王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

少年よ

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 ぽん、ぽん、よしうによしうにゆれた。
 あわい花、ゆれた、ゆれた、ゆれた。
 とん、とん、おしうにおしうにかれた。
 あかい糸、かれた、かれた、かれた。
 こん、こん──。

 
 水口誠也は怪訝そうにリコーダーを下ろした。
「さっきから変な歌聞こえない……?」
「リコーダーの音なら」
 山田春雄はさも迷惑そうに首を横に振った。ただ、その表情に血の気はない。
 戦中の何処か広々と寂しい教室であった。静寂の中をキョロキョロと二人の視線のみが忙しなく動いている。
 つい先ほど、三原麗奈から生徒会室の方に人形を置いてくるよう頼まれた彼らだった。それをする意味は分からなかったが、ともかく彼女を怒らせまいと、せっせ、と木造の校舎の西側に向かったのである。そうして戦中の薄暗く乾いた教室に人形を設置した彼らは、暫しの休息の後、慌てに慌ててしまった。なんと人形たちが消えてしまっていたのだ。このままでは一族郎党皆殺しの憂き目にあうだろう。ともかく人形を探さねば。そう躍起になった彼らはさらに校舎全体の人形が消えてしまっていることに気がついた。はて、これはいったいどういうわけか。魑魅魍魎の類だろうか。何にせよ事態は思わしくない。誠也と春雄は途方に暮れ、されど三原麗奈の行方を探す気にはなれず、取り敢えず空き教室に戻り、こうして空虚な時間を過ごしていたわけである。
「ねぇ、やっぱり聞こえるよ! 女の子の声だよ!」
「風だ! 風、風、風、風だ!」
 春雄は先ほどからずっと耳を塞いでいた。その姿はまさに両腕を上げ、相手の猛攻をガードするボクサーさながら。怪談の苦手な彼なりの抵抗である。
「ねぇ──」
「だから!」
 春雄はくわっと顔を上げた。ガードなどいくら続けたところでジリ貧である。ならば反撃あるのみ、と、勇猛果敢に目を見開いた彼は、軽いステップと共に拳を前に構えた。その隙だらけの顎に強烈なカウンターを喰らわせてやろう──誠也はまさに隙だらけで、あらぬ方向を見つめながらあんぐりと口を開いていた。
「ねぇ」
 誠也の声ではない。その視線の先。空気を震わせぬ奇妙な声は少女のものだった。
 再びガードを固めた春雄はサッと教室の扉を振り返った。そうして呆然としてしまう。
「来て」
「は……?」
 それは何とも奇妙な光景だった。
 赤い糸の縫われた白い布がふわふわと廊下を漂っている。さらに手前では銃身の細い拳銃を構えた男が白い布に捕らわれている。そんな白い布の浮かんだ廊下に一人の少女が佇んでいる。その少女はまるで火に巻かれた後のように全身が黒く煤けていた。
 お化けだ──。
 心臓が高跳びするような恐怖を覚えた春雄はさらなる猛攻にダウン寸前のボクサーのように背中を丸めてしまった。今にも怨霊の冷たい手が頬に触れるのではないか。足がガクガクと震え始める。顔が真っ青に細っていく。だが、何も起こらない。怨霊の声はそれ以上聞こえてこない。
 もしや居なくなったか──春雄はそっと周囲の様子を伺った。そうして目の前にいた少女の黒い頬に飛び上がる。山本千代子はそのクリクリと丸い瞳を上目に、春雄の顔をジッと覗き込んでいた。
「お、おばあ……! ばば、お、おば、ば、お化け……!」
「千代子ちゃんだよ。大丈夫、良いお化けだから」
 誠也は呆れ返ったように腰に手を当てた。そうして廊下に視線を戻すと、今や蜘蛛の巣に囚われた獲物のようにぐるぐる巻きとなった男を訝しげに睨んだ。
「それで、この人はいったい……?」
 男は懸命に体を揺すりながら銃口の先を教室の中に向けようと唸っていた。随分と痩せこけた男である。脂の浮かんだ髪と顎を覆う無精髭が汚らしい。目ばかりがギラギラと異様な光を放っている。ただ、詰襟の黒い洋服は厳かで、それが男の粗暴な顔付きと合っておらず、何やら不吉な気配を感じた誠也は慌てて男から視線を逸らした。
