王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

全面降伏

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 寒々とした夜の校舎に銃声が轟いた。より苛烈──凶悪で乱暴な音。狭い倉庫の中をわずか一発の銃声が無秩序に跳ね回った。
 清水狂介は暫し呆然として小野寺文久の頭から垂れ落ちる赤い血の線を見下ろしていた。
 それは彼が撃ったものではなかった。銃痕は正確に文久の額の中心を捕らえている。たとえ倉庫内の数メートルの距離であろうとも、この薄暗闇の中で、それをやってのける自信はなかった。いいや、そもそもが、小野寺文久を殺すつもりはなかったのである。
「何故、逃そうとした」
 そんな背後からの声。凄まじい殺気である。
 狂介は好奇心を覚えると、それでも幾分か厳かに、そっと後ろを振り返った。
「逃がそうなどと……。ただ、何もせずとも死ぬ男だろうとは考えていた」
「嘘を吐くな」
 いったいいつからそこに立っていたのか。
 野獣のような眼をした男がこちらに拳銃を構えていた。
「三階の時点で殺れたはずだ」
 男はそう低く唸る。いいや、存外高い声である。どうにも見た目は細身の少年のようであった。ただ、醸し出される雰囲気は飢えた獣のように凶暴である。小柄で引き締まった体躯。青白い刀のように鋭い眼光。白銀の銃口の先を僅かにも動かさない。その男が誰であるかの検討はすぐについた。
「降参する」
「……何だと?」
「争う気はない。全面降伏だ」
 狂介はそう言って、サッと両手を上に掲げた。さらに右手の人差し指に引っ掛かっていた白銀の拳銃をポトリと落としてみせる。
「そもそもお前は誰だ?」
 荻野新平は何か奇怪なものでも見つめるように目を細くした。
「俺は部外者だ。それにまだ子供だ。荻野さん、貴方も子供は殺したくないでしょう?」
 そんな拍子の抜けた事をいたって真面目に言うのである。両手は挙げられているも彼の肩に力が入っているようには見えない。
 新平は無表情に銃口を下げた。ただ、警戒を解いたというわけでなく、いつでも飛び掛かれるよう、狂介の挙動からは目を離さなかった。


「待つんじゃ──」
「まつんじゃ?」
 睦月花子は眉を顰めた。
 突然、和紙を擦り合わせたような乾いた声が響いたのだ。
 月明かりに仄暗い戦前の教室である。窓辺に浮かんだ埃が微かにざわめいている。
 今や意識のない吉田真智子を片腕に抱きながら、花子は怪訝そうに、開け放たれた引き戸を振り返った。
「その子を離してやれ」
「お婆ちゃんじゃない!」
 現れたのは姫宮詩乃だった。姫宮玲華の祖母である老婆もまた、満身創痍の花子ほどではないが、全身にひどい火傷を負っている。それでもその鷹が如き鋭い目付きは健在であり、老婆の青い視線は真っ直ぐ吉田真智子の閉じられた目に向けられていた。
「姫宮さんだっけ。確か玲華ちゃんのお婆ちゃんなんだよね。生きてたんだ」
 三原麗奈は感情のこもらない声を落とした。そんな彼女の左手にはへしゃげたマッチの箱が握られている。
「お婆ちゃんも巫女なんだよね。なら分かるよね。それは人じゃないから。たとえ地獄に堕ちようとも、その悪霊はここで葬り去らなきゃならない」
 その冷淡な口調に夜の空気がいっそう冷たくなる。
 思わずカッとなった花子が反論の怒鳴り声を上げようとするも、それよりも早く、老婆の空色の視線が若き巫女の瞳に向けられた。
「分かっておる」
「分かってない」
「ワシがやる」
「だから……」
「後はワシがやる」
 有無を言わせぬ重々しい口調だった。
 麗奈は口を紡ぐと、マッチを一本、指の先に握り締めた。
「ダメ。失敗は許されない」
「失敗などせん」
「お婆ちゃんさ、もう引退しようよ」
「若いお主らこそもうこれ以上は関わるべきでない」
「ねぇ」
「ここからは老い先短いワシの仕事じゃ」
「あのさ──」
 マッチの先に火が灯る。
 寒々しい夜の教室にぼんやりとした光が浮かび上がる。
「半世紀以上もサボっておいて今さら何を言ってるのかな」
