でも見てんのか?」
「さぁて、どうだろう。ただ、ここが夢であろうとなかろうと、戦中の校舎だというのは確かだと思うよ。およそ七十年前の富士峰高校だね」
「い……いや、意味が分からないぞ? 何だって俺たちはそんなところに?」
「因みにさっきの黒い女の子、山本千代子っていうんだけど、あの子もこの学校の生徒だったらしい。空襲で死んで、そのままずっとこの学校を彷徨ってるんだって」
 ゾワリと春雄の全身が粟立った。話の半分以上が頭に入ってこなかったが、あの黒い少女が空襲で死んだという話のみ、鮮明な情景となって頭に浮かび上がった。今にもまたあの煤けた顔が視界の端に現れるのではないか。いや、今まさに何処からかこちらを覗いているのではあるまいか。春雄は恐怖のあまりダウン寸前となった。
「それとさっきの奴らだけど、あの格好、たぶんこの時代の兵隊なんだろうと思う。でも、兵隊がどうしてこんな寂れた学校を訪れたのかはわかんない。しかも拳銃を構えて……あれ、そういえば千代子ちゃん、いったい何処に……?」
 そう首を傾げ、誠也はすぐに頬を固くした。いつかの時、旧校舎の大広間で、若かりし小野寺文久の銃弾に脇腹を撃ち抜かれた彼女の姿を思い出したのだ。さらに荻野新平の手に掛けられ、動かぬ人形となった彼女の哀れな姿も脳裏を掠める。すでに幽霊である彼女はある意味でもはや死とは無縁の存在かもしれない。それでもやはり放っては置けないと、誠也は一目散に講堂を飛び出した。



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