「来て」
 千代子は未だ亀のように丸くなったままの春雄の服の裾を引っ張っていた。春雄はといえばやーやーと震えるばかり。一向にその場を動こうとしない。
 とにかくこの不気味な男から早く離れた方がいいだろう。そんなことを思った誠也はリコーダーを持ち上げ、「ピッー」と不快な音を春雄の耳元に響かせた。同時に銃声が轟く。白い布に捕らわれていた男が天井に向かって発砲したのだ。春雄ははっと背筋を伸ばすと、リコーダーを口に顔を真っ赤にした誠也と、拳銃を両手にもがく廊下の男を交互に見つめた。
「な、なんだ……?」
「来て」
 千代子はそう小さく叫ぶと、有無を言わせず春雄の腕を引いた。誠也もまたゾッと頬を青ざめさせながら春雄の背中を押し始める。教室を出て、白い布に捕らわれた男の真横を過ぎると、三人は一斉に走り出した。再び銃声が三人の背後で響き渡る。
「ど、何処に行くんだ?」
「出口」
「出口があるのか!」
「ある」
 三人の足音に校舎全体がキシキシと軋み上がった。底が抜けやしないかと春雄は不安げに足元を見下ろした。
 昇降口らしき扉の前である。階段を飛び降りた誠也はわっと両手を上げた。黒い制帽を被った四人の男が目の前に立ち塞がっていたのだ。男たちは拳銃を片手に、白い刀の柄に手を当てていた。
「こっち」
 無数の白い布が男たちに向かって舞い上がった。だが、男たちは表情を変えない。
 先頭に立っていた男が、一閃、抜き去った刀で白い布を横に薙ぎ払った。
「怪しい術を使う」
 そんな声が背中に届く。
 すでに誠也たちは講堂のある校舎の東側に向かって走り出していた。


 いつまでも歩き続けられるような気がした。
 でも、その場に蹲ってしまいたいと、吉田障子は下を向いていた。
 廊下がいつもよりもずっと狭い。
 ただ、果てしないほどに長い。
「それでも行くんだよね」
 障子は小さく首を振る。
 耳を塞いでやりたかったが腕を上げるのが億劫だった。
 言い返してやりたかったが言葉は浮かんでこなかった。
「放っておけないもんね」
 だから、首を振ってやった。それが彼に出来る唯一の抵抗であった。
 障子はただひたすらに悲しんでいた。胸が潰れそうなくらいに苦しんでいた。
「だって君は王子だから」
 大野木紗夜はそう言って、障子の肩に手を置いた。彼女はその人形のように繊細な表情の上に無邪気な微笑を浮かべている。
 障子はさらに強く首を振ると、やっと小さく声を絞り出した。
「僕は王子じゃない……」
 そこに怒りはなかった。
 ただ、悲しかった。
 初恋の想いを、淡い思い出を、踏み躙られた気がした。
 いいや、それは未だに過程の域を出ない、単なる被害妄想かもしれない。だが、もし王子というあだ名にまつわる因縁が事実であったとしたなら、彼女はただ彼に王子という役目を押し付けたいがために、あの無邪気な笑みを見せつけてきたのだろうかと、そんなことを考えるだけで頭がどうにかなってしまいそうなくらいに苦しくなった。彼は王子というあだ名が大嫌いだった。それでもそのあだ名は初恋の彼女から貰ったプレゼントとして密かに大切に思っていた。その全てが今や水の泡のように脆く崩れ去ってしまいそう。さざなみのようにやがては水面に呑み込まれてしまいそう。初恋の相手に裏切られたという現実は思春期の彼にとっては何よりも悲しい出来事だった。
「王子だよ、君は王子様」
 そんな彼の心の葛藤などどこ吹く風に、紗夜は微笑んでいた。障子の腕を掴み、立ち止まらせた紗夜は、苦悩に顔を歪ませた少年の前髪をそっと撫でた。
「ほーら、王子様なら自信満々に笑ってないと」
 そこで障子は、紗夜が勘違いしているのだということを思い出して、また悲しくなった。紗夜の云う王子とは自分と入れ替わっていた三原麗奈のことを指すのだろう、と──。
 誰も彼もが自分というちっぽけな存在に王子という大役を押し付け、勝手気ままに振る舞っている。