 麗奈は不意に唇を歪めると、赤い炎を床に落とした。
「怠慢だよ。この化け物が生まれた原因。全部全部全部、何もかもアナタたちのせい。アナタたちの怠慢のせい。アナタたちが私のように全てを投げ打って動いてくれていたら、全力でこの夜と向き合ってくれていたら、村田みどりも吉田真智子も、醜い怨霊としてでなく、普通の少女として平凡で穏やかな人生を歩めたかもしれない」
 夜の教室には黄色く染みた紙が散らばっていた。その上を、チロチロと揺れる薄い炎が、やけにゆったりと燃え広がっていった。
「小野寺文久は普通に嫌なヤツで、木崎隆明は普通のサラリーマン。荻野新平はヤクザにでもなってただろうけど、でも親友が生きてさえくれていたら、警察官にだって何だってなれたかもしれない。その親友──白崎英治はちょっとモテたから、だから女の子にだらしなくって、クラスでは人気者のスポーツマンで、普通に可愛い吉田真智子と付き合う未来はおんなじで、でもすぐに別れちゃって……でも、やっぱり気になって、だから大人になって再会して、また付き合うようになって、今度は本当の愛で、そして、結婚する……。私……私は……私も紗夜と普通に仲の良い友達って感じで、期末テストの話をしたり、休みの日に何をするか計画立てたり、将来のことを真面目に考え合ったり、たまに好きな人の話でふざけ合ったり……。喧嘩もするし、仲直りもするし、笑い合うし、慰め合うし──でも、そんなのは全部夢の中の夢のお話……! 全部……全部全部全部……全部アナタたちのせい! 何もかもアナタたちの怠慢が招いた結果! それを今、私たちの世代で尻拭いしてる! 今さら……今さらだよ。今さらしゃしゃり出て来ないでよ。本当にお願いだから、本当に目障りだから、だから早く死んで。お願いだから。アナタたちに出来るのはただそれだけ」
 赤々とした炎が教室を覆っていく。
 それ以上に夜の空気が冷え切っていく。
 詩乃は何も言い返さなかった。空色の瞳をジッと正面に、厳しく刻まれた頬の皺を動かそうとさえしなかった。
「あーヤダヤダ、陰気臭いったらありゃしない。なーんでそう後ろ向きに構えちゃうのかしらね」
 花子はやれやれと肩を落とした。教室は薄い炎に覆われてしまっている。ただ、それ以上に夜の空気はひんやりと寂しかった。
「アンタって別に頭は悪くないじゃない。ならもっと、こう、今さらどうしようもないことをいつまでもウジウジと悩んでないで、ハッピーな未来を迎えられる方法でも考えたらどう?」
「そんな方法はない」
「あるでしょうよ。たとえば過去自体を変えちゃうとか……。てか、そうよ! 私ってその為にまたここを訪れたのよね! ならもう盛大に過去改変しちゃって、皆んながハッピーエンドを迎えられるような最高の未来を作り上げちゃいましょうよ!」
 花子はそう爛々と片目を輝かせると、意識のない真智子を抱き寄せるように、背筋を大きく伸ばした。
「ねぇねぇお婆ちゃん、もしかしてお婆ちゃんなら過去を変える方法とか知ってるんじゃない? もしそうなら、吉田ママと吉田少年を救う手伝いをして欲しいんだけど、ねぇ、いいわよね?」
「警察に追われておるという少年であれば或いは。じゃが、その子は救えん。その子は死なねばならん。それが運命じゃ」
「何でよ! 吉田ママがヤナギの霊だからって言いたいわけ!」
「そうじゃ。どう過去を変えようともこの夜はいずれ終わらせねばならん。その際にヤナギの霊である吉田真智子の生存は許されん。何故ならば、お主らの云う通り、その子は人ではない。精神の変容した新種である。故に、その子は死後、青い海に溺れることなく、また魔女のようにまだ環境の整わぬ赤子を選ぶ必要もなく、老若男女問わず、さらには肉体の数も問わず、人に乗り移れるようになる。まさにこの夜の校舎と同様に、人の精神に侵食し、また複数の肉体を股に掛け、取り殺すことも可能となる。吉田真智子は人ではない。じゃがヤナギの木とは違い、人の感情を持つ。死後、それでも溺れることなく、その子の精神のみが異様な発達を続けていけば、やがて人類は滅ぶやもしれん。それだけは我々の手で阻止せなばならん」