 僅かに怒りが湧いた障子だったが、それでもやっぱり悲しくて、苦しくて、紗夜の目をまともに見つめ返してやることは出来なかった。「王子じゃない」と呟くので精一杯だった。
「王子だよ。障子くんは生まれながらの王子様」
「違う」
「違わない」
「違う。僕はただの代役だから」
「代役って誰の?」
「王子の代役」
「その王子って誰のこと?」
「知らない……」
「なんで君が代役に選ばれたの?」
「知らない」
「その人から事情は聞いてるの?」
「だから知らないってば!」
 障子は叫んだ。叫んでもやっぱり胸は苦しいままだった。ただ、何故だか泣きそうになってしまう。わなわなと震え始めた唇を噛み締めると、障子は必死に体を捻って、目の前の女生徒から離れようとした。
「知らない知らない知らないって! そんなの知るわけない!」
「じゃあ聞いてみないとね」
 紗夜はそう微笑んで、悪戯っ子のように片目を閉じると、おもむろに右手を上げた。そうして何の躊躇もなく障子の頬にビンタを入れる。ペシンッと鋭い音。障子は唖然として目をパチパチと瞬いた。さらに左の頬にもビンタを入れられると、その痛みとショックに動揺した障子はわっと膝を折ってしまった。だが、それを紗夜が許さない。可憐な女性とは思えないような力で障子を無理やり立ち上がらせた紗夜は、彼の潤んだ瞳をジッと覗き込むと、そのおでこにおでこをゴツンと重ねた。さらにギュッと抱きしめる。
「聞いてみないと分からないでしょ」
 おでこから熱が伝わってくる。甘い匂いにふわりと包まれる。
 障子は何やら不思議な気分になった。ズキズキと痛む頬。全身が温かい。誰よりも可憐な先輩に抱きしめられているというよりは、誰よりも優しい母親の抱擁を受けているといった感じである。それでも何だか嬉しくて、障子は少しだけ心が楽になった気がして、紗夜の目を間近に見つめ返すとコクリと頷いてみせた。にひひ、と紗夜の頬が柔らかくなる。
「しっかりしろ! 少年よ、大志を抱け!」
 今度はべシンと背中を叩かれる。
 流石にムッとした障子はヒリヒリと痛む頬をさすると、紗夜の顔を上目遣いに睨んだ。そんな彼の目の前に青い光が現れる。
「はい、これ」
 手渡されたのは花弁の美しい薔薇だった。海に落ちたサファイアのように鮮やかな青色で、スーッと目が覚めるような爽やかな香りをしている。
「あの……」
 障子は困惑してしまった。すると、うほんと咳払いした紗夜の人差し指がピンッと目の前に立てられた。
「少年よ、先輩として一つアドバイスを差し上げよう」
「へぇ……?」
「乙女は皆んな、青い花が大好きなんだ」
 紗夜はしてやったりといったような満面の笑みを浮かべた。
 障子は釣られて苦い笑いを浮かべるも、ますますの困惑に、首を大きく横に倒してしまうのだった。
「王子様からの花なんかは特にね」
 にひひ、とまた笑った。
 そうして愛おしげに障子の頭を撫でると「では、さらば」と、紗夜はくるりと背中を向けた。
「おい! やっと追いついたぜ!」
 まさに立ち去ろうとする紗夜に向かって手を伸ばそうとしたその時、少し高い男の声が障子の耳に届いた。驚いて振り返った障子は、こちらに向かって右拳を上げる早瀬竜司と、彼の後ろを闊歩する野洲孝之助の純白の特攻服を見た。
「元気そうじゃねぇか」
 竜司はそう言って、右の拳を正面に構えた。オロオロと右手を出し返そうとした障子は、その手に青い薔薇が握られたままだった事に気が付き、慌てて左の拳を前に出した。ゴツンと心地良い衝撃が腕に伝わる。
「つーかお前、その花は何だよ?」
「あ、これは」
 障子はサッと視線を動かした。だが、すでに紗夜の姿はない。
「先輩の花なんだけど……」
 障子はショボンと肩を落とした。いったい、花など手渡されても、どうしようもないのである。ただ、いい匂いがすると、障子は青い花弁を口元に近付けた。
 後年、それが彼女の最期の贈り物であったと知った彼は、彼女のことを思い出す度に、その花の匂いを思い出すのだった。
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