「そのヤナギの木を焼いちゃえばいいじゃない! ずっーと昔に! ヤナギの霊が生まれる前に! そうすれば何もかも解決するじゃない!」
「無理だよ。だってこのヤナギの木が始まりだから」
 麗奈はそう言って、空色の瞳を僅かに落とした。
「私たちのいるここ。戦中の校舎。ここはあくまでも、私たちの時代のシダレヤナギの中にある記憶に過ぎない」
「実際に過去を変えてんのよ! ほら、アンタだって知ってんでしょ? 私に任せとけばね、ヤナギの木の百本や二百本、根本から軽々とへし折ってやるわ」
「何度でも言ってあげる。ここは現代を生きるヤナギの木の記憶の中。ねぇ部長さん、ほら、何か思い出してみて、そして少し考えてみて? ……ね、記憶なんていくらでも改竄できちゃうでしょ? でもそれで君自身が死ぬことは絶対にあり得ない」
「意味が分かんないんだけど? じゃあ何で過去が変わっちゃったわけ?」
「それは多分、この精神空間があの世と繋がってるから。でもそれはあくまでも人にとってのあの世で、たとえ人の生活や価値観が多少変わろうとも、世界自体が変わってしまうような変化は起こせない」
「あー、もう、あの髑髏野郎を連れてくるんだったわ。そしたら何か解決策が見つかったかもしれないのに」
「根本は変わらんという話じゃろう。大戦の敗北。廃墟の街からの復興。どうじゃ、変わってしまったという過去と見比べて、校庭のシダレヤナギの老木に何か変化はあったか? のう、ないじゃろうて、お主の云う変化とはあくまでも小さき人の目線の上でのことであり、その娘の云うように、この夜を覆すような変化は起こせん。シダレヤナギはワシらの生きておる時代からしか葬ってやれず、すでに生まれておるヤナギの霊たちもまた、救ってやることは叶わん」
 パチパチと木の弾ける音が静寂の夜を僅かばかり彩っている。薄い炎から眠気を誘うような光が伸びている。
 唐突に吉田真智子の目が開いた。
 途端に臨戦体制となった花子の腕に青黒い血管が浮かび上がった。
「待て!」
 老婆は乾いた声を上げた。
 麗奈もまた「待つな!」と焦ったように叫んだ。
 咄嗟に真智子の首を押さえた花子だったが、それでもその心は落ち着きを保っていた。万が一にも首の骨を折ってしまわないようにと、超人の域にある腕力を慎重にコントロールする。決して逃がさぬようにと、真智子の瞳をジッと覗き込む。
 ふと、花子は腕の力を抜いた。
「ちょっと、アンタ……大丈夫?」
「は……やく」
「はあん?」
「はやく殺して」
 ヤナギの葉擦れのような微かな声だった。それっきり真智子は、死を待つばかりの孤独な老人のように、押し黙ってしまった。
 花子は返す言葉が見つからず、途方に暮れた。そおっと詩乃の方を振り返ると、意味もなく首を傾げてみる。詩乃は変わらず険しい目付きで、花子に対して頷き返すこともなく、ただほんの少しばかり哀れむように乾いた唇を結んでいた。
「ダメ。やっぱり任せられない」
 そう、誰に言うともなく、麗奈は一人呟いた。そこに先ほどまでのような激情はなく、若き巫女はひたすらに疲れ切っている様子だった。
 花子は無言で、すぐ側にあった背の低い椅子に真智子を座らせた。もはや真智子はされるがままで、悲痛な声を上げることも、そのどんよりと曇った瞳を動かすこともなく、よりいっそう寒々と仄暗い夜の片隅に、痩せ細った身を沈めてしまった。
「後はワシがやる」
 もはや返す言葉もない。ただ、それでも麗奈は一向にその場を動こうとしなかった。
 ため息まじりに頭を掻いた花子は今さら左腕がないことに気が付いたように眉を上げた。そうして右の手のひらを大きく開くと、何時迄も立ち竦んだままの麗奈の尻をペシンと叩き上げた。
「いぎゃっ!」
「いつまでボーッとしてるつもりよ。暇ならちょっと私を手伝いなさい」
「その前にセクハラで駆除してやる!」
「その前に過去を変えるわよ。やっぱりこのままじゃ終われないわ」
 花子はそう言うと、薄い炎の影に飲まれつつある女の横顔を見つめながら、うーうーと怒る麗奈の腕を引っ張っていった。
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